14 束の間の幸福は泡と化す

「おつかれー、どうだったー?」

「いやぁ~緊張しましたよ~」


演奏が無事終わり、杏奈ちゃんと私は控室で楽器をしまいながら談笑する。

口を適度に動かしながらも、弓や弦にこびりついた松脂まつやにをクレモネーゼで拭き落し、弓の毛を弛めてふわふわにしたものをケースをしまい、…といういつもやっていることは無意識にやっている。この両立ですら最初は上手くできなくて、片付けの際に置き場が近くて当時仲良くしていたユーフォニウムの子と話していたら 早くしろ、と先輩に怒られることが多々あったものだ。それを思い出せば、やはり杏奈ちゃんは賢い。

…テストの成績も学年3位だそうだし、こういう子はきっと県内でもトップクラスの高校に入るんだろうな。


まだ彼女は受験生じゃないし私のライバルでもないのに、どこか嫉妬する自分がいた。




トラックに楽器を積むのが終わると、ホールに戻って、閉会式の眠たい講評を前から後ろに聞き流して会場を出た。

歩く、歩く、ひたすら歩く。

行きは車だったから知らなかったけど、駅からこんなに距離があるのか。この演奏会の企画者は会場選びを一体どうやって決めているのだろうか、運動神経の悪い中学生にはなかなかつらい。




気の遠くなるような道のりを歩き、電車に揺られ、ようやく学校に着いた。トラックから楽器を運び出し、担いできた弓ケースを棚にしまう。

そして帰りのミーティング。普段は呼びに行ってもなかなか来ない顧問だが、今日はいつもより早く音楽室に来た。

「今日はお疲れ様でした、明日は10時からにするので、皆さんゆっくり休んでください」

そこは13時からにしろよ。というかその時間だと反省と掃除とサントレくらいしかできませんよね。大会の本メンバー選出はいつ行うんですか?

「「ありがとうございましたさよなら!」」

心の中には不満をいっぱい詰め込みながらも、帰りの挨拶は普通にできている自分が自分で恐ろしい。まるでロボットみたいだ。



校門を出ると、学校から徒歩15分の駅まで早歩きで行く。駅方面を歩けば、下校方面の被る苦手な同級生や苦手な2年生の面々を避けることができるから。

忌まわしい、私の害虫たちを。


駅ビルの本屋の入口に滑り込み、そのまま文庫コーナーへ向かう。この間のメールで学さんが勧めてくれた作家の本を目で探す。なかなかない。文庫コーナーに足を踏み入れることにまだ慣れていないから、出版社別に分けられているという法則性を導き出すのにも少々時間がかかった。


…あ。


あった。ついに見つけた。有名な作家でないのだろうか、見つけた本の横には同じ作家名の本はなく、次の行の作家に切り替わっていた。夏目漱石の隣にいた、その本を手に取り、ぺらぺらっとめくる。

いったん本棚に戻し、そのまま来たところとは違う出口から駅ビルを出る。

(本屋で買うと高くつくので、明日図書館に行って借りてこよう)

駅の構内の柱にもたれかかり、ふと思い出したように携帯を開く。


新着メール、1件。


差出人は、学さんだった。なんという偶然だろう。どきどきしながらメールを開く。


〈こんにちは

今日は久しぶりにいまから草壁に行こうと思ってるよ~〉



思わず、胸が高鳴る。


学さんが、私の地元に来る。

会ってみたい。


少しくらい、平気だろうか。そう思いながら時計を見ると、もう少しで18時になろうとしていた。


…やばい!帰らないと。親に怒られる。絶対に、怒られる。


走って駅を飛び出し、そのまま体力が続くようにゆるゆると走りながら、学さんからのメールを一度閉じて、母親のメールアドレスにメールを打つ。


〈今学校おわった。これから帰ります〉


この手の時間のごまかしならお手の物だ。ただ、もう少し自由が欲しい。もっと上手に言いくるめられないものか。

とりあえず、このメールを送信したことで、もう走る必要はなさそうだ。スクランブル信号で止まる。

息をととのえてから、改めて学さんのメールを開き、返信を打つ。


〈こんばんは!

今は部活の演奏会が終わって、帰っているところです♪

えっ!こっち来るんですか!?駅前はもう通り過ぎちゃった…またの機会ですかねぇ

たぶん家帰ったらまた取り上げられちゃうので、返信不要です〉


送信完了、の表示が出てから、ふぅとため息をつく。

学さん。どんな感じなんだろう。

理系、数学、大学生。

この3拍子がそろって浮かび上がった学さんの想像上のシルエットは、1年前に図書館で借りた眼鏡をかけた男性がたくさん載っている本の表紙モデルをしていた人みたいな、黒髪に無造作な髪型で黒縁眼鏡をかけ、文庫本片手にけだるそうに3人掛けくらいの大きさのソファーに座り、細身な体に白シャツとチノパンを合わせ、グレイがかった薄暗い部屋に佇んでいた。部屋は広く、物は少なめのシンプルな感じ。そんなイメージだった。



勝手に妄想をふくらませながらも、気づいたら手元は家の鍵を開けていた。

「ただいまー」

ドアを開けるなり、気持ち大きめの声で帰宅を告げるのは小学生の時からの癖だ。


「おかえりー」

返ってきた声は、意外にも父親のものであった。

「ママは?」

「まだだよー」

「携帯取り上げられてたから、戻すわ。持ってて」

「いや、しらねーよ。ママ帰ってくるまで持ってていいよ」

まじか。

「わかったーありがとう」

そのまま、逃げるようにリビングをあとにして、自分の部屋に入る。

父親は案外、私の携帯に対してゆるい。母親ほど執着しないので時々救われる。それ以外は嫌だけど。



折角受信した学さんからのメールを削除しなくてはならないこの悲しみ。

これを解ってくれる人は稀だと思う。親が格別に厳しくないと体験しようのない複雑な感情である。

しかし、消さないとばれてしまう。すべてが終わってしまう。ストレスから解放される、至福のひとときが。


メールが消えても、私と学さんのつながりは、決して消えることがありませんように。


強く願いながら、メールを送受信ともにすべて削除する。

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