人類最大の発明である文字についての考察を、古代の司書に仮託して論じたお話。
他者に対し共通の認識を与える存在でありながら、川と河の間に宿る些細な差のように、そこからは幾らかの情報量が喪失されている。
しかしながら、その文字が象るモノ、発音には、確かに全ての人類に等しく受け入れられる、共通知が宿っている。
文字とはなんなのか。
現代、人類の知識は0と1のパターンや三角関数の波形によって置き換えられようとしている。その方向性と同じく、文字という発明もまた、余計なものをそぎ落とし、本質的な何かを抉り出そうとする、人類の壮大な取り組みだったのかもしれない。
故に抉り出された文字はきっと不滅なのでしょう。
文字は発明だ。歴史を後世に残すためにも、軍の伝令として使うにも、知識を同胞へ伝えるにも、文字がないと正確性にかけてしまう。口伝という形では情報の伝達に限度があった。なぜなら言葉の発信者と受信者が持っている主観によって受け取る情報が左右されてしまうからである。
そこでこの物語が登場してくる。文字には霊が宿るというテーマだ。アッシリアという古代文明が舞台であり、粘土板によって文字を描写していた時代の話になる。
物語の視点人物は、老人のくしゃみに注目した。くしゃみという名詞には「鼻から飛沫を飛ばして身体を大きくのけぞらせる」という動作が圧縮されていることに衝撃を受けるわけだ。
現代風にいうならGUIである。グラフィカルユーザーインターフェイスの略称で、わざわざキーボードでプログラムの呼出し命令を直打ちしないでも、映像表示されたモノをマウスでクリックするだけで望んだ動作が可能になったことをいう。
つまり人間の動作だろうと動物の名前だろうとプログラムだろうと、なにか特定の文字に、共通認識のキーワードを封入することで、連想のショートカットが可能になるのだ。それもかなり正確な。
よく小説の指南本に描写と説明の違いが語られるが、描写とは文字に宿った幽霊をおちょくることに他ならない。たくさんのキーワードが圧縮された「くしゃみ」という表現を選択せず、あえて「鼻から飛沫を飛ばして身体を大きくのけぞらせる」という圧縮されていない情報を並べることで迫力を出していくからだ。
しかし文字の幽霊をおちょくったままでは文章が意味もなく膨らんでいくため、圧縮された説明を使うことでリズムを作る。適材適所というわけである。
もしかしたら作家は文字の幽霊と二人三脚で作品を作っているのかもしれない。
もしレビュワーの長ったらしい自説開示で本作に興味を持ったなら、ぜひとも読んでほしい。あなたもなにか語りたくなるだろう。
人は必ず死にます。
親や友人が死に、自分が死に、子孫もやがて死にます。
死にはしなくとも、病気や怪我で継続的な精神活動、則ち自己や自我はいつ変質、消滅しても可笑しくはありません。
自己は有限です。それはどんな人間にとっても恐ろしく絶対的なモノです。
死から一切目を逸らさずに見つめ続けている状態で健全な自己は形成出来きず、多くに人は己の命が子孫に受け継がれる事、己の生きた証となる作品や偉業に慰めを求め憧れを抱きます。或いは、次なる転生や極楽浄土へ召し上げられる希望で死への虚無を塗り潰します。
文字による記録は個々の媒体の耐久性に左右されるとはいえ、言語自体の意味の永続性は確固たるモノに感じられます。
アッシリアの史実や神話が現代まで残り、人類が破局を迎えるまで伝え続けられるだろう言葉の持つ意味の永続性を筆者は著しています。
言葉の持つ、永遠の命かのように感じられる永続性に、人は霊性と憧憬を感じるのです。
感覚は他者へ共有できません。
捻挫の痛みを担当の医者に説明する場合、歩けない程痛い、焼けるように痛い、ズキズキと痛い、と何かに例えて痛みを伝えようとしても、正確に自分の感じている痛みを表現し伝えることは出来ません。自己の中に起こった感覚を正確に言語へ変換することはできないのです。
我々は正確には伝っていなくとも、社会生活を送る上でさしたる問題が発生しない程度の意思と意味のすり合わせを互いに行い、その落とし所で納得して生活しているのです。
個々の言葉の持つ意味は限定で、かつ相対です。単語が文節が文章が互いに補い合うだけでなく、読み手の置かれる状態、時代、立場、心情、言葉の周りに置かれるすべての事象に補われ、意味と価値を変化させて行きます。
筆者が作中で河と水たまりの転義で著したのは、このような言葉の持つ意味の相対性です。
言葉の意味の永続性。言葉の意味の相対性。
筆者が本作で画いたのは言葉と文字の意味の双極の揺らぎです。
揺らぎは美しい旋律となり、この物語を読む人の心に新たな想起を起こすことでしょう。
「芸術の内容も形式も、表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし設定されない。そして、これを表現したものは、じっさいの人間だ。それは、さまざまな生活と、内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる。」と吉本隆明は記しています。
その作品の意味や価値や美は時間と場所と人で相対的に変化をするのです。この表現された「美」が「文字の霊」なのだと感じます。表現者の想起を背負った文字の霊は自己表出と指示表出を経て作品の中で屍として整列するのです。
この「事」は誰もが理解し日常で実践している「自明の事」ではありますが、はっきりと輪郭を持って認識している人は少ないのでは無いかと思います。そんな当たり前の事だけど、薄ぼんやりとしている事をストーリー仕立てで寝る前にさっくり読める。そんな素敵な作品です。