言葉の美しい響き

人は必ず死にます。
親や友人が死に、自分が死に、子孫もやがて死にます。
死にはしなくとも、病気や怪我で継続的な精神活動、則ち自己や自我はいつ変質、消滅しても可笑しくはありません。
自己は有限です。それはどんな人間にとっても恐ろしく絶対的なモノです。
死から一切目を逸らさずに見つめ続けている状態で健全な自己は形成出来きず、多くに人は己の命が子孫に受け継がれる事、己の生きた証となる作品や偉業に慰めを求め憧れを抱きます。或いは、次なる転生や極楽浄土へ召し上げられる希望で死への虚無を塗り潰します。
文字による記録は個々の媒体の耐久性に左右されるとはいえ、言語自体の意味の永続性は確固たるモノに感じられます。
アッシリアの史実や神話が現代まで残り、人類が破局を迎えるまで伝え続けられるだろう言葉の持つ意味の永続性を筆者は著しています。
言葉の持つ、永遠の命かのように感じられる永続性に、人は霊性と憧憬を感じるのです。

感覚は他者へ共有できません。
捻挫の痛みを担当の医者に説明する場合、歩けない程痛い、焼けるように痛い、ズキズキと痛い、と何かに例えて痛みを伝えようとしても、正確に自分の感じている痛みを表現し伝えることは出来ません。自己の中に起こった感覚を正確に言語へ変換することはできないのです。
我々は正確には伝っていなくとも、社会生活を送る上でさしたる問題が発生しない程度の意思と意味のすり合わせを互いに行い、その落とし所で納得して生活しているのです。
個々の言葉の持つ意味は限定で、かつ相対です。単語が文節が文章が互いに補い合うだけでなく、読み手の置かれる状態、時代、立場、心情、言葉の周りに置かれるすべての事象に補われ、意味と価値を変化させて行きます。
筆者が作中で河と水たまりの転義で著したのは、このような言葉の持つ意味の相対性です。

言葉の意味の永続性。言葉の意味の相対性。
筆者が本作で画いたのは言葉と文字の意味の双極の揺らぎです。
揺らぎは美しい旋律となり、この物語を読む人の心に新たな想起を起こすことでしょう。