第6話 家

 私は青年と手を繋いで、いつもよりゆっくりと歩いた。普段は目的地を明確に持ち、スタスタと迷いなく進んでいく青年も、もう少しで居なくなるからだろうか、一歩一歩を踏みしめるように歩いている。だが、青年の顔に寂しさや名残惜しさなどは微塵も感じられないので、私の警戒を解くためにそうしているのかもしれないと思った。

 私と青年は駅を離れ、大きな道路を渡り、私には理解できない言葉で何か書かれているアーチに向かう。理解はできないが、おそらく『ようこそ○○へ』くらいのことが書かれているのだろう。

「この先の商店街も、街の名所なんだ」

 青年がアーチの先のことを説明する。

「西洋風―――私と最初に回った国々のような造りの建物が並んでいてね。商店街というより、ショッピング街と言ったほうが合っているかな」

 私は青年が言ったこの言葉はあまり理解できなかったが、アーチを抜けた先の景色を見て、名所となっている理由を把握した。

 赤レンガが敷かれた大きな道。その左右に並んだ色とりどりの建物は、女の子が遊ぶおもちゃの家のように可愛らしい。まるでおとぎ話に紛れ込んだかのような錯覚に陥る通りだ。また、ガラス越しに見える店の品物も、人目を引く洋服や可愛らしい雑貨、アクセサリー、さらに、ここまで甘い香りが漂ってきそうなケーキなど、これまた女の子が好きそうなものが並んでいる。女の子っぽいものなど無縁の生活を送っていた私でさえも、自覚していない乙女心がくすぐられて思わず見入ってしまった。

「可愛い通りだよね。一本道を入れば男物の店もあるんだけど、メインの通りはほぼすべて女性をターゲットにしているんだ。これを見ると、女性が経済を回しているってことがよく分かるよ」

 青年が楽しそうに教えてくれる。私はこの言葉もすべて聞き取れたわけではなかったが、視線をあちこち遣るのに忙しくて、聞き取れてもどのみち聞いていなかっただろう。

 そうしてキョロキョロしていたので、私の歩くスピードが遅くなったのだろう。青年が握っていた私の手を軽く引っ張った。

「後でゆっくり見るといい。今日から君はこの街で暮らすんだ。時間はたっぷりあるよ」

 その言葉に私は周りを見るのをやめて、青年を見上げた。これから私がどうなるか、説明してくれるのだろうか。

 青年は前を向いたまま、どこから説明しようかな、と顎に手を当てて考えた。

「……この通りを抜けて、さらに先に進んだ街の外れに、私が大家をしている家があるんだ。そこには君と同じようにちょっと変わった人間、というか人間じゃない人たちが住んでいる」

 ちなみに私が人間ではないというのはこのとき初めて知った。人外の見世物小屋にいたということも後で教えてもらったくらいなので、自分がそのような存在だとは知らなかったのだ。

「もしかして、自分が人間じゃないって知らなかったかい? そうか……ごめんね、教えておけばよかった」

 私が相当驚いた顔をしていたのだろう。青年が珍しく顔を曇らせた。しかし、すぐにいつもの穏やかな笑みに戻り、前を見て歩く。

「家に着いたら他の人にも紹介するから、そのときに詳しく教えてあげよう。大丈夫、みんな人じゃないし、意外にそういう存在はたくさんいるんだ」

 ちなみに、と青年がこちらを向く。

「私は悪魔だよ。悪魔って分かる?」

 アクマという言葉は聞いたことがなかったので、私は首を横に振る。

「悪魔も人間じゃない種族のひとつだよ。むしろ人間よりも古くから存在するものなんだけどね。私たちは人間が知らないだけで、普通に生活しているんだ。ただ、人間にそれが知れると色々と厄介なことになりかねないから、正体を隠している。私の故郷はこの地上ではないから、いざとなってもそこに戻ればいいだけだけど、君のように地上でしか生きられない者たちはそうもいかない」

 青年はそこで立ち止まり、私を見つめた。いつもの笑みと変わらず穏やかだが、私に否を言わせない圧迫感があり、心情がまったく読めないその笑顔に初めて恐怖した。

「だから、決して正体を知られてはいけないよ。いいね?」

 私はただ頷くしかなかった。青年はそれに笑みを深め、再び前を向いて歩く。

「まあ、私も君たちが安全に暮らせるように配慮しているから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。私は君たちが人間に追われる危機感や、まともに暮らせない絶望感を感じず、穏やかな生活を送れるように計らっている。その代わり、私のために少し働いてもらっているんだ。君にもそのうち働いてもらいたいと思っている」

 つまり、私に働いてほしいがために私を檻から連れ出したのだろうかと、青年の目的が少し見えた気がした。しかし、安全な住みかというのが檻ではないとは限らないと、私はまだ警戒を解けないでいた。

「強制ではないよ。もしそれが嫌なら人間として暮らせるように取り計らおう。大丈夫、もう一度あんな場所に戻すようなことはしないよ」

 青年が私に微笑む。相変わらず読心術でも使えるのではないかというほどに、私の意を汲んでくる人だと思った。

「と言っても、うちに来たほうがのびのび暮らせるとは思うけどね。他の住人たちも助けてくれるだろうし。まあ、それは実際に見てみて判断するといい」

 向こうに道の終わりが見えてきた。青年の話の通りなら、あの先を進むとこれから住む家が見えてくる。

「君にはすぐに働いてもらうわけではないから、仕事については始めるときに教えよう。……なんだかあまり説明になっていないような気がするな。でも家に着いたらまた少し話すし、とりあえず今はみんなと一緒に家に住んでほしいということだけかな。あとは正体を知られないように注意してもらえれば」

 その正体さえまだ教えられておらず、すべての疑問が解決したわけではないのだが、また後で話すというし今は良しとしようと私は自分を納得させた。今まで青年は答えられる質問にはすべて答えてきてくれた反面、そうでないものはたとえ私が疑問を顔に浮かべても、まるでそれに気がついていないかのように「答える気はありません」という態度を見せてきた。だから青年が話す気がないことを聞いても、絶対に答えてくれないだろうということは分かっていた。

 入り口と同じアーチをくぐるとおとぎの国が終わりを告げ、現実味を帯びた大きい道路が再び現れる。私たちはその道路も渡り、左へと曲がって進んだ。最初、右手には家とおぼしき建物が遠くまで並んでいたのだが、徐々にその数が減り、木々が増え、人の気配がなくなっていった。左手、おとぎの国があった道路の向こう側には、細い道と何かの店と思われる建物が見えていたのだが、

「あそこはあまり近寄らないほうがいい」

 と青年に言われ、改めて見てみると、おとぎの国と違って薄暗く人もいない、危ない香りのする場所だと思った。

 渡ってきた大きい道路に沿って歩き続けると、生い茂る木々の合間を縫うように延びる坂道が右前方に現れた。ここまで来るともう人の家は完全になくなり、右手はちょっとした山になっていたのだが、ちょうどそこを登っていくような道だ。人もあまり通らないのだろう、車一台が走れるほどの幅しかないその道は、コンクリートではなく土が踏み固められて出来たものだった。

「この先だよ」

 と、青年はその坂道を示した。やはり人ならざる者たちが住む場所は人目を逃れるようにあるのだなと、私は妙に感心した。

 私は青年と共に大きい道路を離れ、坂道に入っていく。急な坂だが、特に辛いとは感じない。それよりも木々がトンネルのようになっていて美しく、私はキラキラ光る木漏れ日を夢中になって見ていた。

 そうしてしばらく無言で歩き、山の中腹を過ぎたあたりに目当ての家があった。「見えたよ」と青年に声をかけられ、道の先を見上げる。木々のトンネルがなくなり、開けた場所に屋根と塀の一部が見えた。私は僅かに緊張し、最後の距離を青年と共に詰める。

 そして家の前まで来た私は、思わずぽかんとそれを見上げた。大きい。初めて宿を見たときも同じ感想を持ったが、その家は宿と同じか、それ以上に大きい洋館だった。見上げるほど高い門と塀に囲まれたその洋館は、やはり宿と同じく門から玄関まで距離があり、その間を緑の垣根と花々が美しい彩りを添えている。洋館自体は厳粛な雰囲気を醸し出す立派な造りをしているが、古びて全体に蔦が絡まっていることから、人に忘れ去られたかのような寂寥感と気味の悪さがあった。

 また、外観のマイナスイメージからではない、「何かいる」という確信めいたものが、私の危機を察知する部分の感覚に引っ掛かった。誰かは確実にいるが、人間の気配でも、犬猫のような動物の気配でもない。未知の生き物が潜んでいる、そんな感じがした。

「さあ、今日からここが君の家だよ。……おいで」

 青年は私の手を離し、キィィという高い音を鳴らしながら門を開いた。そして再び、私に手を差し出す。

 私はこの怪しい気配がする家に、足がすくんでいた。青年は大丈夫だと言っていたが、それが真実である保証はどこにもない。青年の手を取り、この門をくぐってしまえば、もう引き返せない気がした。私はまた、檻から青年に手を差し出されたときのような、今までの私の世界が壊れてしまう場面に立たされたのだ。

 しかし、一度めの選択で世界の崩壊を選んだ私は、二度めの選択でもまた、同じ選択をした。どのみち引き返せない、後ろの道など、とうに壊れてしまって無いのだから。

 私は青年の手を取り、門をくぐった。

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