第15話 捜索

 純子からの連絡を受けて雪那は走って帰ってきた。ただの迷子でも厄介なのに、狼人間の子供が魔窟の山に迷い込んだかもしれないなんて、最悪だ。

「純子!」

 リビングのドアを開けるなり、雪那は叫んだ。背を向けていた純子は振り返り、近くにいた蓮太郎はわずかに目を動かしてこちらを見る。

「雪那さん」

「いたか?」

 雪那は問うたが、予想通り純子は首を横に振る。

「今、縁さんが街のほうを見に行ってくれています。街中の猫に声をかけているので、そっちにいればすぐに見つかるはずです。山のほうも、蓮太郎さんが飛んで見に行ってくれたんですが……」

 純子の言葉に、蓮太郎が目を伏せながら答える。

「……あの山は歪んでるからな。上から見ただけじゃわからない。中に入っても、見つかる保証もない」

 普通の山なら、蓮太郎は音なり匂いなり気配なりで子供一人くらい容易に見つけることができるだろう。しかし、魔が蔓延るあの山では感覚が歪んだり、空間自体が歪んだりして正しくものを把握することは不可能だ。山の中に降り立ち、しらみつぶしに探せばいつかは見つかるかもしれないが、それでは月が満ちて子供が狼に変身してしまう。もはや日が落ちて久しく、時間がない。

「………見てみる」

 おもむろにそう言うと、雪那は帰って来てから肩にかけっぱなしだった鞄をどすっと床に落とし、屈んで中を漁った。ぐいっと腕を奥まで突っ込み、手が床を突き抜けているのはないかというほど体を沈める。実は鞄の先は自室と繋がっているのだが、誰も魔法使いの雪那の行動に疑問など持たない。二人とも黙って見守っていた。

 やがて腕を引き抜いた雪那の手には、黄金に光る大きなコンパスが握られていた。その作りは古く針が何本もあり、周りは金粉でも舞っているかのようにキラキラと輝いている。それをテーブルに置いた雪那は手をかざしながら、どこの言語か知れない長い言葉を紡いだ。すると、ぶわっと風が起こり、コンパスの針がくるくると高速に回り出す。雪那がさらに言葉を紡ぐと、やがて回転は遅くなり、突然ピタッと止まった。

「縁を戻せ、街にはいない。やっぱり山の中だ」

 雪那はそう断言すると、さらにどこかの言葉を続ける。しかし、今度は針の位置が定まらず、止まったと思ったらくるりと回転し、左右に振れ続け、止まる気配がなかった。

「やっぱり正確な位置は分からない。それにあの子供、おそらく移動してるな」

「無事なのですか」

「怪我してるかは分からないけど、歩けるくらいのコンディションではあるみたいだな」

 もう少し待ってろ、と雪那はさらにコンパスと向き合う。言葉を紡ぎ、力を籠め、子供の場所を把握しようと集中したが、いくらやっても邪魔が入り、霞がかった状態が続いた。これ以上は無理だと判断し、一旦ふぅ、と力を抜いた。

「おそらく西だ。俺はここにいるから、二人とも、直接探しに行ってくれないか。お前らが近くに行けば、多少は分かりやすくなるかもしれない。分かったらすぐ伝える」

 その言葉を聞いて、蓮太郎は無言で窓に近づく。その背中に蝙蝠のような羽がぞぞっと生え、一回の羽ばたきで一瞬にして夜の闇に消えた。純子は「分かりました」と言って空気に溶けるようにすぅっと消える。一人になった雪那は再びコンパスに手をかざした。

 見つけなければ。

 雪那は集中するために目を閉じた。




 私は目覚めた時、何が起きてここがどこなのか、まったく分からず数分の間ぴくりとも動けなかった。寝転がったまま、呼吸すらもひそめて記憶を探る。ここは外だ。なぜ外で寝ていた? もう暗くなっている。どのくらい時間がたったのだろう。記憶にある景色にはまだ日が昇っていたのに。そうだ、その中でボール遊びをしていて………。

 ピンクのボールを思い出したとたん、それを手放して塀に向かう自身も思い出した。ウサギだ。ウサギに「おいで」と言われて、近寄って、そしておそらく連れ去られた。

 今、ウサギは近くにいるのだろうか。いたとしたら動いた瞬間に攻撃されないだろうか。そう思って固まったまま気配を探ったが、特に生き物がいる感じはしない。意を決してそろそろと首を動かして辺りを見回してみたが、それでも視界に生き物は入ってこなかった。

 そこでようやく私は体を起こした。立ち上がってウロウロと視線を巡らす。どこへ向かえば帰られるのだろうか。幸い怪我はしていないようだし、自分の体力なら一日くらい歩き詰めでも倒れないことは知っている。だから方向さえ分かればあの洋館に帰ることができるのだが、その肝心な部分が分からないので途方に暮れた。鋭い聴覚をもってしても何も聞こえないし、敏感な鼻をすんすんと動かしても知った匂いはない。唯一効くのは夜目だけだ。そこで私は、目だけを頼りに帰ることを試みた。つまり、勘だけで歩き出した。

 しかし、当然ながら歩けど歩けど知った景色には辿り着かない。最初はザカザカと草を踏みしめて大股で歩いていたのだが、進行方向を巨木が立ちふさがり、それを避けてさらに進み、しかしまたふさがれて避けて、これではまっすぐに進めていないなと気づいた。一応、来た道が分かるようにまっすぐ進もうと思っていたのだが、早くもグニャグニャと進んできてしまったと後悔する。今からでも戻ろうかと後ろを振り返ったが、もはやどこから来たのかすらも分からない。そうして、どこまでも木々が生い茂った同じような光景の中を歩いているうちに、ここは前も通った気がする、もしかしたら同じところをぐるぐる回っているかも、と不安になり、一旦立ち止まることにした。腰かけられそうな大きな石を見つけたので、そこに座ってふぅ、と息をつく。そうして改めて周りを見回してみても、辺りには木々しかなく、何かが動く気配もない。葉っぱが鬱蒼としているせいで、前後左右どころか頭上までもが暗く閉ざされており、方向感覚が狂ってしまう。光が入らないから、私の目が暗いところでも見えなければ一歩も動けなかっただろうな、と考えたところで、その入ってくるはずのない光を視界の端で捉えた。

 二つの赤い光。まるであのウサギの目のような。

 驚いてすぐに振り向いたが、私の目が再びそれを見ることはなかった。そこには赤い光など最初からなかったかのようにしんとして暗い。気のせいだろうかとドクドク鳴る胸を押さえて、私は視線を戻した。そしてふと、ある違和感を覚える。

 あんなところに光が差していただろうか。

 右手奥の少し開けた場所に、木の葉の隙間を通って上から月光が落ちていた。なぜ今まで気づかなかったのだろう、と不思議に思いつつ、今までと違う景色に喜びを隠せない。私はすぐに立ち上がって、その場所まで小走りで進んだ。そうだ、木に登って葉っぱの上から見渡したら、方向が分かるかもしれない。そうしたらもう、地面を歩くのではなく枝から枝に渡って進んで行こう。方向も見失わずにすむし、今までよりも早く進めるだろう。考えも一気に明るくなった私は、その光の下へと身を躍らせた。

 そして、見た。

 木の葉が途切れた間から、夜空にぽっかりと浮かぶ満月を。


 あ、

 まんまる


 私の自我はそこで途切れた。

 胸の奥深くにある黒い卵がぱかっと殻を破り、そこから這い出した黒くてドロドロしたものが血管を通って体の隅々まで行き渡る。体の自由はそいつに奪われ、視界までもが黒く閉ざされる。

 完全に意識が無くなる直前、どこかで獣の遠吠えを聞いた気がしたが、それが自らの声だと気づくことはなかった。

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