第14話 失踪

「おいで」

 鋭敏な私の耳がその声を聞き逃すはずがなかった。久々に聞く、意味の分かる言葉。反射的に振り返れば、そこに生き物の姿はなく、どうやら声の主は塀の外にいるらしかった。

「おいで」

 私が動かずにいると、再び誘う声が発せられる。男の声にも聞こえるが、枯れた老婆の声のようにも聞こえるそれは、どんな生き物が発しているのだろうかと私の興味を引いた。

 しかし、塀の外へは絶対に出てはいけないと初日に大黒さんから釘を刺されている。彼の言葉に逆らうと恐ろしいことになるだろうということは本能で分かっていた。だから外に出るつもりはなかったのだが、この時、私は危険な考えが閃いてしまった。

 ――――――塀の上からならどうだろう。一応、外には出ていないし、それなら声の主も見ることができるのではないか。

 その考えは魅力的で、私の好奇心を制御不能なまでに膨らませるには充分だった。さらに、追い打ちをかけるように再びあの声が響く。

「おいで」

 三度目のその言葉が引き金になり、私は突き動かされるように塀に向かって歩き出した。私の手を離れたボールがてぃんてぃんと悲しげに跳ねる。私は草の生えた地面をさくさくと静かに進み、塀まで来ると一気に跳躍した。狼人間としての能力を使用したのは数えるほどしかないが、息をするのと同じくらい自然に使い方を知っていた。どのくらい力を込めればどのくらい飛べるのか、今回もそれが分かっていたから、私は空中でくるんと一回転してからすとんっと塀の上に着地する。ふらつくこともなく、私は声の主を見ようとしゃがんで下を見下ろした。すると、塀のすぐ近くにこちらを見上げる白い物体が一つ。二つの目は真っ赤だった。

 ウサギ、だっけ?

 私はその生き物を見たことがあった。実際にではなく、この家の図書館にある本の中でだが。純子が見せてくれた多くの動物が載っているその本の中に、確かこんな生き物がいた。白くて(茶色とかもいたが)赤い目の動物を指して、純子は「う」「さ」「ぎ」と声を発していた。

 そのウサギが、口をもごもご動かし、ヒゲをひくひく動かし、こちらを見上げている。その愛らしさは私の錆びついた乙女心をくすぐり、声の主を見たらすぐ戻るつもりが思わずじっと見つめてしまった。そして、こちらもじっと見つめてくるウサギが一言、

「おいで」

 塀の中から聞こえてきたあの声を発した。ああ、やっぱりこのウサギだったのか、と私が納得した瞬間。

 ウサギの首が、にゅにゅにゅっとものすごい速さで伸びてきて、気づいた時には私の鼻先一センチに顔があった。赤い双眸が至近距離で見つめてくる。あ、危険だ、と感じて私の心臓がドクンッとひとつ、大きく脈打ったのと同時に、再びウサギが声を発する。

「おいで」

 私が反応する間もなく、次の瞬間、視界が闇に閉ざされた。




 純子がそのボールを見つけたのは、すでに空が夕日に赤く染まり始めた頃だった。家の雑事をこなし、そろそろ夕食の支度をしなければと思ったところで、ふと子供のことが気になった。まだ名前がなく、言葉も通じず、声すら発さない子供だが、こちらの声にはしっかりと耳を傾ける。分からずとも言動の一つひとつを注意深く観察し、理解しようとしている姿に純子は、この子を大切にしようと思ったのだ。

 今日は恒例となった絵本の読み聞かせをしたあと、昼食をとってソファであの子がお昼寝を始めたので、毛布を掛けてからその場を後にした。今のうちにいろいろ片付けてしまおうと動いていたら、輝く太陽は夕日へと姿を変えている。そろそろ夕食か、と考えたところで、子供をソファに置いてきたことを思い出したのだ。

 さすがにもう起きているだろうとリビングに戻ってみると案の定、子供の姿はない。毛布がそこから何かが抜け出したことを物語るようにぽっかりと空間を作り、まるで抜け殻のようになっていた。だが、この時点ではまだ、純子は子供の心配などしない。あの子供は一人行動も多いが、その範囲はこの屋敷の敷地内だけだ。探せば出てくるだろうと純子は庭へ出た。

 そこでボールを見つけた。子供の顔より大きく軽いピンクのボール。つい先日これを買い与えてからは、よく蹴って遊ぶ姿を目撃していた。探してもなかなか見つからず、塀の間際まで足を延ばしてみれば、これだけが主に置いて行かれている。

 ざわ、と心が騒いだ。無意味にボールに近づき、それを拾う。当然、拾えば子供の居場所が分かるわけでもなく、嫌な予感が黒い泉のようにとぷとぷと溢れていった。

 ああ、探さなければ。

 そう思った次の瞬間には、人ならざる者の力を使い、表門の塀をとことこ歩いていた縁の下まですぅっと移動していた。

「縁さん」

「うおっ! なんでい、びっくりさせんな純子」

 突如現れ声をかけた純子に、縁は毛を逆立てて抗議する。それを意に介さず、純子は続けた。

「あの子を知りませんか」

「あの子? ああ、今日は知らねぇな。一緒にいたんじゃねぇのか」

 いいえ、と力なく返す純子に、縁はぎゅっと眉間にしわを寄せる。

「いねぇのか」

「はい」

「わかった。俺ぁ外回るから、中もっぺん調べてみろ。雪那に連絡して、蓮太郎も叩き起こせ」

 はい、と純子が言い終わるより早く、縁は塀の外へと降りていった。



 力が籠められ、守られた塀の外には、魔のものが多く存在する。洋館の建つ、怪しいほど木々の茂る山にひとたび立ち入れば、来た道すら分からないほど迷わされ、人間など一晩で餌食にされてしまう。狼人間であっても、山に慣れぬ子供がそこに入ったとするならば、身に迫る危険は計り知れない。

 それに、今日は満月だ。

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