壊れた世界
葛城獅朗
第1話 序
四方を柵で覆われた内側が、私の世界の全てだった。縮んで寝転がってもいっぱいいっぱいの幅に、立ち上がることを許さない高さ。そして肌を刺す鉄の冷たさ。幾度となく叫び揺さぶったその檻は、私を逃がさないだけではなく、私の精神を削るようにも出来ていた。もっとも、この内側に生きていた頃の私の精神はとうに削られて、そんなことは理解できていなかったのだが。
その日も、私は慣れ親しんだ冷たさを両足と臀部に感じながら座り、ぼんやりと世界の外を見ていた。薄暗く、人もいない。日に一度、カチカチの食べ物を投げ込む男がいたが、今日はまだ来ていない。その男の他には、オーナーと呼ばれる小太りの中年がたまに来るのだが、そいつは世界の外から私を怒鳴り、時々ムチを打つので嫌いだった。
聞こえるのは自らの呼吸と鼓動のみという静寂で、しかし私はこの状況が変わることを欠片も望んでいなかった。温かい食事や、暖かい寝床がこの世にあることなど知りもしなかったから、望み方を知らなかった。だから今日も、呼吸をし、鼓動を打ち、ただ生きる。
どれ程そうしていたかは分からない。月に一度、満月の下に出される以外はずっと暗闇にいるので、時間の感覚などない。とにかく私はぼんやりし続けていたのだが、突然、嗅覚に引っ掛かるものを感じ、鼻をひくつかせた。
――――火のにおい。
旅人に安心と温もりを与える焚き火のような、そんな優しいものではない。木が、布が、炎によって不本意に侵食され、焦げていく不快な臭いだ。そしていずれ、不本意に侵食されるものの中に人間も加わるだろう。そんな、何もかもを傷つけ奪いつくそうとする、死神の炎。
火事だ。どこかで死の火種が灯っている。まだ遠いが、そのうちここにもやって来る。でも、だから何なのだと、その時の私は思っていた。生の意識が希薄だったから、死の意識もまた、薄いものだった。火の気配を感じながらも、壁を一枚隔てた世界の出来事のように、じっとそれが燃え広がるのを臭いで拾っていた。
そのうち、火の気配に混じって、人の騒ぎ声が聞こえてくるようになった。やっと火事を見つけたのだろう。逃げろと叫ぶ声と、水を運べと命じる声と、複数の慌ただしい足音。それらをすべて、嗅覚と同じく鋭い私の聴覚が意図せず拾った。
騒ぎがどんどん大きくなる中で、それでも私はじっとしていた。恐怖に染まり、混乱する人の声を聞いてもなお、炎に呑み込まれるということにリアリティを感じられないままだった。そもそも、いつもぼんやりして、頭が霞がかったような生活を送っていたので、火事が起こってもその霞が晴れることがなかったのだ。
だから、その霞を吹き飛ばしたのは火事ではなく、もっと強烈な存在だった。その存在はオーナーを吹き飛ばしたと同時に、私の霞も吹き飛ばした。
突然の爆音と共に暗闇を形成している部屋の壁が壊れ、炎の赤い光がそこから溢れた。ついでにオーナーも空いたその穴から宙を舞って床に落ちた。潰れたような不快な呻き声がオーナーから発せられる。生きてはいるようだ。
そうしてオーナーによって空けられた穴の外には、炎を背にして立つ細身のシルエットが浮かんでいた。伸びた背筋のその人は、しばらく呻いているオーナーを見ていたが、おもむろに穴を潜り、革靴の高い音を響かせてオーナーに近づいてきた。それに気づいたオーナーは、ひっ、と醜い悲鳴をあげる。
「ま、待て……っ! ほら、こいつだろう。あんたが探してたのは」
そう言って、オーナーは私のほうへにじり寄り、檻の中の私を指差す。細身の人は何も言わず、ゆったりとこちらへ向かってくる。
「やるよ、あんたにやる! こんなバケモンでいいなら、いくらでもやる! な? だから勘弁……」
オーナーの言葉はそこで途切れた。ゆったり近づいてきていた細身の人が、オーナーの目の前までたどり着き、見下ろしていた。彼と目の合ったオーナーは、呼吸を止められたかのように口をパクパクさせるしかできないようだった。
一方、細身の人物による衝撃に頭の霞を吹き飛ばされていた私は、久しぶりに感じる驚きに目を丸くして、しばらく固まっていた。しかし、動き始めた頭によって僅かに好奇心が芽生えた私は、膝でゆっくりと檻の柵まで近づき、その人を見上げた。
綺麗なグレーのスーツと、しんしんと積もる雪のように真っ白な髪。オーナーを見下ろすために俯いている顔は、恐怖を与えている人物とは思えない、糸目にぴったりな笑みを浮かべている。
「残念ですが」
よく通る若い声が丁寧に発せられる。白髪の青年のものだった。残念と言いつつも、その顔には相変わらず笑みを湛えたままだ。
「あなたの許可は必要としておりません。あなたが許そうが許すまいが、その子を連れていくのは決定事項ですから」
青年が言い終えた直後、オーナーがパァンという音と共に見えざる手に横面を張り飛ばされ、左側へと飛んでいく。壁に激突する嫌な音がした。
しかし、私はオーナーがどうなろうと興味はなかった。それよりも、この不思議に恐ろしい青年の引力にはまり、目を逸らせずにいた。また、青年もオーナーには目もくれず、しゃがんで私と目線を合わせてきた。すると、青年は自然な動作で私が入っている檻に触れ、鍵がついているはずのそれを開けた。かしゃん、と軽い音がしただけで、今まで私を苛んでいたものが、いとも簡単に開いてしまったのだ。
私は、それまで考えたことのなかった私の世界の崩壊に驚き、硬直した。檻の中だけで生きてきた私にとって、その檻が開くということは今までの世界の崩壊を意味していたのだ。世界が壊れ、世界の外と繋がった。でも、だからといってどうしたらいいのかなんて分からなかったから、ただただ困惑していた。
そんな私の前に、す、と白い手が差し出された。見上げると、白髪の青年がなんの戸惑いもない笑顔で自らの手を差し出していた。そして問いかけるように、青年が少し首をかしげる。
「おいで」
青年がその一言を発した瞬間、私は先程より激しく、はっきりとした世界の崩壊の音を聞いた。頭の中で、それまでの日々が走馬灯のように駆け巡っていく。この手をとったら、檻の内側の世界だけではない、今までの日々が、人生が崩壊する。それから先のことは、今までの生活では全く検討もつかない、真っ暗で未知の世界だ。
そう直感で感じたのに、気づいたら私はその手をとっていた。青年の、炎の中でもひんやりとした体温を感じて、それに気づいた。とってしまった、と思ったときにはもう、青年によって世界の外へと引っ張り出されていた。
こうして、私は壊れた私の世界と別れを告げたのだった。
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