第11話 翌朝
「おはようございます」
「うわっ!?」
このやり取りによって、私の意識は無理やり浮上させられた。眠りの深いところからいきなり掬い上げられたので、もっと深部でたゆたっていたかったと不満が燻る。故に小さく唸りながら目を開けた。黒い衣服が視界に入る。
「おはようございます。雪那さんのお部屋にいたんですね」
私が起きたことに気づいた黒い服の持ち主、純子が微笑み、私に話しかける。私は一瞬、なぜ純子が居るのか、そもそもここは何処なのかと思考が停止し、状況を把握するため緩慢に首を巡らせた。すると、私の隣に飛び起きた様子の雪那がおり、そこでようやく昨夜のことを思い出した。幻想的な光と不思議な星空。しかし今、その光の姿は鳴りを潜め、天井も真っ白で星空はおろか染みすら見えない。一夜の夢のように消えてしまった空間に、あれは現実だったのかと疑った。
「驚かせるなよ、純子………」
私があれこれ考えている間に、雪那が疲れた様子で純子に言う。純子は私に合わせて屈んでいた背を元に戻した。
「すみません。この子を起こそうと思って部屋に行ったら居なくて。探して勝手に入ってきました」
純子は特に悪く思っていないだろう笑顔で説明する。どうやら雪那は純子が目の前にいて驚き、起きたようだった。
「それにしても、仲良くなられたようで良かったです」
純子が嬉しそうに、ニコニコしながら雪那に言う。雪那は一瞬、何のことかとキョトンとしたが、私と仲良くなったと言われているのに気づいて直ぐさま表情を変えた。
「別に仲良くなったわけじゃな―――」
「はい、これ」
反論が長くなると感じたのだろうか、純子は雪那の言葉を遮って何かを手渡した。
「なんだ?」
訝しみながらも、反射的に受け取った手の中のそれを雪那は広げる。ぴらりと姿を現したのは幼児のワンピースだった。淡いピンクとベージュの色合いが目に優しい。
「………なんだよ、これ」
「ワンピースです。その子の」
「いや、だからなんで俺に」
「着替えさせてあげてください」
「はあ!?」
雪那が驚愕して声をあげる。私のことで驚かせてしまっているのだが、話の内容が分からない私は朝から大変な人だなと他人事のような感想を彼に抱いた。私がぼんやりそんなことを思っている間に、雪那は「なんで俺が!」と決まり文句のような言葉を言い放つ。
「良いじゃないですか。寝かしつけて下さったのですから、ついでに朝の支度もしてあげて、一緒に朝食にいらしてください」
「嫌だよ、そんな面倒な」
「していただけたら、その間に雪那さんの朝食としてワッフルを焼きます」
驚くことに、純子のこの一言で雪那はウッと言葉に詰まった。たっぷり十秒悩みこんで、渋々承諾をする。それを見越していたかのように、純子はずっと微笑んだままだった。
「ありがとうございます。では、お願いしますね」
純子はそう言って変わらぬ笑みを残し、穏やかな足取りで出ていく。対照的に、雪那は悔しそうに項垂れて座っていた。だが、パタンと純子が出ていった音を聞いた雪那は観念したように顔を上げ、ため息をつきながらベッドを降りる。
「こっち来い」
雪那が手招きしたのを見て、私もぴょんとベッドを降りた。怠そうに歩く雪那の後を付いていく。部屋の中にある小部屋の扉を開けると、純子の部屋と同じようにトイレと浴室があった。雪那はそのまま怠そうに、洗面台で顔を洗う。横に掛けてあったタオルで適当に顔を拭いながら私を見て、「届かないよな」と呟き、浴室から椅子を持ってきた。私は雪那に脇の下に手を入れられて、ひょいっと椅子の上に立たされる。余裕をもって蛇口まで届く位置にきたので、自らそれを捻って水を出した。水を掬って顔を洗うのはまだ難しく、濡れた手で顔を擦る程度のぎこちない洗顔だが、これで良しとする。タオルで顔を拭いて、雪那と共に浴室から出た。
雪那は早く済ませてしまおうとしているのか、私を万歳させてスポンと寝間着を剥ぎ取り、そのままの勢いで例のワンピースをズボッと頭に通した。私はもたつきながらもワンピースの袖に腕を通そうとし、私が自力で服を着られると判断した雪那は、自分も着替えるために寝間着を脱ぎ散らかしながらタンスへと向かう。私が両腕を通したときにはもう、雪那は着替え終わっていた。
しかし、雪那は部屋を出ることなく、再度洗面台の前に立つ。盛大に寝癖のついたふわふわの髪を水で濡らし、轟音を立てるドライヤーでガシガシと乾かし始めた。私も髪に櫛を通してもらうことはするが、ここまで手間はかけない。そもそも髪の毛に興味がなかったので、きちんと整えようとする雪那に少し驚いた。
ドライヤーを止めた雪那は暫し自分の髪を見つめて、納得したのかそれを片付ける。そこで、離れたところからじっと見ている私に気づき、再び脇の下に手を入れて私を持ち上げ、椅子の上に乗せた。棚から出した櫛を私の髪に通し始める。
「細い髪だな。将来ハゲるんじゃないか?」
雪那が失礼なことを言うが、もちろん意味の分からない私には反応のしようがない。何も言わず、おとなしく髪を梳かれていた。雪那は沸点こそ低いが、櫛を動かす手つきは丁寧で、私は痛みも感じなかった。
暫くそうして髪を整え、雪那は自分の髪をセットしたときと同じように私の髪を見つめ、納得して櫛を片付ける。
「これで文句は言われないだろ」
雪那は満足そうに頷きながら言った。私はこのとき初めて雪那の笑顔を見たが、それがワッフルのためだと知っていたら恐らく呆れていただろう。
準備の整った私と雪那は連れ立って朝食に向かった。この家に来たときに入った一階右側のドアではなく、今度は左側のドアを開ける。キッチンダイニングには既に、他の住人たちが揃っていた。
「おお、おはようさん。お前ら仲良しになったんだってなぁ」
一番に話しかけてきたのはテーブルに座る縁だ。面白そうに目をクリクリさせて、二つの尻尾を機嫌良く揺らす。
「違う。縁うるさい」
途端に不機嫌になった雪那が反論しながら席につく。クッションが重なった私の席にも持ち上げて座らせてくれた。それを見て縁がますます面白そうに笑う。
「お前は何だかんだ言って面倒見が良いよなぁ」
縁は尻尾を一層ふらふらさせて言った。雪那はしかめた顔を縁に向けたが、彼が反論の言葉を発する前に純子がうふふと笑った。
「本当はお優しい方ですからね」
キッチンに向かい、こちらには背を向けたままで純子が言う。二人にからかわれた雪那はさらに険を増した瞳で純子を振り返った。
「おい、純子―――」
「はい、これ」
どこかで見たような遮られ方をした雪那の前に、ひとつの皿が置かれる。ほかほかのワッフルだった。
「…………」
雪那は黙り、おとなしく椅子に収まる。目には隠しきれない喜びの色が見てとれた。
「………子ども」
それを見た蓮太郎が、沈黙を破り雪那に言い放つ。一瞬、食って掛かろうとした雪那だったが、ワッフルを見てグッと堪えた。
「何とでも言えよ、クソガキ」
口は悪かったが、雪那は爆発せずにおとなしく座ったままだ。ふふんと勝ち誇った様子さえ見せている。しかし蓮太郎は興味をなくしたように雪那を視界から外し、それには答えなかった。雪那はそれにもムッとしたようだったが、ワッフルの効果でそれ以上何か言おうとはしない。
「まあまあ、そこまでして、ご飯にしましょう」
純子がニッコリして声をかけながら、空いている蓮太郎の隣に座る。静かに手を合わせた。
「いただきます」
純子がそう言うと、続くように皆が「いただきます」と発する。昨日の夕飯でも気になったのだが、これは何かの決まり事なのだろうかと私は首をかしげた。
「あなたも、どうぞ」
純子が手で私の目の前にあるサンドイッチを示す。食に恵まれず、食べられるものには容赦なく手を出す主義の私は、遠慮なくそれを掴んだ。
「買い物?」
「はい。この子のものを色々買い揃えなければいけませんので、お手伝いをお願いできますか?」
朝食を食べ終え、私と縁以外にコーヒーを配りながら純子が言う。ちなみに私にはオレンジジュースが与えられた。
「荷物持ちかよ」
雪那がため息と共に不満を吐き出す。しかし純子はそれを「はい」と認めた。
「何分、買うものが多いので。男性のお力を貸していただけると助かります。私も行きますので、縁さんにはお留守番をお願いしてもよろしいですか?」
「あいよ。買い忘れがねぇように行ってきな」
縁は気前良く請け負った。純子はそれに礼を言ってから、今度は蓮太郎に向き合う。
「蓮太郎さんは眠る時間で申し訳ないのですが、一番力が強くていらっしゃるので、お手伝いいただけますか?」
「………ああ」
蓮太郎は特に不満を言うわけでもなく、コーヒーを飲みながらいつも通りの返事をした。
「ていうか、純子なら重いものでも持てるだろ?」
雪那はコーヒーから口を離し、納得できない様子で問う。
「もちろん、いくら重くても持てますが、人間の女性はそこまで重いものを持てるわけではありませんし、端から見て不自然でしょう?」
「まあ……確かに」
純子の言葉に雪那は納得し、それに純子は嬉しそうに笑った。
「では皆さん、よろしくお願いしますね」
私は自分のことが話されていると分かるはずもなく、この後の予定を把握しないままジュースを一気飲みしていた。
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