第5話 日本

 風呂で洗われ、身なりを整えられ、お腹一杯食べて眠って、その眠りから覚めた私は、青年と共にずっと移動し続けていた。もう一週間になるだろうか。車と電車と、ときどき飛行機に乗って毎日移動し、一日の終わりにはまた城のような宿に泊まるという生活を送っていた。そしてその合間に、青年は私を色々な場所に連れて行った。人の多い観光地では古い遺跡や何か分からないモニュメントを見たり、オシャレなお店が立ち並ぶ通りをぶらぶらしたりした。他にも、宿の近くにある公園に立ち寄ってのんびりしたり、屋台のジャンクフードを食べたり、青年に連れられた場所では必ず未知の体験をした。その度に青年はひとつひとつを説明してくれ、言葉のすべてが分からないながらも、私は興味の尽きない日々を過ごした。

 また、日常生活を送るために必要なことも、その間に教わった。何せ私はスプーンの使い方も、トイレの使い方さえも知らなかったのだ。青年は嫌な顔もせず、いつもの笑みを浮かべたまま丁寧にそれらを教えてくれ、おかげでぎこちないながらも一通りは自分で出来るようになった。

 ちなみに今日は、相当時間をかけて一人で服を着た。青年が用意しているのか、宿の人が用意しているのかは分からないが、私が朝起きるといつも新しい服が枕元に置いてある。今日は空色のワンピースと同色の靴と、フリルの付いた白い靴下があったので、着替えさせてくれる女性の手際を思い出しながら自分で袖を通した。胸のところにあるボタンと靴下の位置に手間取ったが、なんとか形にすることができた。それを見た青年と宿の女性は大袈裟なくらい褒めてくれて、女性はとかした私の髪に空色のリボンをつけてくれた。

「きれいに着れたから、朝ご飯は外で食べようか」

 青年はそう言って私を外に連れ出し、近くのカフェレストランに向かった。店の外に設置してある丸いテーブルに座り、私の分の朝食も頼む。運ばれてきたフレンチトーストを、まだナイフが使えない私の代わりに青年が小さく切り、覚えたてのフォークで口に運ぶ。さくさくで甘くて美味しかった。檻を出てからというもの、私は色々な味の食事を味わっていた。苦いものと酸っぱいものは苦手だが、甘いものは好きだということが分かった。強い甘味はまだ慣れていないので刺激を感じるが、フルーツのような自然の甘味は大好きだった。

 フレンチトーストを食べ終えた私は100%のオレンジジュースを飲んでいた。水以外に飲み物があると知ったときには非常に驚いたが、これも自然の甘味で好きだった。一方、青年はクロワッサンを少し食べ、後はコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。今日は誰にも会わないのだろうかと私は密かに思った。いつもではないが、青年は私を連れて外に出た折、よく人に会っていた。話すだけだったり、何かを受けたり渡したりしていたが、何を目的としているのかは分からなかった。それに多くの場合、彼らは私が理解できる言葉とは違う国の言葉を話していた。当時の私がどこの国の言葉を理解していたのか、実はそれ自体をもう覚えていないのだが、青年が何ヵ国語も操っていたのは事実だ。しかし今日はリラックスしている様子の青年を見て、特に誰かと会う予定はないのかと思い、私も快晴の下でリラックスしてオレンジジュースを飲んでいた。

「日本という国に行くよ」

 唐突に青年が言い放ち、私は疑問符を浮かべて顔を上げた。どこかに行くというのは理解したが、ニッポンという単語は知らない。そもそも、これまでどこに行くというのは知らされずに移動してきたので、初めて目的地を明かしたのは何故だろうかとも思った。しかし青年は私の疑問には答えず、いつもと変わらず穏やかに、新聞を読みながら話し続ける。

「と言っても、途中で寄るところもあるから今すぐにという訳じゃないけどね。そうだな、三日後くらいには着くようにしよう」

 そして新聞から顔を上げ、私に微笑みかける。

「いいかな?」

 青年にそう言われても、私は行くところなど無いし、おそらく青年に付いていかなければ生きていけない。私に否の意思はなかったので、小さく頷く。

「ありがとう。じゃあ、そろそろ行こうか」

 青年は新聞を畳みながら立ち上がり、会計をテーブルに置いた。店員に会釈をする。私は残ったオレンジジュースを一気に煽り、コップを置いて椅子から飛び降りた。



 それからは今までより長く飛行機に乗り、まったく違う文化圏に降り立った。街の様相はごちゃごちゃした印象を受け、人々の顔立ちものっぺりとし、服装も違う。屋台の食べ物も食べたが、見た目も味も今までのものとはまったく違った。匂いが強く、味も濃かったのであまり好みではなかった。しかし、綺麗な街を歩くのも良かったが、このようなたくさん物のある中を歩くのも楽しかった。青年には絶対にはぐれないようにと言われ、彼と手を繋いでいたから自由に行動したわけではないが、一歩進む毎に変わる景色に忙しなく視線を遣った。

 青年はここでも人と会った。一軒の木造の店に入り、カウンターの向こうにいた小柄な男と談笑する。私はその間に店の中を見ててもいいと言われたので、青年の側を離れて辺りを見た。足元から天井近くまで、棚にびっしりと植物が置いてある。緑や茶色、赤や紫なんて色もあるが、瓶に葉っぱが詰まっているもの、プランターに植えてあるもの、そこらに乱雑に放置されているものなど、本当に多種多様だ。青年はそのうちのいくつかを指し示して何事かを店の男に言い、私のほうへ戻ってきた。私は瓶に入っている赤くてキラキラした種をしゃがんで見ていたのだが、青年が来たのを感じて顔を上げた。

「お待たせ。行こうか」

 青年が手を差し出してきたので、私は立ち上がってその手を握った。店から出ると外はもう夕方の気配が濃くなっていた。

 その日は今までのような城と見まがう宿ではなかったが、広さは十分にある部屋に泊まり、さらさらする掛布にくるまって寝た。



 また次の日も飛行機に乗り、降り立った街で同じように探索をし、青年は人に会い、大きな宿で寝た。そして宣言通り、私たちは三日目に日本へと向かった。機内では眠っていたので、日本までどれ程の時間を要したのかは分からなかったが、軽い昼寝をしていたら着いたという印象だった。

 空港から出た私たちは車に乗った。少し時間がかかると予め言われていたので、座席にゆったりと座り、ぼうっと外を眺める。日本は建物が多いがきちんと整備されており、人々の顔はのっぺりとしているという、今まで見た街を混ぜ合わせたような場所だと思った。

 私は飛行機で寝ていたので、長い道のりも眠ることなく過ごした。何もない開けた場所もあれば、建物が密集し、人も密集している場所もあり、私は飽きずに外を眺めた。

 そのうち車が停車して、青年に促された私は外に出た。何回か電車に乗ったので、その場所が駅だと分かった。規模は小さいが、白塗りの外観と周りに植えられた花々が可愛らしい。よく見ると、円になった植木に植えられた花々の中心に大きい釘のようなものが刺してあり、そこから長さの違う棒が二本伸びていた。

「花時計だよ」

 車の運転手と話していた青年がいつの間にか後ろにいて、そう教えてくれた。遠くで車が去っていく音がする。

「この街の名所のひとつでね。時計についてもそのうち教えてあげよう」

 まだ時計が何なのか分からなかった私は、花時計と言われても頭に疑問符が増えただけだったのだが、その言葉を聞いて一先ずそれは横に押しやることにした。

「いや……」

 だが、青年は顎に手をやって、自分の言葉に考え込み始めた。珍しい青年の姿に、私も何事かと青年を見つめる。

「時計のことは、これから行くところの人たちに教えてもらうといい。私はすぐ居なくなってしまうから」

 その言葉に私は驚いた。私を置いていってしまうのだろうか。一人で? いや、先ほどの言い様だと他に人がいるようだが、青年はどこかに行ってしまうということか。

 突然、私は檻を出て以来の不安に襲われた。居心地のいい日々にすっかり忘れていたが、私はこの青年のことを何も知らない。何を目的に行動しているのかも分からない。そもそも、なぜ私を檻から出したのか、その理由も知らない。

 この青年は、私をどうする気なのだろうか。

 おそらく、不安と警戒が顔に出たのだろう。青年は困ったように笑って、ここ数日で当たり前になった行動をした。私と手を繋ぐために自分の手を差し出したのだ。

「歩きながら説明しよう」

 私は青年の手を見つめて、少し迷った。不安が拭えたわけではない。しかし、ここで私がとれる行動はひとつしかないように思えて、結局はそうしてしまった。

 私はいつもと同じように、青年の手を握った。

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