第4話 眠り

 白、白、白………。

 私は360°見渡してもずっと白の空間に放り込まれ、ここまで私を連行してきた女性たちに苦難を強いられていた。具体的には、バスルームで体を隅々まで洗われていた。

 当時の私は小麦粉の袋に穴を開けたようなボロをまとい、顔にも体にも汚れがこびりついていた。だから青年が真っ先に私を風呂に入れたのは正しい。しかし、風呂に入ったことも体を洗ったこともない私には、泡で頭をごしごし、体をごしごしされる意味が分からず、逃げ出したくてたまらなかった。しかし、実際に動こうとすると、「あら大丈夫よ~。じっとしててね~」とほんわかした声で女性たちに押し留められた。本気で逃げようとすれば彼女たちを振り払うことは簡単にできたが、その声に気が抜けて、結局じっと耐えていた。

 女性たちは泡が立たないほどに汚れている私の頭と体を根気よく洗い続け、やっと綺麗になると今度は泡で溢れた浴槽に私を放り込んだ。どこにいっても泡だらけでげんなりしたが、後ろから女性たちが私のギシギシした髪をトリートメントし始めたので、またじっと耐えていた。暗い檻の中は最悪だったが、白い泡の中も居心地のいいものではない。お湯をかぶるのも息が止まりそうで辛いし、泡が目に入ったときには痛すぎてパニックになった。しかも人工的な匂いに慣れていない鋭い嗅覚には、泡の香りが強すぎて呼吸が苦しかった。そんなこんなで、入浴を終えて体を拭かれる頃には既にぐったりしていた。

 私は控えめにレースのついた、白いワンピースを着させられた。それから椅子に座るよう促され、座った正面の壁に取り付けられた鏡によって、生まれて初めて自分の姿を見た。切ったことがなく、伸び放題の髪はミルクを混ぜたような甘い茶色をしていて、髪の間から覗く大きな瞳も同じ色をしていた。同じく髪の間から覗く肌は、日の光を浴びてこなかったからか真っ白だった。しかし、私はそれを自分だとは認識できず、突然現れた女の子に驚いて、自分をまじまじと見つめてしまった。私が自分の姿を認識できるようになるのはもう少し後で、それまでは鏡を見るたびに同じ反応を繰り返していた。

 突然、横でゴォォオンと音がして、私は飛び上がった。慌てて逃げようとしたがどの方向にも女性がいて、「あら大丈夫よ~」と再び押し留められた。

「ドライヤーで髪を乾かすだけだからね~」

 女性のひとりがそう言って、温風の出る物体を私に向ける。私は内心、叫びだしそうになるのを必死にこらえ、ぎゅうっと目を瞑って風を受け入れた。実際、風は優しく私の髪に降りかかるだけだったのだが、それでもよく分からないものへの恐怖心は拭えなかった。しかも髪が伸び放題なので、すべて乾かすのには時間がかかる。女性もそれは思ったようで、「後でちょっと切ろうね~」と声をかけてきた。それなら切ってから短くなった髪を乾かしたほうがよいのではないかとも思うが、乾かす女性をもう二人増やして、私の髪はすべて乾かされた。

 それから女性たちは一層張り切り始めた。私の髪型をどうするか相談し始めたのだ。せっかく長いのだから短くするのはもったいない、前髪は作るのかなどをきゃいきゃいと話し合い、結果、身長と同じくらいにあった私の髪は腰の位置で切り揃えられ、前髪も目にかからない程度の長さに作られた。女性たちに椅子から降りて見せてくれと言われ、その通りにすると、女性たちは満足げに頷きあった。

「かーわーいーいー!」

「お人形さんみたーい!」

 女性たちは興奮して口々に私を誉めたが、私自身は特に何も感想を抱いていなかった。女性たちが言うように、私はどこぞのお嬢様のような変身を遂げていたのだが、美醜の判断などつかなかったし、そもそも鏡の中の自分を自分だと認識できていなかった。さらに、人と接してこなかった弊害で、実は言葉の意味をすべて理解できているわけではなかった。だから私は女性たちが喜ぶ様子を、ただぽけっと見ていた。

「さあ、さっそくお見せしましょう」

 女性たちは嬉しそうに言って、私を洗面所から外へと追いたてる。この言葉はすべて理解した私は、誰に? と思ったのだが、追いたてられていった場所ですぐに分かった。

「おや、ずいぶん綺麗になったね。見違えたよ」

 そこには椅子に腰かけて新聞を読む青年がいた。新聞から顔を上げて私を認めると、糸目の顔を笑みに変える。

「大変だったでしょう。ありがとうございました」

 立ち上がった青年は女性たちをそう労い、ひとりに何かを握らせた。当時は何か分からなかったが、おそらくチップだ。

「とんでもございません。可愛らしいお嬢様のお世話をさせていただいて光栄です。それでは、失礼いたします」

 女性の代表がニコニコしながら挨拶して、ゾロゾロと去っていく。それを見送った青年は、突っ立ったままの私を振り返り、再び笑いかけた。

「お腹は空いているかい? 先ほど軽食が運ばれてきたんだが」

 そう言ってテーブルの上を指し示し、つられて見た私は次の瞬間、盛大に腹の虫を鳴かせていた。そこには小さなサンドイッチがいくつかと、フルーツの盛り合わせが乗せられていた。決して豪華ではない食事だが、檻の内側でカチカチのパンをかじっていた私にとっては十分なご馳走だった。すぐにでも駆け出してかぶり付きたい衝動に駆られるが、グッとこらえ、許可を求めるように青年を見る。それを見て青年は苦笑し、テーブルに近づいて椅子を引いた。

「座って食べなさい」

 私はその言葉を聞いて小走りで駆け寄り、椅子に座るなり両手にサンドイッチを掴んだ。焦る必要はないのに、必死でサンドイッチを口に詰め込む。青年はそれを見て再び苦笑し、水差しからコップになみなみと水をついだ。

「水もちゃんと飲んでね」

 私は左手のサンドイッチを食べ終えたので、その手でコップを掴んで勢いよく飲んだ。口の端から少し零れたが、気にしている余裕はない。サンドイッチが水と共に腹へ流れていったのを感じ、再びサンドイッチを掴む。

 今までこんな大量に食べたことはなかったのに、私はペロリとサンドイッチを平らげ、フルーツもほとんどを食べた。途中で睡魔に襲われなければフルーツもすべて食べていただろうが、不覚にもイチゴを口に突っ込んだまま半分寝始めてしまった。もう寝よう、という青年の言葉と共に口からイチゴがなくなり、ふわりという浮遊感を覚えたのだが、それに抵抗しようという気は起こらなかった。頭も体もふわふわとして気持ちが良くて、どうでもよくなっていたのだ。そうして、なにか柔らかいものの上に横たえられ、これまた柔らかいものを上に掛けられる。暖かい。パチリと音がして、瞼の裏からでも明かりが消されたのを感じた。おやすみ、と言葉を残して青年の気配が去っていく。

 夢の世界へと半ば引き込まれながら、私は本当に寝ていいのだろうかと最後の理性で考えていた。だって、こんなふかふかで暖かい場所で? 鉄の寝床しか知らない私には、こんなに居心地のいい場所を寝床として使っていいのかという戸惑いがあったのだ。しかし、そんな思いも夢の世界への誘いと共に霧散していった。

 ここで寝たい。ふかふかで暖かくて気持ち良くて、こんなにも幸せな気持ちになるのだから。

 私はいつの間にか深い眠りの縁に落ち、朝まで夢を見ることもなく眠った。

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