第8話 名前はまだ

 私は狼人間である―――洋館の住人たちにそう明かしてから、大黒さんは私に通じる言葉で説明してくれた。満月を見ると狼のような獣人に姿を変え、分別なく周りのものを攻撃、破壊する。人間のときの意識はなくなり、身体能力は桁違いに上がり、それを破壊衝動を満たすためだけに使用する。生態の詳しい情報はあまり世に出回っていないが、獣人のときに噛まれた人間は同じ狼人間になってしまうという。

 私はこの説明を実感なく聞いていたが、そういえば檻の内側にいた頃は、満月の夜は大勢の前に引き出されていたな、と思い当たる節があった。しかも、引き出された後のことを思い出そうとしても、満月を見た直後から記憶がない。ぞろ、と何かが私の中で動き出し、それが血管を通って身体中に広がると、視界が暗転する。そして気づいたときにはもう、檻の中で横たわっているのが常だった。人間のときの意識がなくなるというのも合致する。おそらく大黒さんの言っていることは真実なのだろうと判断した。

「満月の夜だけ、しかも所構わず暴れるなんて、役に立たないどころか危険だろ」

 同じく大黒さんに説明してもらった雪那が、すかさず異を唱える。

「この家の敷地内にいれば、満月を見ても変身しません。それに、たとえ変身しなくても、この子の力は素晴らしいものですよ」

 大黒さんは雪那の反応を想定していたかのように答え、今からそれを見せましょうと言い始めた。どうやって? と首をかしげる一同を尻目に、大黒さんは私に向き直った。

「雪那さん―――金髪の彼の座っているソファーを持ち上げられますか?」

 まだ住人を紹介していなかったので、大黒さんが雪那をそう言い直し、私に囁いた。言われて私は雪那の座るソファーを見遣る。大人が横になれるほどの長さを持つ、緑色の生地に複雑な花の模様が描かれたソファー。持ち上げたことはないが、持ち上げられると直感で判断し、大黒さんに頷く。大黒さんが笑顔で促したので、ソファーに近づいた。

「おい、何だよ?」

 急に近づいてきた私を警戒し、雪那が言う。しかし私は言葉が分からないので、雪那を見もせずにソファーの角、足に近い部分の底に手をかけた。

「!? うぉわっ!」

 ゴ、という低い音がして、ソファーが宙に浮く。と同時に、ソファーごと一緒に持ち上げられた雪那が驚きの声を上げた。ソファーの角の一片のみを持って全体を持ち上げることは、端から見たら難しいと思われるかもしれないが、私にしたら長方形に長いカステラの片側を持ってひょいと上げることと等しく簡単だった。これで良いだろうかと、そのまま大黒さんを見ると、彼は満足げに頷いた。

「うん、とても良いよ。ありがとう」

 すると周りで見ていた他の面々も、口々に感想を言い始めた。

「まぁ、すごく力持ちですね。とても頼もしいです」

「こんなちっこいのになぁ。大したもんだ」

「………ああ」

 三人が感心して (蓮太郎は感心しているのか分からないが) 私を褒めると、雪那が高い位置から「おい!」と吠えた。

「他人事みたいに褒めてんなよ! お前も、もういいだろ、降ろせ!」

 落ちないようにソファーにしがみついている雪那が私の方を向いてわぁわぁ言うので、言葉が分からないものの私は彼の言う通りソファーを降ろした。途端に渋い顔をした雪那が、詰めていた息を吐き出した。

「ね、凄いでしょう雪那さん。私も、この子が慣れないスプーンを使おうと必死で、力を入れすぎてグニャグニャにしてしまったときに気づいたんですけどね。こういうパワー系の方ってウチにはいませんし、今までにないお仕事の仕方が出来るようになると思うんです」

 大黒さんが喜色を浮かべてプレゼンを始める。雪那は相変わらず渋い顔で、他の三人はうんうんと納得して聞いている。

「それと脚力も凄いんですよ。以前、ホテルの部屋に翔んでいたハエを、この子がジャンプして捕まえたんですけどね、一瞬で天井まで跳んだんです。4メートルくらいあったと思いますが、事も無げに跳んで軽く着地してみせて、私も一瞬、何が起きたのかと思ってしまいましたよ」

 それに純子と縁が感嘆の声を漏らす。

 ちなみに大黒さんが言っていることはすべて事実で、スプーンを曲げてしまったときは世の中の金属はこんなに柔なのかとビックリした。檻は掴んでも揺さぶってもびくともしなかったので、自分の力が強いだなんて思いもしなかった。ハエも、何か翔んでいるなと気になって捕ってみただけで、人間はこんなに跳べないのだとは知らなかった。

「しかし、私はこの子といつも手を繋いで歩いていたのですが、必要以上の力で握ってくることはありませんでしたし、移動するときにその脚力を見せることもありませんでした。つまり、力の適切なコントロールが出来ているということです。とても優秀でしょう? ただ、その力を使ってはいけない場面というのは分からないと思うので、そこは教えていかなければいけませんが」

 そこで大黒さんは、良い笑顔で雪那に向き合った。

「ね、この子、役に立つでしょう雪那さん? ぜひ貴方にも、この子の成長に携わっていただきたいのです」

「あー、分かったよ。どうせあんたの決定は変えられないしな。良いんじゃないの」

 ついに雪那が、投げやりな態度であるものの承諾をした。大黒さんが嬉しそうに笑みを深める。

「ありがとうございます。では、今日からこの子をよろしくお願いします」

 大黒さんが皆に軽く頭を下げる。そして身を屈めて私に向き合った。

「今日からここが君の家で、彼らが君の家族だよ」

 家族。分からない単語だ。私は首を傾げたが、大黒さんはそれに気づかなかったようで、私を視界からはずした。



 それから、今度は大黒さんが私に住人たちの紹介をしてくれた。大黒さんの兄である猫の縁は、やはりただの猫ではなくて化け猫だった。日本に最も多く存在する人外の種である『妖怪』というものの一種らしい。初めに会った少女・純子も古くから日本に存在する鬼という種族だ。私が硬直した瞳を持つ蓮太郎は、もともと西洋が発祥の地である吸血鬼という種族で、人の生き血をすするのだそうだ。金髪の青年・雪那も西洋寄りの存在、というか見た目からして彼自身が西洋の血を受け継いでいるのだろうが、魔法使いという不思議な技を使う一族だ。ただ、彼だけはこの中で唯一、人間と呼べる存在らしい。

「普通の人間に知られると厄介なのは、私たちと同じですがね」

 だから仲間なのだと大黒さんは言った。雪那の一族は、人間に見つかって手酷い目にあった歴史を持つらしい。

「とまあ、こんな感じで全員、君と同じような境遇にある人たちだから、分からないことがあったら助けてもらうといい」

 そう言って大黒さんが紹介を締め括ったが、そこで純子から基本的な質問が飛んできた。

「大黒さん、その子の名前は?」

 その瞬間、私は初めて大黒さんの笑顔が固まったのを見た。今までどんなときにも完璧な笑顔を絶やさなかった大黒さんの表情が凍てついたことに、私もどうしたのだろうかと彼を見上げた。

「………そういえば、聞いていませんでしたね」

 大黒さんが間を空けて、静かに告げる。すると純子から「え?」という声が上がり、雪那からは「うわー……」という声が漏れた。

「………お前ぇ、それ一番最初に聞くやつだろうが」

 縁が呆れを隠さずに大黒さんに言う。大黒さんは白髪の頭を掻きながら弱々しく笑った。

「いやー、失念していました。……君、名前は何ていうの?」

 大黒さんは途中から私に向き直って、そう聞いてきた。しかし、私は質問の意図がよく分からず、首を傾げた。今までさんざん洋館の住人たちの紹介をされてきたわけだが、実は、私は名前というものの意味がよく分かっていなかった。そんな私の様子を見て大黒さんもピンときたのか、名前の説明を始める。

「例えば、私には大黒という名前があって、みんな私を呼ぶときは大黒と呼ぶ。私の兄は縁と呼ばれるし、そんな風に人や、他の生き物にもそれぞれ違った呼び方があるんだ。君は他の人に、なんと呼ばれていた?」

 私がなんと呼ばれていたか……。まだ檻から出てそう月日は経っていないのに、其処にいたときのことが、もう遥か遠い昔のことのように思える。それでも、唯一私と接点のあったパンを投げ込んでくる男とオーナーが、私になんと呼び掛けていたかを思い出そうと、記憶を辿った。

『おい』『お前』『この』『こいつ』『怪物』。こんなところだろうか。呼び方はひとつに統一されていなかった。おそらく名前ではないと分かるものもあるが、どれが名前か、もしくはどれも名前ではないか、私には判別がつかなかった。だから途方にくれて、私は大黒さんをじっと見つめ返した。

「…………うん、分かった。じゃあ何か考えてみよう」

 大黒さんはそう言って、私の頭を柔らかく撫でた。この行動にどんな意味があるのか私は分からなかったが、彼の手つきのように、なぜか柔らかい気持ちになった。

「おい、名前なんだって?」

 縁が私たちのやり取りを見て、聞けたのかと思ったのだろう、尋ねてきた。それを受けて大黒さんは私の頭から手を離し、屈んだ背をもとに戻した。

「この子に名前はないようです。何か考えて付けましょう」

 大黒さんがそう言うと、一同になんとも言えない気まずい空気が漂った。しかし、大黒さんはそれを振り払うように、にっこり笑ってみせた。

「兄さん、何か良い案は?」

「えぇっ! 俺はそういう方面はからっきしなんだよなぁ。他のやつに聞け」

「じゃあ、雪那さんは?」

「嫌だよ、名付けなんて。蓮太郎に聞いたら?」

「………特にない。純子?」

「私も、今時の名前はさっぱり分かりません……」

 全員が白旗を上げたのを見て、縁は「お前が連れてきたんだからよ、責任とってお前が付けろ」と、大黒さん以外が納得する言葉を続けた。

「……分かりました。苦情は受け付けませんよ?」

 結局は言い出しっぺの大黒さんが名前を付ける運びとなった。

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