第9話 部屋
私の名前はとりあえず考えておく、と言い残して、大黒さんは洋館を後にした。本当に、しかもこんなに早く置いていくんだ、と私は少し恨めしい思いで彼の後ろ姿を見送ったが、大黒さんはいつもの迷いのない足取りで振り返ることなく去っていった。私の念は届かなかったらしい。
大黒さんがいなくなって、この後どうすれば良いのか分からなくなり、私は急に足下がふらつくような頼りなさを覚えた。だから大黒さんを見送った位置から動けず、しばらく物言わぬドアを睨んでいた。しかし、突然ひんやりとした感触を肩に感じて驚き、振り返ると純子の手が私の肩に乗せられていた。そういえば、彼女は気配も足音もしないのだと思い出した。
「とりあえず、家の中を見て回りましょうか」
純子は柔らかな笑顔で私に話しかけた。しかし私は日本語が分からないので、ただ首を傾げるしかない。純子のほうもそれを分かってか、私の返事を待たずに背中を押して扉へと促した。
「皆さんも、一緒に行かれませんか?」
純子が後ろを振り返りながら他の住人に問いかける。
「しょうがねぇなぁ。一緒に行ってやるよ」
言葉とは裏腹に楽しそうな縁がソファーを飛び降り、四本足をちょこちょこ動かしながら付いてきた。だが、残りの二人は付いてくる気配がない。
「俺はパス。ガキのお守りなんて御免だ」
「………お前もガキだろ」
見た目の上では明らかに年上であろう蓮太郎が、雪那にボソッと、しかし確実に相手に届く音量で言い放つ。その瞬間、ごぉっと背後の温度が上がった気がした。ちょうど彼らがいる場所だ。
「お前のほうが年下だろうが~~~!!!」
雪那が絶叫したのと同時に、私たちはリビングを出て扉を閉めた。扉の向こう側で謎のドカーンという音が響いた。
私は何が起きたのかと首を後ろに向けて様子を窺おうとしたが、当然のことながら扉に阻まれてそれは叶わない。加えて、何も気にしていない笑顔で純子が「さあ行きましょう」と背中をぐいぐい押して進もうとするので、気になりつつも首をもとに戻した。
「どっから見てくんだ?」
「そうですね。ではまず、一階を見てしまいましょうか」
そう言って、純子は私を左手へ導き、縁は私の横をてててと歩く。その先にある扉は最初に純子が出てきた場所だ。私たちは広いホールの真ん中を贅沢に横切り、その扉を開けた。その先の廊下にも他と同じく赤い絨毯が敷かれていて、少し歩くとすぐに突き当たり、左へ曲がるとさらに廊下が続く。先にはドアがひとつだけ見えた。
「私は暇なとき、よくここに来るんですよ」
純子は私が言葉を理解できないにも関わらず、ニコニコして話しかける。そのままドアを開けるように手で促されたので、そろっとドアノブに手を掛けた。少し重い質量を押し開ける。
部屋に入った私は、思わず上を見上げてほうっとため息をついた。天井が高い。おそらく三階分くらいはあるだろう。円柱形をした部屋なので、外から見たら塔の形をしているのかもしれない。そして、部屋の床からその高い天井に至るまで、びっしりと本が並んでいた。色も厚さも、高さも様々な本の背表紙がぐるりと私を取り囲む。まるで襲ってきそうな圧迫感を覚えるほどに、その数は凄まじかった。本棚には階段と小さい通路が中段、上段と付いているので、高所恐怖症でなければ誰でも好きな本を手に取れるだろう。
「凄いでしょう? 本当にたくさんの本があるんですよ。 確か童話集もあったと思うので、言葉を覚えるためにも読んであげましょうね」
私がキョロキョロして聞いていないことには構わず、純子がお勉強を提案する。縁は「よくこんなの読めるよな~」と興味なさそうに後ろ足で首の辺りをカカカと掻いていた。
私はずっと見ていても飽きない予感を感じながら、首をぐるぐる回して辺りを見ていたが、純子が私をじっと待っていてくれているのに気づいた。そこで、もういいという意を込めて彼女を見る。それに応じて純子は私に微笑みかけた。
「じゃあ、次の場所に行きましょうか」
純子はそう言って、入ってきた所とは反対の場所に私を導く。その先には本棚と同系色で周りと同化して見えるドアがあった。幅は人一人分で、高さは蓮太郎が屈まないと通れないほどなので、おそらく裏口なのだろう。回したノブは軽かった。
「ここを出ると裏庭です」
ドアの先、石の階段を三段降りると、背の高い草花が生い茂る開けた場所に出た。玄関の庭のように手入れをされている感じは特になく、花はおそらく野草の一種だ。木も所々に生えており、奥に行けば行くほど密集している。家に一番近い位置に生えている木は他のものと比べ物にならないほど太く立派で、その存在感を示しているが、葉はなく蕾をその枝につけているだけだった。
「この裏庭は走り回るのにも充分な広さがありますが、池もありますので落ちないように注意してくださいね。あと、ここからは見えませんが、奥に行くと塀があって、その内側が家の敷地です。そこから先は山の中ですので、一人で出てはいけませんよ。特に満月の夜は、絶対に」
相変わらず笑顔だが、純子はここだけ、有無を言わせぬ口調で言った。私は言葉が分からずとも、何か大切なことを言っているのだけは分かったので、思わず頷いた。
すると純子はニコッとして、「言葉が分かるようになったら、また説明しますね」と言い添えて私を左へ促した。家の外壁に沿うように歩く。
やはり先ほどまでいた本の部屋は塔の形をしていた。お城に見られるような、頂点が尖った塔。そこを過ぎて歩くと白いテラスがあり、小さなテーブルと華奢な椅子が二脚置かれていた。テラスは大きな窓二つに面して作られているので、そこから出入りできるのが分かる。手前の窓を過ぎるときにひょいっと中を覗いてみたら、皆に引き合わされたリビングで、可愛い顔をつまらなそうにして頬杖をつく雪那と、長い足をソファーからはみ出して寝る蓮太郎がいた。
「あいつら、喧嘩は終わったみてぇだな」
「ええ。なんだかんだ言って、とても仲が良いですからね」
縁と純子が楽しそうに、雪那が聞いたら怒りそうなことを言い合った。
私は二人が気になりつつもその窓を過ぎ、もうひとつの大きな窓を覗いた。大きな木のテーブルと椅子、広い調理台が見えた。
「ここはキッチンダイニングです。ご飯を作って食べるところですよ。ご飯は私が作ってますので、何か食べたいものがあったら言ってくださいね」
純子が説明しつつ進む。「子供用の椅子も買ってこなければいけませんね」と、室内を見て気づいたのか呟いた。
そこも通り過ぎると、また本の部屋と同じ塔が現れ、これもまた同じように裏口がある。純子に促されて、私はまたその扉を開けた。中は、本の部屋と同じ造りをしていたが、壁に張り付いているのは本棚ではなく無数の収納だった。クローゼットのような大きなものから、小銭しか入らないのではないかと思われる小さい引き出しまで、様々な大きさ、形のものがズラリと並んでいる。
「ここはこの家に必要なものや、お仕事に必要なものを仕舞っておく部屋です。大黒さんや雪那さんがよく使っていますね」
「雪那は自分の部屋に入りきらねぇ私物を仕舞ってやがることもあるけどな」
縁が面白そうに補足をすると、純子も心当たりがあるのか苦笑する。
「まあ、雪那さんの私物は、お仕事に使うこともありますしね」
それから純子は、ここは出入り自由だが、中のものは弄らない方が良いと忠告した。また、言葉が分かるようになったら再度説明することも。
それから部屋を出て廊下を道なりに歩き、そこに現れたドアを開けると元居たホールに出た。一階はこれで終わりです、純子が言い、二階に行くためホール中央にドンと構える階段へと私を導く。部屋の一つひとつが恐ろしく広かったので、部屋数はあまりないのだなと私は思った。
階段を上ると真正面に私の五倍はあるのではないかと思われる絵画が飾られていた。熟して今まさに落ちようとしている果実のような、橙の髪をした女性が緑の庭園に佇む絵だ。廊下はそこから左右に延びそれぞれ曲がって洋館の奥へと続いていたが、私は純子に促されて右の廊下を行った。そのまま突き当たって左に曲がり、奥へと進む。その先には、左手と正面に廊下があった。そのまま正面の廊下を進むと左手の壁にドアが二つくっついており、突き当たりには茶色く滑らかな手すりの階段がある。
「そこのドアは、縁さんの部屋と大黒さんの部屋です」
「俺もあいつも、ほとんど使ってねぇけどな。俺はどこでも寝るし、あいつは外でふらふらしてるしよ」
そう言いながら、縁は興味なさそうに左の廊下を進む。私と純子はそのふらふら揺れる二つの尻尾に付いて歩いた。小さい絵画が何枚も並ぶその廊下もやがて突き当たり、右に曲がると、今度は右手の壁にドアが三つ、そしてやはり茶色の階段が奥に備えられていた。ここまで歩いて、この階の廊下は凹形なのだなと私は理解した。
「そこのドアは、手前から蓮太郎さん、雪那さん、そして私の部屋です。縁さんの部屋より小さいので、こっち側は部屋が三つあるんですよ」
純子がちょっと含みを持たせて言うと、「よせよー」という縁の声が下から発せられた。純子はそれにクスリと笑う。
「でも、狭いというわけではありませんよ。それぞれの部屋にお風呂とトイレもついていますし。私の部屋でよければ、見てみましょう」
そう言って純子は一番奥のドアへと近づく。私たちを招くようにドアを開いて脇に退き、手で入るように促した。
「淑女の部屋に入って良いのかい?」
「ええ、淑女という歳でもありませんので」
純子の返しに縁は笑い、私を先導するように部屋へと入っていった。私は純子を見上げ、笑顔を向けられたのでそれを了承と取り、縁に続いた。
純子の部屋は、がらんとしているという言葉がぴったりな様相だった。ドアの真正面に大きい窓があり、そこから陽光が射し込む清々しい室内。浴室と手洗いがあるという話だったから、奥にある小部屋がきっとそうなのだろう。人一人の部屋としては充分な広さで、私がころころ転がっても体をぶつけることはなさそうだ。しかし、室内の物といえば板を適当に組み合わせたような机と簡素なベッド、私の背丈と同じくらいの小さな本棚がぽつんと置かれているだけで、吹いた風がそのまま通り抜けていくような空寂しさが漂っていた。
「……なんてぇか、何にもねぇな、お前の部屋」
縁が私も思ったことを口に出す。純子は自覚しているのか、ええ、と同意する。
「あまり物を置くのは好みませんし、これといって必要なものもありませんから」
「部屋ぁ飾ったりしねぇのか?」
「シンプルが一番です」
純子が有名な言葉の和訳を引き合いに出して答える。それから、ぽかんとした空間を見るしかない私にニコリと笑いかけた。
「ベランダに出てみましょうか」
純子はそう言って部屋の大きな窓を開ける。自分が外に出て見せてから私を手招きした。私は縁と共にそちらへ向かう。
灰がかった白のベランダ。洋館の規模に比べるとそれほど広さはないが、洗濯物を干したり、ささやかな菜園を築くにはぴったりだ。誰かが持ち込んだのだろうか、酒瓶のケースが椅子とテーブルのように並んでいる。きょろりと見回してみると、今出てきた窓の他にも四つの窓から出入りできることが分かり、全部の部屋と繋がっているのだと見てとれた。
「お天気が良いですね。ここは暖かくて、日向ぼっこに最適なんですよ」
これには、そうだなぁ、という縁のうっとりとした声が同意した。
「俺もよくここで昼寝してんだ。猫としてこれほど至福のときはねぇな」
縁はまるで酒を前にした飲んべえのような顔をして語る。
「お昼寝するときには蓙を敷いてあげましょう」
純子も酒のように惰眠を貪ろうとする縁を咎めるようなことはせず、のんびりと昼寝について私に提案した。
「さて、二階はこれで終わりです。あなたには、一人だけで申し訳ないのですが、三階の部屋を使っていただきますね」
純子がそよ風に吹かれながら、少し申し訳なさそうに微笑んで言う。その言葉に、同じくそよ風に吹かれて気持ちよさそうに伏せていた縁が顔を上げた。
「三階は物置じゃあなかったか?」
「二部屋あったでしょう? 片方の部屋を片付けておきました」
そうして純子は私に笑いかけて、室内に戻るように促した。
再び廊下に出た私たちは、目前にあった茶色で滑らかな手すりの階段を上った。登りきると、そこはやはり他と同じく赤い絨毯が敷かれた廊下で、私たちはその右手突き当りに出てきたようだ。左手突き当りを見るとこちら同様、階段があるので、おそらく縁と大黒さんの部屋のほうにあった階段だろう。ドアはこちら側とあちら側、二つあった。
「手前のお部屋です」
純子がこちら側のドアを示す。彼女が脇に退いたままなので、私は自ら部屋のドアノブに手をかけた。
純子の部屋はガランとしていたが、こちらの部屋はそれ以上で、文字通り何もなかった。薄茶色のフローリングと白い壁を持つ四角い部屋。大きい窓の外に地面が見えるので、こちらもベランダがあるのが分かる。それだけだった。物は何もない。純子の部屋よりも広く、一軒家のリビングダイニングほどの大きさがあるので、余計に何もない印象が強かった。
「勝手にお部屋をレイアウトするのもどうかと思って、何も置いてなかったんですよ。どういう方がいらっしゃるかも知りませんでしたし。お布団はあるので寝ることはできますが、明日、家具を買いに行きましょうね」
純子がそう説明する。もちろん私は理解できないので、音としてそれを聞き、窓に近づいて外に出ても良いかと目で尋ねた。純子が微笑んで頷いたので、カラカラと窓を開ける。ここのベランダは下のそれよりも広い。私が出てきた窓以外にも、もうひとつ出入りできる窓があったが、その部屋の中は段ボールで一杯だった。それから私は手すりに近づき、ベランダの向こうの景色を見る。私が大黒さんに手を引かれて通った門と庭が見えた。このベランダは洋館の正面に位置しているらしい。
「落ちないように気をつけてくださいね」
純子が私に声をかけながら隣に並ぶ。いつの間にか傾き、色を濃くした太陽を見て目を細めた。
「もう夕方ですね……」
純子は静かにそう言うと、私に向き直ってニコリと笑った。
「お夕飯の準備をしましょう」
純子は私に室内へ戻るよう促し、縁も一緒にベランダから引き上げた。
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