第17話 始まり

 そよそよ、そよそよ、と暖かな風が吹く窓辺に私は座っていた。リビングから白いテラスへと続く窓で、私はリビングの床に腰を下ろして足をテラスへと投げ出す格好でいる。テラスの椅子へと座ればいいのだが、より下のほうへいるほうが、この絶景に包まれている気がした。

 家に一番近く、最も太くて立派に生えている木が、その頭に満開の花を咲かせているのだ。桃色で、ひとつひとつは小さな花であるにもかかわらず、集まって大輪の花にも勝る輝きを放っている。さらにその花びらは風に乗って、ひらひらと踊りながら散っては庭をピンクの絨毯へと変えていった。

 なんて綺麗なんだろう。違う世界に生まれ変わったみたいだ。そう思い続けて、もはや三日もこうしている私に同居人たちは呆れ顔だ。純子に言われて寝食をとる以外はずっと眺めているから、それも無理ないのだが。

「なんだ、まぁだ見てんのか」

 横から話しかけられてそちらを見ると、縁が機嫌の良い顔をして近くにいた。言葉では他の住人同様、呆れた様子を見せているが、顔は面白そうに笑いながら私を見ている。

「子供ってぇのは本当に、一度はまるとずーっとソレばっかなんだなぁ。まぁ、その年で風流を理解するのは立派だな」

 俺も夜だったら酒飲みながら眺めてぇなぁ、と縁は私の横に腰を下ろしながら上を見上げる。満開の花は縁にもその絶景を分け与え、頭上に花びらを舞わせた。

「お酒はありませんが、クッキーならありますよ」

 キッチンから皿をひとつ持ってやって来たのは純子だ。いつもの穏やかな笑顔を浮かべたまま、私たちを通り越してテラスへ出て、そこのテーブルへと皿を置く。私の鋭い嗅覚は、皿から漂う甘くて香ばしい香りを逃さなかった。

「こっちで座って食べてくださいね」

 私の興味が皿に引かれたことに気付いた純子が、私に笑いかけながら椅子を引く。私はあっさりと下からの絶景鑑賞を止めて、純子の引いた椅子に駆け寄った。

「あーあ、所詮は花より団子か」

 縁が呆れながらも笑い、私の後を追ってひょいっとテーブルに飛び乗る。「いっただきまーす」と元気よく言い、器用に前足を使って皿からクッキーを取り出して、これまた起用に歯で半分に割ってから咀嚼した。さっくさっくと軽快な音が聞こえる。

「おお、うめぇな。やっぱ純子は何作らせても上手いなぁ」

 ご機嫌な縁が顔を上げて純子を褒め、純子も嬉しそうに礼を言う。言葉の分からない私も、純子の作るものは何でも美味しいとクッキーと共に噛み締めていた。

 純子がティーセットもキッチンから持ってきてお茶を入れ、本格的に午後のお茶を楽しんでいると雪那と蓮太郎が連れ立って現れた。

「お、なんだ、蓮太郎が起きてくるなんて珍しいじゃねぇか。傷はもういいのか」

 昼間は寝ている吸血鬼が現れたことに驚いて縁が声をかける。

「こいつ、傷を治すためにずっと寝てただろ。だから変な時間に起きたんだって」

 口数の少ない蓮太郎の代わりに雪那が答える。皿の半分にまで減ったクッキーを見つけてひとつ口に放り込んだ。

「美味しいな。蓮太郎、三日も寝続けてたんだからお前も食べたほうがいいぞ」

「………日の光があるから嫌だ」

 日光がさんさんと照るテラスには近づきたくないのか、蓮太郎は近くのソファにどっかりと腰かける。雪那はそれが気に食わなかったのかクッキーを三枚ほど引っ掴み、「この根暗が!」と言いながら蓮太郎の口にクッキーを全て突っ込んだ。突っ込まれた蓮太郎はぶすっとした顔をしながらもおとなしく咀嚼する。

「おいおい、寝起きなんだからよ、まず何か飲ませて軽食からだろ」

「いいんだ、蓮太郎はこれくらいで」

 なぜか満足げな雪那に縁が忠告するが、雪那はちっとも構わない。その背後で純子が蓮太郎にそっとお茶を渡していた。

 その後、全員集まってのお茶が開始され、空になった皿に興味を無くした私は椅子から降りた。再びリビングの床に戻っても良かったが、大人たちがわちゃわちゃしていたので外に出ることにする。花を湛えた木の根元まで行って、そこから上を見上げた。屋根のように広がる花々に、ここも良いなと思う。上からくるまれているようで、花と一体化しているようで素敵だ。私はもっと近づきたくて、木の幹に手を回してぴったりとくっついてみた。私が三人並ぶことができるほど幅が太い木なので、手を回すというより横に広げる感じになったが、それでもなんだか木と仲良くなった気がして私は満足した。

「おや、皆さんお揃いですね」

 私が満足感に浸っていると、穏やかな男性の声がかけられた。私は反射的にびくっとなり、機械仕掛けのようにギギギと振り返る。白髪の青年、大黒さんがリビングに入ってきたところだった。

「おお、どうしたんだお前」

「ちょっと近くを通ったもので。皆さん、その後どうかと思って」

 兄である縁が目を丸くしながら尋ね、それに大黒さんが答える間に私はぴゅっと抱きついていた木の後ろに回って隠れた。こそっと顔を半分だけ出して様子を窺う。

 私が大黒さんを怖がる理由は数日前にあった。狼に変身し、その夜をたっぷりと寝た私は翌朝、いつも通りの時間に起きた。そして目の前に大黒さんの笑顔があった。

「塀の外に出ましたね」

 出ないと約束したのに、と驚き現状が把握できない私に構わず話を続ける。そもそも私は狼に変身したことすら覚えていない。変身したんですよ、と大黒さんに教えられても実感すらわかなかった。しかし、そんなことはどうでもいい。そこから大黒さんの恐怖のお説教タイムが始まった。正直、私は怖すぎてその時の記憶がほとんど飛んでいる。永遠と怒られていたような、一瞬で終わったような、恐怖で感覚が歪んでしまったために覚えていないが、気づいた時には大黒さんは去り、純子が目の前にいた。そのことで、私は悪いことをして怒られたんだということと、大黒さんは怖いということを本能の中に刻み込まれた。

 そして今に至る。落ち込んだ私を満開の花が癒してくれたものの、こうして目の前に大黒さんが現れれば再びあの恐怖がよみがえる。そんな私を見つけた大黒さんは困ったように微笑んだ。

「今日は怒ったりしないよ。出ておいで」

 私に分かる言葉で言った大黒さんに、私はそろそろと姿を見せる。しかし近くによることはせず、木の根元から離れなかった。

「その花が好きかい?」

 近寄らない私に何か言うことはせず、大黒さんは尋ねた。小さく頷いた私に、大黒さんは笑みを深めてひとつ頷く。

「うん、それじゃあ、君の名前はさくらにしよう」

 突然の言葉に、私はきょとんとして反応ができなかった。しかし大黒さんは良い提案だと明るくなって、他の住人たちに向かって宣言する。

「皆さん、この子の名前は桜に決めました。今後は桜と呼んであげてください」

「桜が好きだからってか? 安易すぎねぇか」

「兄さん、文句は言わないって言ったじゃないですか」

「私は良いと思いますよ」

「覚えやすくていいんじゃない」

「………ああ」

「ね、ほら兄さん」

「あーはいはい。安易とか言って悪ぅございやした。綺麗な名前だよ、良いんじゃねぇか」

 皆がいろいろ言っている間、私は一人、この木は桜という名前なのかと考えていた。そして私にも同じ桜という名前を付けると。良いのだろうか。こんなに綺麗で、世界をまるで別のものに変えてしまえる素敵な花と一緒で。

「桜」

 呼ばれて、というより呼ばれたと理解してから私は振り返った。皆がこっちを見ていた。いつも笑顔の住人たちはニコニコとして、他の二人も、今は穏やかな顔をして。

「何はともあれ、良かったな。今日からお前は桜だ」

 縁が改めて私に言った。その時、私の中で何かが崩れていく音がした。

 暗い檻、硬いパン、叫び声や怒鳴り声。それが私の世界のすべてだった時には、美しい名前で呼んでもらえるなんて考えたこともなかった。大黒さんに連れ出されてから、徐々に壊れていった私の世界。その最後のひとかけらも崩れていく音がする。

 今の私にあるのは、温かいベッドと美味しいご飯、美しい景色と名前。―――――――――そして家族。

「………さくら」

 ぽつりと私の口からこぼれた言葉に、喋った!! と興奮する家族を見ながら、私は私の世界が壊れる最後の音を聞く。

 そうして、私の新しい世界が始まった。

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壊れた世界 葛城獅朗 @katsuragi_shiro

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