ぬくもり
カズ
夏の日|ぬくもり1-1
シーズン1
焦げる。射刺すような真夏の太陽が、駅ビルを出た人々に襲い掛かっていた。焼けると言うよりは、まさに肌が焦げてしまうと感じるほどの陽射しの強さなのだ。眩さと共に熱風が押し寄せ、じんわりと噴き出す汗が背中に張り付いた。地表は50度を超えているに違いない。5分も経たないうちに冷房が恋しくなって、10分も歩いた頃には等しく皆の顔が歪んでいる。さすがに街行く人の姿はまばらだが、それでも駅前だけは別格だった。
I市は、長らく“繊維の町”として栄えてきた、人口30万ほどの中規模な地方自治体なのである。高度経済成長期には隆盛を極め、全国にその名を知らしめていた。だが、時代の変遷と共に国際化の波に呑まれて、化学繊維の急速な普及や、海外の安価な労働力には抗えず、国全体の紡績産業の衰退と共にその一枚看板を下ろしたのだ。今は、交通至便な地の利を活かして、大都市のベッドタウンとしての役割を担っていた。市が本腰を入れて福祉に取り組んでいるのもそのためなのだ。誰にでも住み良い街作りを目指すことが、将来に渡って安定的な財源を得るための足場の一つでもあった。
「あっ、ごめんなさい!」
少女は、歩きスマホをしていたのだ。彩音がコンビニの入り口でぶつかったのは、リュックを背負った中年の男性であった。だが、きちんと謝っても返事をして貰えない。そんなに怒らせてしまったのだろうか。日陰ではあるが、風の遮られた場所だった。数秒が数分の長さにも感じられ、無言の相手を前に汗が滝のように流れ出たのである。
「どうかしましたか。」
コンビニのドアが開いて、もう一人の中年男性が、束の間の冷気と一緒に現れた。
「その子が、木下君にぶつかったんだ。」
「その子?」「木下君は大丈夫だったんですか。」
「木下君は大丈夫。」「女の子がスマホしながら…、だから前を見てなかった。」
説明しているのは、炎天下で店の外にいた車椅子の男性だった。説明されているもう一人の男性も、手に白い杖を握っている。彩音は瞬間的に連想を巡らせて、ヤバい状況に陥るかも知れないと思った。
「ごめん!レジが込んでてさ。お待たせ!」「暑ーっ!」
もしもこの時、気まぐれな神様がこんな運命のイタズラを起こしていなければ、神崎彩音がボランティア活動に深く関わることは生涯なかったのかも知れない。最後にコンビニから出て来た眉目秀麗な若者こそが、高1の彼女たちの憧れの君、サッカー部のキャプテンを務める3年生の多賀翔太だったのである。
街からは少し離れた、田んぼと畑の混在するエリアの市営住宅に、齢七十五を共に迎えた杉山夫婦が暮らしていた。若かりし頃は、社会人野球の4番で鳴らした夫の雄一も、今では3階までの階段が途方もなく重い負担に感じられている。今日も、エコバックを片手に、やや不自由な左足を引き摺って、手すりのない階段を壁伝いに上って来た。
「ただいま。」
「お帰りなさい。早かったわね。」
往時の夕暮れ時には、泥だらけの子供たちが、夕飯の支度が整うまでのわすかな時間も黄色い声を上げていた。どの棟の窓にも一斉に蛍光灯が点って、ピカピカのマイカーで帰宅する父親たちが、何の苦も無く最上階まで駆け上がっていたのだ。明日は、きっと今日より豊かになれる。明日は、希望の光に満ちあふれているのだ。誰もがそう信じて疑わない時代であった。
「今日は、刺身が売り切れてた。」「鮭が割引だったから。」
「銀鮭ね。いいじゃない。」「もうお味噌汁は作ったの。すぐに焼くわね。」
「ああ、頼む。」「その間に風呂でも沸かすか。」
「今、お湯入れてるところよ。」「お願い、見て来てくれる。」
団地周辺での恒例行事やイベントには、ご近所同士が連れ立って出掛けていた。今頃は、盆踊り大会の知らせが届いて、揃いの浴衣に手を通す妻と娘の笑顔に囲まれていた。洗面所の棚の上には、今もまだ、忘れ去られた金魚鉢がホコリをかぶっているのだ。
「あなたーっ、買い物はーっ?」「いつ行くのーっ!?」「お刺身が食べたいわーっ!」
雄一は、風呂の蛇口を開いた。呼ばれて戻った台所にも、妻の孝子の姿がなかった。もちろん、用意したはずの味噌汁の鍋などどこにも見当たらない。銀鮭のトレイも、食卓の上に放置されたままだった。彼女の好きな歌番組が始まったのだ。夫は、素知らぬ顔で味噌汁の鍋を取り出して湯を注いだのである。まな板の上には、具の野菜が皮をむかれた状態で包丁と一緒に置かれていた。
彼女がピアサポーターの存在を知ったのは、手術すると決まった日の午後のことだった。主治医から、夫婦で“がん相談支援センター”を訪ねるように勧められ、相談員の看護師長から詳しい話を聞かされたのである。田所真紀、34才。夫の真一とは職場で出逢ってゴールインした。昨年の秋には待望の第一子、愛娘の美麗を授かった。順風満帆とまではいかなくとも、それなりに人並みな日々を送っていたのだ。右の乳房にできた腫瘍の大きさは、2cm×4cm。マンモグラフィーの映像には、細かな腫瘍も散らばって見えていた。全摘する以外に、恐ろしいがんの病魔を食い止める方法がないと宣告されたのである。
「では、面談のご予定を入れておきますね。」「たぶん、同じがん種の方のお話が聞けると思います。」「ぜひ、ご主人も一緒にいらして下さい。お聞きになりたいことを、メモして用意しておくと良いと思います。」
「ありがとうございました。そうします。」
二人は、互いの心を支え合うようにして、初めてのがん相談支援センターを出た。否、何もかもが初めてだった。まさかに彼女が乳がんに冒されるなど、想像だにしたこともなかったのだ。あれよあれよと言う間に、手術の日付が決まっていた。毎夜、二人で検索したネットの記事も、余りに相反する情報が氾濫していて、どれを信じれば良いのか分からない。それどころか、手術後の悲惨な創跡の写真や、どうしようもない喪失感を綴ったブログばかりに胸をえぐられ、次第に日常的な夫婦の会話さえもぎこちなくなって来てしまったのだ。このままでは真紀の心が持たない。思い余った真一が、主治医にその旨を訴えたのだ。
「帰ろう。」「今夜も、コンビニ弁当でいいや。」
「うん。」「…ごめん。」
病院の駐車場を出た車が、暮れ行く街へと溶け込んだ。
本当に、その助けを必要としている人たちがいる。そして、その人たちに手を差し伸べたいと考えている人たちがいる。伝えたい気持ち。受け取って欲しい想い。この物語は、そんな心の「ぬくもり」と「葛藤」を描く、ボランティアの真実がテーマです。
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