かるがも|ぬくもり1-7

 世の中には、強烈な負のエネルギーを放つ人たちがいる。生まれ育った環境によるものか、それとも排他的な防衛本能の強さによるものなのか。思考が外側に向けられることはなくて、常に自分の中でしか答えに行きつく方法を見出そうとはしない。どんなに言葉を尽しても、どんなに誠意を示しても、高い塀に囲まれた頑なな心で、平然とそれを受け流してしまうのであった。けっきょくのところは、自分自身の主張以外は認めない。一見、ポジティブな発言を繰り返していても、その実では、他人の異なる考えを寄せ付けなかった。極端に偏ったマイナスの思考回路で、時に詭弁を弄した聴こえの良いロジックを展開するのだ。この種の人たちと関わるのには、相応の覚悟が必要だった。いかに全力を傾けても、底知れぬ負のブラックホールに吸い込まれ、先の見えない消耗と無力感を覚えるからだ。言葉は決してかみ合わない。心が通い合うこともなかった。相手を肯定することでしか、関係は成立しなかった。

「そう。」「先生がそんなことを…。」

斎藤美佳子の場合もそうだった。

「何か、すごくショックで…。」「私、嫌われてるみたい。」

手にしたハンカチで目頭を押さえて、ずっと同じ話を堂々巡りさせている。

「大丈夫。考え過ぎよ。」「伊藤先生はお忙しいから。つい言っちゃっただけだと思うな。」

「でも、次の患者さんに早く逢いたかったみたいで。」「だから、私に出てけって。」

「出てけ、とは言ってないでしょ。」「もう帰っていいよ、でしょ。」

「同じことです。」

主治医との関係で、恋愛感情をいだく患者は珍しくない。美佳子の相談も、遥香にとってはそう聞こえていた。伊藤は、大学病院の医局から期限付きで派遣されて来た、乳腺外科の若いエリート医師なのだ。独身の彼女が、淡い想いを寄せても何の不思議もなかった。だが、問題は美佳子の行き過ぎた行動にあるのだ。

「斎藤さんも、もう少し診察時間を気にして上げるといいかもしれないなあ。」

前回も同様の提案をしていた。

「そうすれは、きっと伊藤先生も…。」

「でも、いっぱい相談したいことがあるんです。」

「分かるけど…。」

診療時間以外にも、勝手に押しかけているらしいのだ。無論、ストーカーまがいの行為を慎むべきだと、まともに指摘することなどできない。あくまでも、手術を終えて間もない乳がん患者のサポートなのである。大勢の患者を診ている伊藤の立場も十分に分かっていた。美佳子に限らず、多くのがん患者が、医師との関係で何らかのフラストレーションをかかえていた。国民の2人に1人、年間100万人にのぼる勢いで、新たながん患者が増え続けているのだ。5大がんと呼ばれる、肺がん、大腸がん、乳がん、胃がん、肝臓がんの患者たちは、あたかもベルトコンベアーに乗せられたような流れ作業に身を任せるしかなかった。まじめな医師ほど忙しい。一人一人の患者と丁寧に向き合う時間はなかった。

「私、嫌われてると思います。」「だから、出てけって。」

快刀乱麻のごとく、相談の全てに適切な回答が導き出せるわけではない。特に、負のエネルギーに巻き込まれてしまうと、遥香の受けるダメージも計りしれなかった。がん患者の心のサポートは、己が身を削る危うさをはらんでいるのだ。

「ひどいと思いませんか。患者に出てけなんて。」「私のこと、どう思ってるのかしら。」

遥香は、エスカレートさせないことだけを念頭においていた。


 主要駅からは車で5分ほどの、文教地区の一角に、やすらぎ会館は建てられていた。その1階部分の突き当りに、障害者支援のためのパソコン教室“かるがも”があった。

「こんちは。今日も暑いねえ。」「汗びっしょりだ。」

折り畳み式の長テーブルとパイプ椅子。20人も集まればすし詰め状態となる手狭さだった。それでも、かるがもに通う障害者たちにとっては、大きな心のより所なのだ。“見えなくなったらパソコンを始めよう”をスローガンに、多くの志あるボランティアの手によって支えられていた。

「おっ、多賀ちゃん、今日は早いね。朝からかい?」

午後の教室に現れたのは、ボランティアの一人、佐々木幸一であった。

「ええ。」「家にいても暑いだけなので。」「ここならエアコンきいてますから。」

週に一度、宏之はノートパソコンを持参していた。送り迎えも、ボランティアの手を借りている。ここに通い始めて2年が過ぎた。今ではもうすっかりメンバーの一員だった。

「こんにちは。橘です。」

「葵ちゃん、こんちは!」「今日も別嬪さんだねえ!」

少し遅れて入って来た女性にも、健常者の佐々木が声をかけたのである。

「佐々木さんこんにちは!」「とけちゃいそう!暑―い!」

元気印の橘葵(タチバナ アオイ)は、かるがものマドンナ的存在だった。彼女も、中途失明した視覚障害者なのだ。人目を引く容姿だけではない。豊かな才に恵まれ、語学にも精通していた。娘が一人。離れた都会で独り暮らしをしている。今は、気難しい夫と二人の生活だった。

「ヒロさんの隣、空いてる?」「誕生日会のことで話が…。」

「空いてるよ。どうぞ。」

葵は、自称40代。ここでは、互いのことを深く詮索したりはしない。皆、それぞれの苦難の果てに、ようやくかるがもへたどり着いたのだ。人に話したくない過去も、知られたくない今も、さまざまにかかえながらひた向きに生きている。大切なのは、立ち止まらないことだった。頑張らなくていい。気負わなくていい。自分のペースで、.わずかずつ前へ進んで行く。それが、かるがものやり方だった。ルールはただ一つ。互いに助け合うことだ。

「たしか、今度は映画鑑賞だったよね。」

「そうなの。」「それでね…。」

3か月に一度、メンバーたちの誕生日のお祝いをしている。毎度、何らかの趣向をこらして、音楽の演奏会を催したり、大学の落研を招いたりと、非日常の空間を楽しんでいた。次の誕生会では、毎年恒例の外部のボランティアを招いて、副音声さながらに、映画の場面解説をしてもらう予定なのだ。視覚障害者にとって、これほど嬉しいイベントはなかった。

「ちはーっ!」「由莉ちゃんどぇーす!」「今日もみんな頑張っとるな。わしゃ嬉しいぞ!」

ぶっ飛びキャラで登場したのは、知る人ぞ知る、売り出し中の菊川由莉(キクカワ ユリ)だった。

「由莉ちゃん、こんにちは。葵どぇーす。」

「ヒロどぇーす!」

「おおっ、今日も葵はカワユイのう!」「ヒロとベッタリは、ちと妬けるが。」

彼女の登場で、かるがもは賑わいを増した。由莉は、今をときめく新進気鋭の画家なのだ。その大胆な構図と繊細なタッチが、多くの絵画ファンを魅了し続けていた。否、絵画ファンならずとも、彼女の描く世界観を目にしたら、誰もが忘れられなくなってしまうのである。たちまちその絵に恋をして、朝な夕なに焦がれずにはいられない。

「何じゃ何じゃ。二人で何の悪だくみじゃ。」「由莉ちゃんも混ぜたらんかい!」

性格はこざっぱり。いわゆる“男前”の、年齢不詳の女性であった。

「何と!誕生日会で大暴れとな!?」「やるのう!ぬふふっ、おもしろそうではないか!」

しかし、由莉は、画家としては“致命的”とも言える、ある重い障害を背負っていたのである。

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