未来|ぬくもり1-6

 また、あの頃の笑顔を見ていた。由紀子と知り合った頃の、眩しいくらいに輝いていた彼女の笑顔だ。目を覚ました宏之は、うたた寝していたベッドから手を伸ばした。

「午後1時42分です。」

ピラミッドの形をした音声時計の頭を押さえたのだ。

「翔太!?」

夏休みだからだ。もしかしたら、帰ってきているかもしれない。確認の声掛けだった。

「いないか。」

二人は、高校時代に知り合った。バイト先の飲食店に、由紀子が面接に訪れたのだ。最初に応対したのが彼だった。人は出逢った瞬間、恋に落ちているのかもしれない。彼らがそれを確かめ合うまで、それほど多くの時間を必要とはしなかった。

『私、ヒロと結婚はできないの。』

旧家の一人娘だったのだ。一人息子の宏之では、婿養子に来てはもらえない。彼女の両親は、交際さえもやめるよう娘に求めたのだ。携帯もポケベルもない時代、二人の関係は綱渡りとなった。だが、それすらも若い二人には愛のチカラに変えられる。互いを想い合う気持ちは、さらに強く、さらに激しく燃え上がっていった。

『ねえ、私、何だかこわい。』

一念を貫いた由紀子は、夫となった彼の腕の中でつぶやいた。

『何が?』『何がこわいの?』

『こんなに幸せだから。』『ずっとヒロのそばにいられるのかなあって。』

『たく、バカだな。』『俺が一生放さないよ。』『世界一愛してる。』

『私も。』『ヒロがいなきゃ、どうにかなりそうなくらい愛してる。』

彼女が不治の病に襲われたのは、翔太のためにランドセルを買ったばかりの頃だった。日増しに衰弱し、やせ衰えていく由紀子を彼は片時もそばを離れずに支え続けたのだ。だが…。

『今日は何だか顔色がいいね。』『これなら、もうすぐ起きられるかもしれないな。』

彼を夢中にさせた瞳に、もうあの煌めきはなかった。

『うん…。』

互いが互いのために初めて口にした、生涯ただ一度の嘘の会話だった。

『元気になったら、翔太とピクニックに行こう。』『あいつの好きなハンバーグ焼いてやってくれ。歓ぶぞー。』

『たまご…焼き…も…、作って…上げたい。』

『ああ、俺も食いたい。』『すごく楽しみだ。絶対行こう。』『三人で。』『絶対に…な。』

非情な運命が二人を別つ時、頬を伝う彼の涙をぬぐおうと、由紀子は渾身の力を振り絞った。

『愛してるよ、世界一。』

折れてしまいそうなほど細い指が、そっと包んだ宏之の手の中で頬に押し当てられていた。

『私…愛し…る。』

最期の言葉であった。病室の床をはう夫のすすり泣く声が、白み始めた早春の空の下で、新たな朝を迎える院内を行くあてなく流れていった。全身全霊で看病を続けた彼が、かなり進行した網膜色素変性症であると診断されたのは、由紀子の葬儀からわずかに3か月後のことだったのである。

「はい、多賀です。」「ええ、大丈夫です。」「そうですか。分かりました。」

あの、こぼれるようにあふれ出すやさしい笑みに、宏之は夢の中でなら自由に逢うことができた。旅行好きの由紀子が撮りためたフォトアルバムには、忘れてしまった思い出も含めて、二人の大切な時間が詰まっているのだ。彼が最後にそれを見たのは、幽かに視力の残っていた三年前の結婚記念日の晩だった。

「わざわざ有難うございます。」

電話は、宏之がある講師を依頼されている、I市の社会福祉協議会からのものだった。

「了解です。全体講義もでしたね。」

永遠に閉じられてしまったフォトアルバムの表紙は、“未来のH&Yへの贈り物”と題され、愛しい妻の描いた、数え切れない手書きのハートマークで埋め尽くされていた。

『うふっ、おじいちゃんとおばあちゃんになったら、日なたぼっこしながら二人で見るの。』

あんなに楽しみにしていた未来であった。

『ヒロと翔太との思い出、もっともっと増やさなくちゃ!』

もう手の届かない二人の未来であった。


 智美は、夫婦を新作映画へと誘った。彼女の送り迎えで、ショッピングセンター内のシネマを予約したのだ。何年ぶりの映画館であったろう。大きなスクリーンで眺める迫力のシーンを満喫した。同じ物語を見守る観客同士のライブ感も、自宅で回し見るDVDでは決して味わえない。笑いと涙を共有するのが、まさに大勢で観る映画の醍醐味なのだ。

「ね、ほら、あいつが裏切り者よ。」「そうだと思ったわ。」

久々の大型娯楽時代劇。小難しい物語ではなくて、勧善懲悪の分かりやすい内容だった。得意気に展開を読む孝子の楽しそうな顔に、彼は智美の的を得たセレクトに感謝した。

「はいこれ。」「智ちゃんもどうぞ。」

真ん中に腰掛ける孝子が、持参した菓子を手渡したのだ。だが、すでに智美の膝には、たくさんの菓子のたぐいが乗っていた。孝子が映画に気を取られているからだ。

「ありがとう。」「ご主人にも上げた方が…ね。」

本庄智美は、まだ40代半ばの若さであった。死別した夫とは、年の差婚だったのである。

「いいの。」「智ちゃんが心配しないで。」「これも食べなさい。」

思い過ごしかもしれない。智美はそう思いたかった。孝子の認知症が進むに連れて、微妙な言い回しが増えているのだ。もしかしたら、自分に対する嫉妬ではないのか。そう疑わざるを得ない不審な言葉にとまどっていた。ボランティアへ連れ出す際も、堂々と部屋まで訪ねているのだ。疑われるようなことは何もない。雄一とて、全く同じ気持ちでいるはずだった。

「いやあ、おもしろかったなあ!」「智ちゃん、ありがとう。最高に楽しかったよ!」

「ほんとにおもしろかったですね!」「ねっ、奥さん!」

二人の声が同時にはずんでいた。孝子は、それが気に入らなかった。

「お菓子持って来れば良かったわ。退屈しちゃった。」「つまらない映画だったもの。」

予期せぬ妻の言葉で色を失くす雄一の顔を、智美は複雑な思いでさっと見た。

「そうかなあ。」「いい映画だったけどなあ。」

孝子は、もうそれには答えなかった。飲食店街の案内に目を輝かせていた。

「私、お寿司が食べたいわ。」「ね。智ちゃん。回転寿司でいいかしら。」

「あ、は、はい。」「そ、そうですね。そうしますか。」

この先を思えば、立ち尽くす雄一の気持ちが手に取るように分かった。孝子が孝子でなくなっていく。自分を無視する見知らぬ妻がそこにいた。夫婦仲良く、穏やかに過ごせる日々を夢見た老後が、もろくも崩れ去って、ただ老いてしまった彼に過酷な牙をむこうとしていた。

「ここまで来たら、映画でも観たかったわね。」「ずっと連れて来てもらってないもの。」

雄一は、自らに言い聞かすかのように、力ない言葉を妻に返したのである。

「ああ。今度はそうしよう。」「今日は寿司を食べに来ただけだから。」

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