キャリア|ぬくもり1-5

 一体、何のつもりなのだろう。彩音は、自分の行動をいぶかしんでいた。高校受験のために通った市立図書館に来ていた。暑さ寒さをしのいで、集中するには最適の環境だったのだ。だが、今日は目的が違う。思い浮かべた書籍が、ここにならあるかも知れない。近所の書店を覗いた彼女は、自然と、慣れ親しんだこの場所へ足が向いていた。

「やっぱ医学、か。」

パラパラとめくった書店の実用書は、どれもピンとこなかった。目の病気そのものよりも、健康法に重点が置かれていたからだ。緑内障と白内障があることは分かった。だが、“見えない人”や“見えないこと”をテーマに書かれた背表紙が見当たらなかったのである。

「視覚障害者って言うんだ…。」

知的好奇心か、それともミーハー的な興味本位なのか。なぜ知りたいと思うのだろう。自分でも良く分からなかった。多賀翔太の存在はあまりに遠すぎて、京奈のように交際を夢見たことなどなかったのだ。たいていの女子は皆同じ。アイドル的にもてはやして、キャーキャー騒いで盛り上がっているに過ぎない。特定の“カノジョ”がいないらしいことも、憧れの君としては満点だった。

「何これ、漢字ばっかじゃん。超むずかしい。」

彼の父の目が不自由であると知った時、彩音の中で思わぬ“スイッチ”が入ったのだ。知りたい。見えない人のことを知りたい。なぜそう思うのか。確信の持てる理由はなかった。

「これの方が分かりやすいと思う。」

「え。」

心臓が飛び出してくるのではないか。そう思えるほど驚いた。

「この棚の、一通り読んだから。これが僕のおススメ。」

まさかに、書籍を手渡してくれたのが多賀翔太だったのだ。彩音の胸は早鐘を打った。

「あっ、ごめん。」「目の病気のことで良かったのかな。」

「え…。」

近すぎる。棚と棚の間の狭い空間で、息づかいが分かるくらい間近に立っていた。

「えっ!?」「あ、はっ、はい!」「有難うございます!」

もしも、この状況を学校の誰かに見られたら、新学期が始まるのが恐ろしい。特に京奈は危なかった。にこやかに微笑みながら、口もきいてくれなくなるに違いない。おススメの書籍を開いて、その場で理由を話し出す憧れの君に、彩音はただうなずくばかりで言葉さえ聞き取れてはいなかった。彼女に理解できたのは、なぜこれほど知りたいと思ったのか、入ってしまった恋のスイッチの意味だけだったのかもしれない。


 マンションの部屋は12階。ドアノブを引いた刹那に、今夜も彼が帰宅していないと知った。週末はそれが当たり前となった。不規則な勤務時間帯の遥香と違って、夫の勝は定時に仕事を終えるのだ。以前は、会社の行事の他に寄り道などしなかった。彼女の帰りが遅くなる時は、得意な料理に腕を振るって、遥香の好きな白ワインまで冷やして待っていてくれたのである。

「もしもしお母さん。」「うん。留守電聞いた。ありがとう。」

実家の母が、自前の畑で作った野菜を送ってくれたのだ。

「ううん。何で?変わりないよ。」「マサ君?」「あ…ごめん、今、お風呂に入ってる。」

二人の間に子供はなかった。これまでも、そしてこれからも、彼女はホテルでのキャリアを第一優先と考えているのだ。彼との話し合いで、復帰の遅れる乳房再建の手術を拒んだのもそのためだった。待っていてくれている人たちのために、何よりも自分自身のために、一日も早く現場に戻りたかったのだ。夫婦の関係が揺らぎ始めたのはそれからだった。

「はいはい。」「大事にしてるから大丈夫。ほんと、苦労性なんだから。」「じゃ、切るね。お休み~。」

静まり返った部屋は、無用な孤独が忍び寄って来る。遥香はテレビを点けた。

「あっ、池井さんだ。」

ピアサポーター専用の携帯に、何度か面談している女性からメールが届いていたのだ。

「決心してくれたんだ。そっか。」

どうしても手術に踏み切れなかった彼女に、遥香はセカンド・オピニオンを勧めていた。主治医との関係を損なうのが恐いと、その患者は今日まで二の足を踏んでいたのである。だが、最終的にはこれしか方法がなかった。治療方針に疑問を感じたまま、手術を受けても拒んでも、後々まで後悔し続けるのは患者自身だからだ。ヒャクかゼロかではなくて、遥香は、うまく折り合いを付けさせて上げることが肝要ではないかと考えていた。上位にある病院や医療機関で、今の主治医の治療方針が適切であると専門医に太鼓判を押して貰えば、少なくとも心の不安の何割かは取り除いて上げられる。それがピアサポーターの役割の一つであった。


※セカンド・オピニオンとは、新たに別の医療機関で診察を受けることではありません。現在の担当医(主治医)から示されている治療の方針が、がんの標準治療に照らして適切であるか否かを、今までの検査結果を元に、別の医療機関の医師に検証・評価して貰うことです。通常は、上位にある大学病院や国立がんセンターなどへ、受診している病院を通じて予約を入れます。但し、全額が自己負担となりますのでご注意下さい。

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