マジック|ぬくもり1-4

 人には三つの命が与えられていると言う。宿命、運命、そして天命だ。いつどこで、誰それの子として生まれ、五体満足で生まれてきたのか。兄弟、姉妹はいるのか。男か女か。望まれた命であったか否か。自らの意思とは無縁の、それでいて生涯逃れられない、人に宿った定めが宿命なのだ。誰にどう育てられ、いつどこで誰と出会い、何を選択したか、あるいはしなかったのか。社会の変化や天変地異も含めて、人生を大きく左右するものが運命だった。それは偶然である場合も必然である場合も、自身の意思と判断で、幸運にも悲運にも替え得る可能性を秘めている。ハンデを克服することも、災いを福となすことも、もしかしたら叶えられるのかもしれないのだ。自分次第で万化するのが運命だった。そして、最後の一つが天命だ。生まれながらに担ってきた者たちもいる。ある出来事や出会いを契機に担っていく者たちもいる。ささやかに生きた人生であっても、それがその人でなければならない理由が必ずあるのだ。子々孫々に至って、初めて意味を持つ人生もあるだろう。思わずつぶやいた一言が、世の中の仕組みを変えてしまう人生もあるだろう。人は、それぞれが天命を担って生きている。どんなに片隅へ追いやられていても、誰かに奪われて良い命など絶対にないのだ。人の命が何より尊いのは、正にこの天命を与えられているからであった。

「あっ、支配人お早うございます。」

「お早う。」「昨日も満室にできたのねえ。良かったあ。」

ホテルの制服を着た彼女がそこに立つだけで、ロビー全体が凛とした華やぎに包まれていく。宿泊支配人を務める白石遥香の場合もそうだった。

「はい。」「キャンセルとノウショウが2件あったんですけど、ネットとウォークインで埋められました。」

「さすが大川君と飯田君のナイトは完璧だわ。」「今月も稼働率は何とか達成できそうね。」

乳がんの手術を受けたのは5年前。遥香が33才の時だった。

「あとは売上げよねえ。」「週末の予約はどうなのかしら?」

「ツインとダブルはいっぱいです。」「でもスーペリアシングルがまだ…。」

主にブッキングを任されている日勤の石川和代が、くやしそうに答えたのである。

「そう。」「まだレートは下げずにいきましょう。」

「分かりました。」「今週もセミダブルで販売してみます、」

「お願い。何とか単価を稼ぎたいから。」

失いかけた自分の人生を、多くの人の想いに支えられて取り戻したのだ。

「今日はインバウンドが二組か。」「チーフのところへ、メニューの確認に行ってきます。」

彼女は、ピアサポーターがボランティアであるとは考えていない。ここまで支えて貰った想いに報いることこそが、自らに課せられた天命であると信じているのだ。総料理長のいるメインキッチンへ向かう遥香の脳裏に、泣き笑いしていた田所真紀が、何かを吹っ切れたような表情で、にこやかに手を引く夫と面談室から出て行く姿がよみがえっていた。


 隠し芸に手品を覚えたのは、がむしゃらに働いていた20代の頃だった。営業で回る得意先での話題作りと、会社の忘年会で一目置かれるために毎年一つずつをマスターして、人目にもプロの域に達したと思われるくらいまで完成度を高めていた。一番の得意はコインを使ったマジックだった。飲み屋のカウンターでも、ドヤ顔で披露していたのである。目当ての女の子の気を引くためにだ。だが、ここではそれが使えない。目を見張るような難しいマジックは、すぐに皆のアクビを誘ってしまうからだ。

「はーい、帽子からハトが出ました!」「スゴーイ!」

雄一は、デイケアセンターへの慰問に訪れていた。

「みんなで拍手―っ!」

マイクで司会兼解説をしてくれているのが、彼にボランティアを呼び掛けた本庄智美であった。現役時代の雄一の部下で、5年前に亡くなった夫と共に家族ぐるみの付き合いをしてきたのだ。ただ家に閉じこもっていてはもったいない。ぜひあの芸を人の役に立てるべきだと、半ば強引に、車での送り迎えも含めて連れ出してくれたのである。

「さあ、みなさーん。今から新聞の中に牛乳をそそいじゃうみたいですよ。」「どうなっちゃうのかなあ。」

入所者のほとんどが車椅子。しかも、相当に痴呆の進んだ高齢者もいるのだ。これほど単純なマジックでさえ、どこまで理解しているのかは疑問であった。それでも、彼には大きな生きがいなのだ。こう見せたら、もっと解かりやすくなるのかもしれない。ここでわざと間違えれば、ドッと笑ってくれるのかもしれない。あれやこれやと考えて、少しでも反応があればしめたものなのだ。笑顔を見せてくれたなら、それに勝る喜びはなかった。

「杉山さんに、もう一度たくさんの拍手をーっ!」

自宅を空ける彼の代わりに、実妹の恵子が面倒をみてくれていた。日が落ちれば、滅多に孝子が一人で外出する怖れはない。しかし、日中は何かと用事を思い付いてしまうのだ。もしも鍋を火にかけたままで出掛けてしまったら、取り返しの付かない事態も起こり得る。隣町に住む妹の理解と協力がなければ、成り立たない生きがいでもあった。

「お買い物、いつものスーパーに寄りますか。」

「すまんなあ、いつも。」「重い物は車だと助かるよ。」

「私が玄関まで運びますから。」「ふふっ、ビールも切れる頃でしょ。」

人のために何かする。小さな親切こそが、ボランティアの原点だ。智美もまた、杉山夫婦との絆をつなぐことで、亡き夫の面影を身近に感じていられた。さまざまな想いで、できることから手を差し伸べる。その一方で、ボランティアは、それを行う者の心も温かく満たしてくれるのだ。雄一は恵子の好きなスイカも、1玉買って帰ろうと決めていた。

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