紅葉|ぬくもり1-8

 昼間にも聞かされていた。昨日の晩から様子がおかしい。悪いが見てきてくれないかと、先に帰宅していた妻の静江が、玄関をくぐる光太郎に頼んだのだ。声をかけても上の空で、時々、あらぬ方向を見詰めてはため息をついている。夏風邪ではないとも言っていた。彼は。怪訝そうな面持ちで急な階段を上って行った。

「入るぞ。」

ノックしても返事がなかった。

「何だ寝てんのかと思ったぞ。」「返事くれえしねえか。」

彩音は、ベッドの上で、ぼうっと天井を眺めていた。

「…お帰り。」

父が額に手を当てて、ようやく娘がつぶやいたのだ。

「ほんとだ。熱はねえみてえだな。」

娘の胸には、分厚い表紙の本が抱えられている。何かの辞書だろうか。難しそうな本の中身と、彩音のため息とが関係しているのかもしれない。光太郎は、そう踏んだ。

「随分と立派なもん読んでんだな。」「ははあ、さては勉強し過ぎの知恵熱って話か。」

父は何気に脇へ腰掛けて、原因らしき本の表紙を覗こうとした。

「パパ…。」

「ん?何だ?」

「視覚障害者って知ってる?」

「はっ?」「おめえ、親をバカにしてんのか?」「それとも、てめえんちの商売忘れちまったか?」

「ね!」「商店街の知り合いとかでさ!」「いない!?」

いきなり身を起こして父に詰め寄った。

「ううん、お客さんとかでいそうじゃん!」「一人くらいいるでしょ、目の悪い人!」

「全く話が見えねえ。」「て言うか、顔近すぎ。」「娘のどアップやめてくんねえか。」

両親は、往時に隆盛を極めた駅前商店街で、小さな薬局を営んでいた。無論、彼も静江も共に薬剤師なのだ。目の病気に関する正しい知識は十分に持っていた。

「あのさ。」「娘が困ってる時に助けんのが親じゃん。」「いないの、誰か。」

「何だ。何か困ってんのか。」「なら、困ってるワケを言ってみな。そいつが筋ってもんだ。」

彩音の目が泳いだ。

「ワケ…。」

「ワケもなしに困る奴なんざいねえ。目の不自由な人探してどうすんだ?夏休みの宿題か。」

「ワケは…、ない。」「ワケなんてない。」「あるワケない。ぜんぜんない。」

「はあ?」「おめえ大丈夫か?」

「はっ、はははっ…。」「かっ、解決しちゃったみたい。」「ありがと。もういい。」

娘は、父を部屋から追い出した。光太郎は苦笑いしながら階段を下りたのだ。彼の顔を不思議そうに見る静江の前で、父は、こらえていた笑いを爆発させた。

「何。」「大丈夫だったの?」「ちょっと、一人で笑ってないで教えてよ。」

「ああ、すまんすまん。」「ありゃあ、確かに病だな。」

「えっ!?夏風邪!?」「嘘!?」

夫は楽しそうに首を横に振って見せた。

「そうじゃねえ。」「病は病でも、薬じゃ治せねえ病の方だ。」

理由を聞かれて、見る間に頬を紅く染めたのだ。父は直感した。彩音は恋をしているのかもしれない。子供とばかり思っていた娘の変化に、光太郎は戸惑いながらも微笑ますにはいられなかった。しかも、かなりの重症らしい。ただ、“視覚障害者”とどんな関係があるのか。夫婦は、見えない答えを求めて、あれやこれやとこっそり詮索し始めていた。


 5年前に倒れた脳梗塞の後遺症で、雄一は以来、左足が自由に動かせなくなっていた。無類の酒好きで、塩分の濃い肴ばかりを摂り続けていた。メタボと分かっていながら、節制することも、運動を心がけることもしなかったのである。ある日、ソファに腰掛けていて意識を失った。もしも孝子がそばにいてくれなかったら、今頃はどうなっていたことだろう。九死に一生を得た思いで、それからの彼は健康的な生活を第一に考えていた。

「お早うございます。」

「お早う。」

日課の散歩も、孝子が起き出す前の早朝に済ませていた。いつもの場所辺りで、新聞配達のバイクとすれ違う。いつもの挨拶を交わして、いつものコンビニにも立ち寄るのだ。

「ありがとうございました!」

雨の日を除いて、これが一日の始まりの定番となった。良く冷えた缶コーヒーが、帰宅後の彼の楽しみなのだ。孝子のためには、レモンティーを買い込んでいた。夫婦とは不思議なもので、長年連れ添っている内に、五感の捉え方や、喜怒哀楽のポイントが似通ってくる。以心伝心したかのごとく、互いの心が手に取るように分かるのもこのためだった。仲の良い夫婦ほど、言葉を超えた想いを、わずかな仕草の違いからでも感じ取ることができた。

『うわーっ、あなた見て!』『キレーイ!』

一昨年の秋、まさにどんぴしゃりのタイミングで紅葉狩りに訪れていた。

『すごいな。』『ほんとの見ごろだ。』

有名な渓谷の名所であった。前年は、10日ほど早くに訪れてしまったのだ。写真の日付を確認して、カレンダーにもしるしを付けていた。これほど見事な紅葉を見るのは初めてなのだ。

『ほんとに、キレイ…。』『素敵ねえ。』

大自然の織りなす桁外れの美であった。燃えるように色鮮やかな赤の群れ。目に飛び込んでくる圧倒的な色彩の迫力に呑み込まれていた。何という美しさであろうか。心洗われるとはこのことだ。瞬く間に、雄一の頭には、手を携えてきた二人の過去が蘇っていた。

『来年も…。』

夫は、潤んだ瞳を見られまいと顔をそむけていた。孝子は言葉の代わりに、そっと手を差し出したのである。やさしく握り返す雄一の手のぬくもりが、彼女には最高の思い出となったのだ。仲睦まじくそぞろ歩きを始める二人は、若い恋人同士のように手を離さずにいた。

「何をしてるんだ!」「やめないか!」

玄関に入った瞬間、シャワーの音に気が付いた。孝子は冷水を浴びていたのだ。しかも、パジャマを羽織ったままでだ。雄一は、我に返って動揺する妻を、その場できつく抱き締めた。

「お前が悪いんじゃない。」「もう泣くな。」「何もあやまらなくていいんだ。」

びしょ濡れの髪をなでながら、彼は、内心で途方に暮れていた。

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