情念|ぬくもり1-11

 あれ以来、孝子の症状は落ち着いていた。無論、着替えを済ませた直後に、冷水を浴びていた記憶もなくなっていたのだ。だが、それはある種の救いでもあった。認知症が進んでいることへの、本人の恐怖心や絶望感も拭い去ってくれるからだ。むしろ認知症の罪深さは、支える者の心を一方的に疲弊させてしまうことにあるのかもしれない。ケアギバーズハイと言って、どんな患者をケアする場合でも、介護者や介助者には、その負担に見合っただけの感謝の意の表明や、奉仕の効果に対する一定の高揚感を得られることがあった。しかし、こと認知症においては、患者自身から患者として感謝されることはまずあり得ない。砂漠に水をまくかの如くに、手ごたえのないケアを繰り返し繰り返し行わなければならないのだ。その上、猜疑の眼で見られることも少なくはなかった。金銭に執着する者。食べ物に執着する者。色恋や嗜好に執着する者など、それぞれが極端に偏った物の見方で、根拠もなく相手を疑い、あらぬ妄想で周囲を妬み、時に罵りの言葉までも吐いて支えくれる者たちを貶めてしまうのである。疑心、暗鬼を生む。人を疑う心には、いつしか暗黒の鬼が棲みつくのであった。

「こんにちはあ。ふうっ、遅くなってごめんなさい。」「出がけに電話やら何やらで。」

「あら、いらっしゃい!」「久しぶりじゃない!元気だった!?」

チャイムの音でドアを開けた孝子との、毎度お決まりの会話であった。

「あ、お義姉さん、こんにちは。」

「どうしたの急に?」「びっくりしたわ。」

「近くまで来たから、ちょっとね。」

「ほんと。でも嬉しい。」「さっ、上がって。」「あなたーっ!恵ちゃんよーっ!」

今日も、義妹の恵子に見張られるのだ。

「こんにちは。」「いつもすみません。お願いします。」

「智美さん、ごめんなさいね。」「大丈夫かしら。」

「ええ、何とか。」「ありがとうございます。」

「じゃ、頼むな恵子。」

「えっ、あなた出かけちゃうの?」「嘘?」「智ちゃんと?」

「すまんな。すぐ戻る。」「恵子とお茶でもしててくれ。」

彼が、マジックの道具を詰めたバッグを手にドアを開いた。四人が玄関で交錯するのも毎度の光景だった。智美も続いて靴を履き、追い掛けるようにして階段へと向かったのである。

「間に合うかな。」

「先方に電話を入れてみます。」「慌てるのやめましょうね。」

足の悪い雄一への配慮でもあった。

「あっ、もしもし、本庄と申します。」「はい。はい、そうです。実は…。」

恵子とて、忙しい時間を割いて来てくれているのだ。文句の言えるはずもない。しかしながら、訪問先にも段取りがあった。智美は、手際よく電話を済ませ、車の鍵を取り出した。

「時間調整してくれるそうです。」「みんな楽しみにしてるからって。」

「ありがとう。そう言われるのが一番うれしいよ。」

ほっとした様子で、蒸し風呂のような車内に乗り込んだのだ。彼女も急いでシートベルトを締めていた。なぜだろう。妙な胸騒ぎを覚えたのである。普段は気にとめたこともない杉山家の窓を、智美は導かれるように見上げていった。全身に鳥肌が立ったのはその時だ。

「何、どうかしたかい?」

「えっ、あっ、いえ。」「ほんと、今日も暑いですねえ!」

映像が目に焼き付いてしまった。鳥肌と言うよりは、悪寒が走ったと言うべきなのかもしれない。氷のように冷たい眼差しで、カーテンの隙間から見下ろす孝子と、彼女はぴたりと視線を重ねてしまったのだ。あれは確かに、嫉妬にかられた疑いの眼だ。ぞっとする場面に、智美は、この先への大きな不安をかかえることとなっていた。


 強い陽射しの晴天が続けば、主婦たちにとっては追い風となる。洗濯物はよく乾き、部屋の掃除も換気しながらできるのだ。どこまでも晴れ渡る高い空の青さが、真夏の暑さの中にあっても、ほどほどに開放的で清々しい。自然とテンションを上げて、午前のモチベーションを後押ししてくれるのであった。

「オバンの歌が~、聴こえてくるよ~♪」

この手の替え歌が大好きな葵の場合も同様だった。

「ケイロウ敬老、ケイロウ敬老、ケロケロケロケロ、バンバンオバ~ン♪」

手慣れた作業に限れば、家事全般を無難にこなしていた。今朝も、マンションのベランダで洗濯物を広げているのだ。晴れ渡る空の青さと無縁の彼女は、夏の暑さにへこたれないために、何らかの方法で自身を鼓舞する必要があった。自虐的な替え歌もその一つなのだ。

「オバンババンバンバン、は~シワシワ♪」

自称40代。見た目にも若々しかった。

「オバンババンバンバン、は~あシワどんどん♪」

ぶっ飛びキャラの画伯とは違って、葵の場合は、底抜けに明るい軽妙な毒舌がウリだった。ウリと言う表現は、そうありたいと望む演技の部分があるからだ。彼女は、常に人目を気にするデリケートな小心者でもあった。

「笑ったら、ハハン、シワ増えた、オバン♪」

小学生の頃は、毎日毎日、顔を見たら取っ組み合いの喧嘩をするほど、兄と仲の良い、とてもおしとやかな少女であった。クラスの女子の私物を隠したり、テストでのカンニングは当たり前。学校帰りに見つけた寂しそうなヒキガエルを、近所のドラ猫たちと遊ばせて上げるなど、大変に心のやさしい親切な一面も持っていた。

「フロ入ったか?歯みがいて寝ろよ!」「ウルセー!オバンは動きがニブイんだ!」

中学生になってできた友達も、放課後に遊ぶ約束をしてすっぽかした。高校時代には、何を考えたのか、自前の丼で通学途中のうどん屋からテイクアウトを試みたのだ。もちろん、包んだハンカチも制服もビショ濡れで、つゆのないうどんだけが丼の底に張り付いていた。

「来週もどん~どん、ボ~ケ~ましょう♪」「は~あババァどんどん♪」

緑内障と診断され、完全に視力を失ったのが10年ほど前だった。以来、毎週欠かさず、かるがもに通ってきている。容姿が端麗で、明るく振る舞う元気印も手伝って、葵はたちまち“かるがものマドンナ”と呼ばれていた。彼女と会話していれば、小さな悩みなど吹き飛んでしまう。皆が皆、軽口で毒舌の葵との触れ合いに心癒されていた。

「さあ、次は橘葵さんの大ヒットナンバーです!」

しかし、彼女の心が満たされることはずっとなかった。貪欲に、何にでも好奇心旺盛に飛び付いて生きてきたのだ。本当はわがままで、負けず嫌いで、誰よりも自分が好きなナルシストだった。否、あの頃の、自由奔放にわが道を歩んでいた葵自身に焦がれているのだ。

「永遠の迷曲、老女Aを歌っていただきましょう!」

今もくっきりと脳裏に浮かぶ、描いてみたい一枚の絵があった。

「チャラララララ~、チャラララララ~♪」

目の覚めるほど色鮮やかに咲いた一輪の紅いバラ。花びらには、はじけ落ちる寸前の丸い水滴が乗っている。周囲を取り囲むのは漆黒の闇だった。孤高の美しさに息を呑む。あたかもそれは、失明で道を闇に閉ざされてしまった、捨て去りがたい葵の情念であるかのようだった。



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