ピッチ|ぬくもり1-14

 高齢化も、少子化も、格差による貧困も、もはや何気ない日常で耳慣れた感がある。だが、どれひとつをとってみても、近年に朗報がもたらされた記憶はない。有識者やメディアが国の無為無策をあげつらっても、あげつらうことだけが正義の全てで、彼ら自身に問題解決の具体的な行動があるわけではなかった。否、社会の仕組みの大局から見れば、政治家や官僚を酷評する著名人たち自身が、その仕組みの恩恵をより多く受けているのだ。本当に助けを必要としている人たちは、明日のための改革案を聴きたがっているのではない。今に困っているのだ。今日の自分に窮していた。声なき声が、社会の片隅で日々かき消されてしまっている。家庭と言う小さな単位の中で、抗うすべなく、歯を食いしばって生きていくしかなかった。

「お帰り。」

「…ただいま。」

まだ、返事をしてくれるだけ、わが家はマシなのかもしれない。智美は、中学1年となった息子とのコミュニケーションに息苦しさを覚えていた。

「一馬(カズマ)、体操服は?」「明日も部活あるでしょ。すぐに洗濯機回すから。」

何も言わずに、自室の外へ放り出してきた。

「うわっ、汗びっしょりじゃない。」

思春期の男の子は、女親にとっては難しい。一馬の場合、明確な態度で反抗を示すわけではなかった。母親の言動を拒絶しているわけでもない。ただ、最低限の会話しかできなくなっていた。以前のように、学校での出来事や友達のことを、彼女に話してはくれなくなってしまったのである。面倒だと思っているのか。それとも訊かれたくない隠し事でもあるのだろうか。パートの掛け持ち勤務で疲れている智美には、このことも、先の見えない大きな心の負担となっていた。男親のいる家庭なら、もっと上手に息子との距離を保てるのかもしれない。新婚当時は幸せに満ちていたアパートが、今では、逃げ場のないオリのごとくに感じられていた。

「あ…やだ、まただ。」

職場の上司が送り付けてくるメールだった。

「ほんとにしつこい。」

何度ことわっても、諦めずに彼女を食事に誘ってきた。ちゃんと妻子のある50代の男性なのだ。この職場が初めてではなかった。立場の弱いシングルマザーは狙われやすいのだ。不快な記憶ばかりが蘇る。こんな時、智美の頭に浮かぶのは雄一の姿であった。心から信頼し、父親のようにも感じていた。彼女がボランティアに連れ出すのも、本当は自身が癒されたいためでもあった。このパートもまた、辞めなければならなくなるのかもしれない。女性が安心して働ける環境は、雇用機会の平等や子育て支援策だけで整えられるものではなかった。


 真夏のピッチを駆け回る後輩たちの熱い声。舞い上がる土けむりの香りも、太陽の照りつける芝の青さも、翔太が慣れ親しんできた無心となれる空間だった。ほとばしる汗を拭って、ひたすらボールを追いかけてきた。仲間と風を感じることができた。自分からも解き放たれて、能力の限界に挑戦できたのだ。そこには、宏之の知らない彼がいた。そこには、多賀翔太の青春の息吹が深く深く刻み込まれていたのである。

「ほんとに就職しちまうのか。」

二人は、ピッチを見下ろす観客席にいた。

「うん。」

「もったいねえ。」「プロのオファーまで来てんのに。」

「ああ。分かってる。」「でも、もう決めたんだ。」

「親父さんに話したのか。」

「まだ。」「反対するに決まってるから。」

「だったら…。」

「いいんだ。」「サッカーは、きっぱり諦めた。」

大輔は天に向かって舌打ちをした。簡単に諦められるはずがない。才能も、実力も、彼だけがずば抜けていた。翔太が試合に出るたびに、全国からスカウトが押しかけていたのだ。

「お前なら、世界だって夢じゃないのに。」

翔太に限ったことではない。自らを犠牲にしているヤングケアラーは無数にいた。手厚い介護の必要な寝た切り老人に在宅療養者、重度障害者の介助まで、両親が共働きである場合など、比較的自由な時間の多い未成年者にしわ寄せが回ってくるのだ。家族の問題と幼い頃から向き合ってきた少年少女には、自然とその覚悟ができていた。そうしなければ立ちいかない現実を前に、休学や退学を余儀なくされたり、時には自らの夢さえも諦めて、懸命に家族を支えて守ろうとする。けな気と言うよりは、他には選択肢のない孤立無援の籠城戦だった。

「久々に麻衣(マイ)からメールあった。」

ゲームを眺めていた翔太は、そのままの状態で無表情を装った。

「お前の進路のこと訊かれたよ。」

「そう…。」「何て、何て答えた?」

「まだ決まってない、そう書いた。」

三人は幼なじみであった。隣町に家を建てて引っ越すまでは、ずっと一緒に遊んでいたのだ。

「ふん、俺の方が諦めきれてないらしい。」

「あいつは?」「麻衣は何て言ってた?」

大輔とは目を合わせなかった。それでも、聞き返さずにはいられなかったのだ。

「絶対に。」「サッカーを諦めて欲しくない。そう書いてあった。」

同じ高校へ進むことを、娘の気持ちに気付いた両親が許さなかった。彼自身も麻衣の父親に呼び出され、宏之の病気を理由に、交際するなどもってのほかだと諭されたのである。二人は、想いを告げ合うこともなく、互いの連絡先を削除するしかなかった。

「あいつ、今でも翔太のことを。」「お前だって…。」

「ありがとう。」「今度は、ほんとのこと書いてやってくれ。」「頼む。」

伊藤麻衣も同様に、誰とも交際してはいなかった。やにわに立ち上げり、後輩たちに檄を飛ばす親友を、大輔は複雑な思いで見上がていた。同じ年齢とは思えない。翔太の背負っている重荷が、彼には途方もないものに思えていた。


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