慟哭|ぬくもり1-13
かるがもは、今日も朝から大賑わいを見せていた。この一風変わったパソコン教室に通って来るのは、視覚に障害を負った者たちばかりではない。聴覚に障害を持つ者、身体に障害を持つ者、前向きにパソコンを習いたいと思う者なら、門前払いされることはなかった。
「ねえ由莉ちゃん、私って臭わない?」
葵が、隣に腰掛けた画伯を振り向かせたのだ。
「ほら、はあーっ!」
「なっ、何じゃ!?」「何なんじゃこの強烈な臭いは!?」
「昨日、キムチチャーハン作ったの。はあーっ!」
「よせ!たわけ者!息を吹きかけるな!」「キムチの素、どんだけ入れたんじゃ!?」
「えっ、大びん1本。」「はあーっ!」
「やめんか!わしを殺す気か!?」「息を吐くな!ほんとに死んだらどうするのじゃ!」
だが、午後からのヒロの登場で、葵の態度が一変した。
「あっ、ヒロさん、こんにちは!」
「こんにちは。」「何か…、臭いませんか。」
「でしょう!」「もう!由莉ちゃんたら最低なの、キムチチャーハン食べ過ぎたみたい。」
あまりの言葉に目玉の飛び出しそうな画伯を、彼女は気にもとめていなかった。教室中の皆も、葵であるならしかたないと、声を押し殺して笑っている。理由は明々白々だった。
「なるほど。」
この愉快な仲間たちとの付き合いも、いつしか二年が過ぎていた。宏之は、あの頃の自分を思い返さずにはいられなかったのである。由紀子を亡くして、視力を奪われ、生きる気力さえも失っていた、あの頃の自分だ。もしも翔太がいなければ、自ら妻の後を追っていた。白い闇に閉ざされた世界で、二度と取り戻すことのできない過去だけを見ていたのだ。
『邪魔するよ。』
正村(マサムラ)は、言葉を発しない彼の隣をすり抜けていた。
『これ、翔太君に。』『ここの卵はうまいんだ。』
『あの。』
『あんたにじゃない。』『料理上手な孝行息子に買ってきたんだ。』
正村圭一郎。がるがもの創設者だ。この白髪の紳士なくして、かるがもの過去も未来も語れない。穏やかでやさし気な風貌の奥に、障害者支援に対する熱い想いを秘めていた。
『何度足を運んで頂いても、今さらパソコンを覚えようと思っていません。』
『聞いてるさ、耳にタコができるくらいな。』
健常者が障害者となる。途端に、日常生活の全てが変わってしまう。行動の制限や諸々の不便さに加え、一家の大黒柱であれば収入面でも追い込まれてしまうことになる。だがそれ以前に、心が事実を受け入れないのだ。正村は、それをよく知っていた。たいていの社会人なら、障害者と言うレッテルを、奇異奇形の“どこかが損なわれている憐れな人々”として一元的に貼り付けている。言葉の上では心のバリアフリーに賛同できても、本心では関わりを持ちたくない、身近にはいて欲しくない存在として認識しているのだ。誰もが無意識に、上から目線の差別的なラインを引いている。宏之自身、人生の大半が健常者であったのだ。自分がどう見られているかはたやすく想像ができた。白杖に頼って、憐れな盲人として歩くこと自体、彼にとってはたえがたい屈辱に思えていたのだ。
『また来るよ。』『翔太君によろしくな。』
だが、正村は、その見栄とプライドこそが大事であることも知っていた。
『無駄足になります。』『答えは変わりません。絶対に。』
悔しさも、情けなさも、疎外感や羞恥心すらも、本当の自分を諦めきれない証なのだと考えていた。何もかもを奪われても、自分自身を失くしたわけではない。それさえ気づかせて上げられれば、彼の知る障害者たちは決して憐れな弱者などではなかった。それが証拠に宏之も、彼の訪問を拒もうとはしなかった。何度でも徒労を繰り返すつもりでいるのだ。一人でも多くの障害者の手助けをしたい。揺るぎのない正村の信念は、氷河のごとくに凍り付いていた宏之の心を、わずかずつではあるが、確実に溶かし始めていたのである。
『葵でーす!』
『由莉ちゃんどぇーす!』
『二人合わせて、パラリンガールズでーす!』『どぇーす!』
度肝を抜かれる明るさだった。見学だけならとシブシブ訪れたかるがもは、宏之の想像をはるかに超えた“障害者たちのオアシス”だったのだ。否、オアシスと言う表現が物足らないなら、まさにエルドラド(黄金郷)。障害者のためのアルカディア(理想郷)と呼んでも過言ではなかった。人は皆、たくさんの感動を味わうために生まれてくる。この時の自分を、彼は生涯忘れることはなかった。送られる車の中で、正村に言われた決めゼリフもだ。
『翔太君は、あんたの背中を見て育ってるんだ。』
物静かな語り口が、ズシンと心に響いていた。
『多賀さんは、どんな背中を彼に見せて上げたいのかな。』
思わず助手席で慟哭(ドウコク)する宏之の肩を、白髪の紳士がポンポンと2つ叩いていった。
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