着信|ぬくもり1-15
末期のがん患者をサポートする時ほど、ピアサポーターが神経をすり減らすことはない。どんなに延命治療を施しても、数か月の後には確実に失われている命なのだ。ほとんどの場合、主治医が本人に告げる余命は、彼らの見積もる長さに2倍以上をかけている。一年と言われれば、恐らくは半年も持たない。3か月なら、週単位での心の準備が必要だった。
「ホスピス、ですか。」
遥香は、平井琴美の弟を名乗る、岡崎保(タモツ)の相談を受けていた。
「姉さん、自分の体だから分かるって。静かに逝きたいって。」「だから、白石さんに訊いてきてくれって、そう頼まれたんです。白石さんのこと、すごく信頼してるみたいです。」
「ありがとうございます。分かりました。」
乳がんを再発させた琴美が82才。弟も相応の年齢に見えた。琴美の闘病は、足掛け2年に及ぶのだ。前回の面談までは本人が来ていた。腹部と下肢に水がたまって、もはや自力での歩行が困難となっているらしい。がん患者の最期は、その水を使い果たしてこの世を去るのだ。
「実際にどこかご覧になったことは?」
「いえ。どこにあるのかも…。」
ホスピスとは、余命わずかながん患者を中心に、終末期のケアや疼痛コントロールを専門に行う病棟、あるいは病床エリアのことだ。緩和ケア病棟とも同義である。原則として、治療は行われない。がん独特の痛み(がん性疼痛)を和らげ、本人が望む“自分らしい最期”を過ごさせて上げる看取りの場なのだ。大半の末期がん患者が、残された時を穏やかに演出できた。
「病院の体勢によっても、受けられる緩和ケアの内容が違ってきます。」
「そうですか。」「やっぱり見学して決めた方がいいんですね。」
「ええ、もちろん。」「中には、好ましくない事例を聞くホスピスもありますから。」
志の低い、俗人の医師たちは五万といる。特に、診療科から外され、ホスピス病棟に追いやられたような医師の場合は低俗だった。地獄の沙汰も金しだい。個々の患者への陰湿な差別を暗示して、金銭を要求する論外な行為もまかり通っていた。死亡した途端、葬儀の手配もままならない遺族に、今すぐ遺体を運び出すよう迫るのだ。次なる金づるのために、限られたベッドを有効活用しなければならない。悲しみに沈む者への配慮は、指先ほどもなかった。
「余命3か月以内でないと、入院させて貰えないホスピスもあります。」
精神科医や臨床心理士のほか、チャプレンと言って、がん患者のつらい気持ちに耳を傾けてくれる、キリスト教の聖職者の訪問を受けられるホスピスもあった。
「譫妄(センモウ)という言葉をご存知ですか?」
「いいえ。知りません。初めて聞きました。」
脳に転移をした場合に起こり得る症状のひとつだった。子供がえりと言えば分かりやすいかもしれない。テレビ台の上によじ登ったり、大声でわめきちらしたり、言動が幼児のごとく、稚拙で粗野なものとなるのだ。弄便と言って、自らの排泄物を団子状に丸めて、自身の枕元に並べていたりもする。ホスピスとは本来、そんな凄まじい終末期医療の現場であった。
「高額療養費の精度を利用すれば、自己負担額は低く抑えられます。」
「それは、はい。姉からちょっと聞きました。」
知らないことが多すぎる。当時の遥香も、乳房を切除することだけで頭が一杯となり、それ以外はまともに考えられなくなっていた。セカンドオピニオンのことも、緩和ケアのことも、さまざまに用意されているサポート体制のことも、何も知らないまま手術に臨んでしまったのだ。今にして思えば、知らなかった自分が悔やまれてならない。医師たちと対等とまではいかなくても、せめて、正しく理解して判断できるだけの知識は欲しかった。だからこそ、医療者の側ではないピアサポーターが必要なのだ。一人一人の患者には、一人一人の価値観がある。忙しい医師たちが、押しなべて均一化するしかないなら、誰かが代わりに丁寧なフォローをすべきであった。しがらみのないボランティアだからこその、崇高な役割なのだと自負している。遥香はピアサポーターであることに誇りを持っていた。
「ありがとうございました。」
「入院されたらお見舞いに行きますね。琴美さんにそうお伝え下さい。」
だが、夫との仲は冷え込む一方だった。否、それどころではないのだ。このところ不審な行動が目立つようになっていた。明らかに、別の女性の影が見え隠れしている。
「あっ、総支配人だ。何だろ、珍しい。」
着信は山岡幸三(ヤマオカ コウゾウ)からのものだった。遥香が最も敬愛するホテルの取締役だ。
「もしもし、はい、白石です。」
心なしか、彼の電話に出る遥香の声が弾んでいた。
「明日ですか。」「はい、午後からは空いてますけど…。」
嬉しい誘いであった。近隣にオープンしたホテルの視察に行こうと言うのだ。
「はい!ぜひ!」「ありがとうございます!」
山岡は、今の彼女を笑顔にできるただ一人の男性でもあった。
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