自己嫌悪|ぬくもり1-17
心が脳の機能の一部であるなら、加齢による脳の衰えは、そのまま“心の衰え”と言うことになる。確かに認知症などの症状が進むに連れ、心を失くしたかのように、ぼんやりとした虚ろな表情へと変わっていく。人とのコミュニケーションもワンフレーズのみとなり、何を考えているのか、どう感じているのか、外側からの問いかけでうかがい知ることはできない。本当に、脳の萎縮と共に心まで消え失せてしまうのだろうか。幾千万の喜怒哀楽を乗り越えてきた。幾千万の波打つ想いに揺り動かされてもきたのだ。恋の切なさを知り、愛の深さを知り、友情と裏切り、栄光と挫折を知った。未知なるものにおびえ、未知なるものに惹かれ、未知なるものの真実に触れて、強く激しく心をふるわせてきたのである。本当に、心は脳の機能の一部でしかないのだろうか。愛する者が見知らぬ他人になっていく。せめてもその体のどこかに、変わらぬ心が残っていて欲しいと、誰もが願わずにはいられなかった。
「…孝子?」
うっかり、うたた寝をしてしまったのだ。
「トイレか。」「孝子、トイレにいるのか。」
寒気が背筋に走った。
「嘘だろ。」
いない。どこにも姿がなかった。雄一は、内鍵の外された玄関へ向かった。
「痛っ!」「うううっ!」
靴を履きかけて、ドアの鍵が居間にあると気が付いたのだ。慌てて足がもつれた。崩れるようにして倒れ込み、下駄箱の角で額をぶつけ、自由に動かせる側の膝を土間に強打した。顔がゆがむほどの激痛だった。しばらくは倒れたままの状態で、身動きできなかったのである。
「痛たたたっ!」
何とか立ち上がった。だが、歩くこともままならない。居間までは壁伝いにたどり着き、鍵と携帯を掴んだ。智美の顔が浮かんでいた。パートの時間だと分かっていながら、電話せずにはいられなかったのだ。留守電に切り替わった。彼は、言葉を発することなく、電話を切って諦めるしかなかった。激痛は治まらない。それでも、再び玄関へと向かったのだ。
「ちっ!雨か!」
シトシトと降り出した雨が、雄一にとっては弱り目にたたり目だった。
「こんな時に限って…。痛たたっ!くそっ!」
下りの階段が崖のごとくに見えていた。立っているのもやっとなのだ。ひとつ間違えれば転落して大けがをしてしまう。思案の末に、彼は最上段に腰を下ろした。一段ずつ、足を前に投げ出して下りて行くしかない。昼間であったがために、幸い階段はまだ濡れてなかった。手にした傘を先に滑らせ、両腕の力で体を運んだ。離れた場所の踏切から、風に乗った遮断機の音が聞こえてきている。気持ちが焦った。あれほど自戒していたうたた寝をしてしまったのだ。もしものことがあれば、悔やんでも悔やみ切れない。認知症の患者をかかえる家族には、一瞬の油断も許されなかった。
「あなた、こんなとこで何してるの!?」
雄一は天を仰いだ。雨のお陰だった。濡れるのが大嫌いな孝子が、そそくさと戻って来てくれたのだ。ほっと胸をなで下すと同時に、やり場のない怒りも込み上げてきた。
「何をしてるかって…。」「お前に話しても、どうしようもないことさ。」
吐き捨てるように、初めて愚痴をこぼしていたのである。
「あなた…。」
それから思わず階段を平手で叩いた。自己嫌悪に陥ったのだ。孝子が悪いわけではない。言葉の意味も分からず立ち尽くす妻に、彼はしばらく視線を向けることができなかった。
神崎家の朝に異変が起きていた。いつものように布団から抜け出した光太郎は、台所に立つ娘のエプロン姿を初めて目にしたのである。自分の目を疑った。隣で眺める静江と、何やら楽しそうに会話しながら作っているのだ。青天の霹靂(ヘキレキ)とは正にこのことだった。
「あっ、パパ、お早う!」
爽やかではないか。朝一番から、清涼飲料水のような爽やかさだった。
「…おう、お早う。」「今日は、部活は休みか。」
彩音は弓道部だった。
「夏休みの前半は昨日までだったの。」「だからよねえ。」
「ママ、これでいいかな?」「ゆで加減オッケー?」
「お塩入れた?」
食卓には、すでに何種類かのおかずが並んでいた。
「朝から、えれえ豪華じゃねえか。」
「それダメ!」「パパのはこっち!」
明らかに失敗した玉子焼きだった。腰掛けながら摘まもうとして取り替えられたのだ。
「お弁当持ってくんだって。」「うふっ、頑張ったでしょ、彩音。」
「何だ、弁当のおかずか。」「どうりで。」
にこやかな笑みで振り向く妻の横で、娘が知らない鼻歌を口ずさんでいる。彼は、ぎこちない仕草で新聞を広げ、見慣れぬ光景をその上から覗き見た。
「今日は…、あれか。」「友達とピクニックか。」
「まあね~。」
「天気いいしな。」「で、その…。」「どこ行くんだ。」
「内緒~。」
静江はこらえ切れずに肩を揺らしていた。
「なっ、内緒かあ。」「内緒って言われっと、よけい気になっちまうんだなあ、これが。」
「あのさ!今、大事なとこ!」「真剣に盛り付けてるから話しかけないでくれる!」
「はい。」
とりあえずは順調らしい。母は、あれこれ訊きたい気持ちを我慢して、当面は娘の初恋を応援することにしていた。恋は人の心を豊かにしてくれる。青春時代の恋ならなおさらだ。想い悩み、傷付くことがあるかもしれない。それが彩音を大人にしてくれるのだ。でも、できるなら素敵な恋をして欲かった。いっぱいの笑顔につつまれていて欲しかった。
「いってらっしゃい、気を付けてね。」
「いってきま-す!」
彩音は、眩しい光の中で、軽やかに自転車のペダルをけった。
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