幼なじみ|ぬくもり1-20

 夫婦とは、配偶者としての権利を得て義務を負う、契約を交わした法的家族に過ぎない。そこに愛も情もなければ、契約書である婚姻届が、無理やり二人を法の名のもとに縛り付けていくことになる。永遠を誓ったはずの愛の証が、いざ離婚となれば、別れたい側には手かせ足かせとなって、別れたくない側には伝家の宝刀となるのだ。契約である以上は、あらかじめ期間を定めて、お互いに継続の意思があるかないかを確認して、期間満了を前に再契約すべきであるのかもしれない。人として未熟な、まだ若い頃に交わした夢うつつの契約が、生涯を束縛し続けることそのものに不条理が隠されていた。どちらかが再契約を拒めば、婚姻関係が滞りなく解消される。そんな緊張感こそ、配偶者を所有物と勘違いしている者たちには必要に違いない。それが当たり前であると思う物事ほど、真価が見えなくなってしまうのだった。

「お帰りなさい。」「ご飯は?」

「接待だって言ったろ。」

たちまち濃いアルコール臭が玄関内に立ち込めた。

「シャワー浴びてくる。」

遥香は、受け取った通勤カバンを開いた。カラの弁当箱を取り出したのだ。やはり彼のスマホが見当たらない。脱衣場へ持ち込んでいた。わざとやっているのだろうか。これではまるで、やましいことがあると言っているに等しかった。“接待”の数も増えていた。遠くなるばかりの二人の距離が、一層、彼女の迷いを深いものへ変えていた。

「話したいことがあるんだけど…。」

「疲れてるんだ。今度にしてくれ。」

彼は、バスタオルで髪を拭いながら、テレビのバラエティに笑みをもらしていた。

「大事な話なの。」「お願いだか…。」

ボリュームを上げられてしまった。彼女には振り向こうともしない。邪魔するなとでも言いたげな態度だった。怒りとも、口惜しさとも違う、ねじれた感情が込み上げてきた。まだ、遥香の中には愛があるのだ。嫉妬にかられて、罵声をあびせたくはなかった。

「お願い。ちゃんと話をさせて。」

強い口調だった。

「ふん。」

勝は、テレビからは目を離さずに、憮然としてボリュームを下げた。

「離婚の話か。」

「えっ!?」

「そんなにあいつがいいのか。」

何のことだか分からなかった。転勤の話をするつもりでいたのだ。

「やっぱり、思ってた通りだった。」

手渡されたスマホの画像を見て、彼女の瞳が凍りついた。まさかにそれは、ホテルの客室を出る山岡とのツーショット写真だったのだ。あの日の視察を、誰かに隠し撮りされていた。絶妙な角度で、見つめ合うような二人の親密さが、ものの見事にカメラに収められている。ショウルームに同行していたフロントクラークの姿も消されていた。明らかに意図的な、不倫現場に演出されたプロのフォーカスだった。

「誤解しないで!」「これは仕事よ!」「新しいホテルの視察に行っただけ!」

「都合いいよな。ホテルマンだから。」「そうやって言い逃れできる。」

「言い逃れって…。」「ひどい。」

「ひどいのはどっちだ。俺をコケにしたくせに。」「夜勤とかも、みんな嘘なんだろ。」

「そんな!」「バカなこと言わないで!」

「バカ?」「へっ、やっぱりバカだと思ってんだ。」「二人で笑ってるのか、俺のこと。」

根深い嫉妬に狂っていたのは勝のほうだった。ずっと総支配人との仲を疑っていたのだ。決定的な証拠として探偵社から示された修正写真には、彼に憎悪をいだかせるほどの、なまめかしい言葉の描写までもが、妄想をかき立てる材料として付け加えられていた。何を言っても耳を貸そうとはしない。再びテレビのボリュームを上げて、完全な無視を決め込んでしまったのである。遥香は途方に暮れて、呆然と立ち尽くすばかりであった。


 夏休みも残り少なくなっていた。彩音は、市町村合併でI市に統合された、川向うの隣町にある高校の弓道場へと来ていた。二年生の試合の応援にかり出されたのだ。一年生の部員の中で、彼女はひと際大きな声を張り上げていた。秋の気配とまではいかなくとも、うだるような猛暑は和らぎをみせている。朝夕には、時おり心地の良い風も吹き抜けていた。少女の目には、何もかもが輝いて見えていた。道端に咲く名も知らない花たちも、通りを行きかう自動車の長い車列も、目の前で戦う先輩たちの真剣な眼差しもだ。どんどん翔太を好きになる。どんどん二人の距離が縮まっていく。彼を想うだけで、胸のときめきが止まらない。彼のそばにいるだけで、一瞬一瞬が眩い閃光を放ち出すのだ。逢えない時間でさえも、翔太への想いが彼女の心を幸福で満たしてくれていた。


 隣町を隔てる一級河川の河川敷で、彼らは戯れにボールを追いかけていた。夕暮れ時に、大輔から呼び出されたのだ。彼は、久々にその感触を楽しんでいた。

「悪い。俺が頼んだ。怒んなよ。」

翔太の視線の先に、美しい娘へと成長した幼なじみが現れたのだ。

「私が頼んだの、大輔に。」

「…そっか。久しぶり。」

伊藤麻衣の目の前にも、凛々しい若者へと成長した幼なじみが立っていた。

「あっ、俺、ジュースでも買ってくるわ。」「コンビニ、けっこう遠かったなあ。」

夜の帳が、土手に腰を下ろした二人に下りてきた。

「聞いたのか、大輔に。」

「うん…。」

「落ち込んでなんかないから。」「心配いらない。もう割り切ったんだ。」

翔太は、仰向けに寝ころんで、瞬き始めた星空を見上げた。

「翔太からサッカー取ったら、何が残るの?」

すぐには言葉を返せなかった。麻衣は、そっと彼の手を握り締めてきた。

「サッカーしかないみたいに言うなよ。」「他にだっていろいろ…。」

「何?何があった?」「サッカー以外に、本気になれるものなんてあった?」

「よせよ。」「やめてくれ。」

想いが、サッカーへの熱い想いがこみ上げてきた。

「翔太は、翔太のままでいてほしい。」

「やめてくれ、麻衣。もういい。」

「多賀翔太のサッカーを、あなたの夢を諦めないで。」「お願い、私の翔太。」

少年の瞳から大粒の涙があふれ出した。彼女は、愛しいその胸に頬を寄せていったのだ。思わず抱き締めそうになっていた。彩音の顔が浮かばなければ、きっと迷わずそうしていたに違いない。彼は、麻衣を引き離そうとして、想いを断ち切るように身を起こした。


 気の置けない仲間たちと、隣町のショッピングセンターにいたのだ。ややお疲れ気味の表情で、家路を急ぐ弓道部の一年生が通り掛かったのもその時だった。

「やだ!」「あれって、翔太先輩じゃない!?」

「えっ、マジ、どこ!?」「キャー。ヒント!メチャメチャ偶然!」

彩音の心臓が早鐘を打った。もしかして、自分を迎えに来てくれたのだろうか。

「嘘―っ!?」「何、あの子!?」「ええっ、カノジョーッ!?」

信じ難い光景が、彩音の目にも飛び込んできた。見知らぬ女性が、身を起こした彼の胸に頬を寄せているのだ。声を殺して大騒ぎする仲間たちの中で、神崎彩音一人だけが、血の気を失って顔面蒼白となっていた。

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