ハミング|ぬくもり1-19
敵は3人に増えていた。彩音に京奈、それに果歩もだ。興味があれば誰でも連れてきて構わない。山崎のその言葉で、さっそく親友の2人をかるがもへ誘ったのである。まだ翔太は来ていない。女子高生たちのトリプルパワーで、さぞや気落ちしていると思いきや、さすがは音に聞こえた橘葵、すでに反撃のノロシを上げていた。
「すごーい!」「葵さんて、人気モデルだったんですねえ!」
「うんうん、分かるー。キイレイ系のモデルさんっぽい。」「あっ、今も超ステキです。」
京奈が大げさに驚いて、意を解した果歩がそれに続いた。
「まあ、若い頃のホントの話だけど。ふっ、今はやさぐれた名もなきオバンてとこかな。」
さっと肩の髪をかき上げて、うすら笑いのドヤ顔を見せていた。
「あの頃の私は罪作りな女だったなあ。」「うふっ、どの男の子も皆同じだったわ。」「何て言うの。恋の…虜?」「愛の奴隷?」「そうそう、美の崇拝者だって、誰かが言ってた。」
「へえ!」「葵さん、メチャメチャかっこいいじゃないですか!」
「神的モテ女子だったんですねえ!」「憧れちゃいますー!」
「まっ、当時の私なら翔くんもイチコロかな。」「今じゃ昔話。全部ホントのことだけど。」
京奈と果歩とが、顔を見合わせて肩を震わせている。教室中の皆が同様だった。
「でも、翔くんには絶対に内緒よ。」「私が元スーパーモデルだったなんて言っちゃダメ。」
「ええーっ、どうしてですかあ!?」「全部ホントのことなのにー!」
スーパーモデルに格上げされていた。京奈は、今にも泣き出しそうな笑顔で聞き返したのだ。
「だって、私に興味でも持ったら困るじゃない。」「もう罪作りな女は卒業したの。」
「なるほどーっ!」
「おとなーっ!」
二段構えで、とってもヤバそうな葵を持ち上げた。
「だから彼にだけは言わないでね。」「あ、でも、もしも、もしもよ。もしも何かのはずみで言っちゃっても、たぶん怒ったりしないわ。」「ホントのことだから、しょうがないもの。」
京奈と果歩は、たまらずに手で口を押えた。
「ぬははっ!ゆだったゆだった!」「外は五右衛門風呂じゃ!ケツまでゆだった!」
「お待たせしました!」
画伯と共に、彩音が飲み物の買い出しに行っていた。葵が本気で張り合うつもりだなどと知る由もない。ニヤニヤ笑う親友たちに迎えられ、彼女は不思議そうに首をかしげた。
「彩音、知ってた?」「葵さんて、モデルやってたんだよ。」
「知らない。そうなんですか。」「すごーい。」
京奈の言葉に、素直に驚いた。
「ぜんぜんすごくないのよ。」「ただ、スーパーモデルのカリスマって呼ばれてただけ。」
遂にカリスマとなった。
「だははははっ!」「また大昔の栄光を語っておったか!」
「あっ、翔太先輩!」
「こんにちは!」
憧れの君が、追いかけるようにして入ってきた。京奈と果歩は固唾を呑んだ。
「神崎ごめん、遅くなった。」「はい、これ。ありがとう。」
「しょ、翔くーん、こんにちは~。葵でーす。」
「すごくおいしかった。」「全部、神崎が作ったの?」
「あ、はい。一応…。」
「翔くーん。葵どぇーす。」「な~んちゃって。」
「あの日は快勝だった。」「大輔も、神崎の弁当のおかげじゃないかって言ってた。」
「まさか、そんな…。」「でも、勝ってくれて良かったです。」
「べ、弁当ってなあに~?」「快勝ってなんのこと~?」「ダイスケって誰なのかなあ~?」
まるで他か目に入らない。爽やかに見つめ合う二人に、京奈や果歩さえ声をかけられなかった。大輔と共に、後輩たちの交流戦を応援しに行ったのだ。彩音は、翔太のために弁当を作る約束をした。瞬く間に、二人は互いの予定を共有するようになっていたのである。
「ここはどこ~?」「私はだあれ~?」「あれ~、なんにも思い出せなーい。」
この夏の猛暑のせいだろうか。孝子の病状は、確実に悪化し始めていた。しだいに集中力が続かなくなり、ソファに腰掛けてテレビを眺めている時間が長くなってきた。何をするにも覇気がない。夫婦の会話は、まだ十分に成立しているのだ。だが、積極的に言葉を交わそうとはしなかった。孤独や寂しさを感じなくなってきているのかもしれない。それとも別の世界に迷い込んでいるのか。自分の存在感が、妻の中で薄らいでいくのを感じていた。
「今夜は五目ご飯だ。」「漬物は切ったし、味噌汁は朝の残りでいいか。」
妹の恵子からは、デイサービスを利用するよう勧められていた。
「風呂が沸いた。お前、先に入るか。」
雄一は、なかなか首を縦には振らなかったのだ。できる限り、自分で面倒をみてやりたい。認知症患者として扱われることで、さらに症状が進むのではないか。そうも考えていた。
「あなた先に入って。」「今、いいとこだから。」
「そうか。」「じゃ、そうさせてもらうか。」
興味のないはずの、夕方のニュース番組に見入っていた。彼は、玄関ドアの内側に取り付けたロックの施錠を確認して、バスタオルと替えの下着を手に浴室へ向かったのである。そう、雄一が首からぶら下げる鍵がなければ、孝子は自由に外へは出られない。彼女の身を守るために、やむを得ない手段であった。湯船に浸かる瞬間、不安やストレスから解放される。束の間の憩いに、老いた身をゆだねていった。
「お先に。出たよ。」
テレビの前にはいなかった。台所でガサガサと音がする。酸い臭いも漂っていた。
「どうしたんだ?」「何してる?」
孝子は、生ゴミの入ったゴミ箱をあさっていた。
「今日買ってきたアイスクリームがないのよ。」「あなた、どこか知らない?」
「やめなさい。」「そんなとこにあるわけないじゃないか。」
ゴミ箱から引き離そうとする夫の手を、彼女は迷惑そうに強い力で振り払った。
「やだあ。これ焼きそばだわ。もったいないわねえ、どうして食べないのかしら。」
「やめないか!」「それは一昨日の残飯だ。もう腐ってる!」「臭いで分かるだろ!孝子!」
その刹那、口に入れようとする手から、雄一は間一髪でもぎ取った。
「何するの!返しなさい!」「私のご飯を盗らないで!」「返せっ!ドロボウーッ!」
悪夢を見ているかのごとき取っ組み合いだった。錯乱した状態が、10分以上も続いたのだ。床には生ゴミが散乱し、もみ合ううちに手の甲を噛まれていた。感情の昂ぶりを、理性で制御できないのかもしれない。否、それより何より、自分か夫であると認識できていなかった。そのことが、雄一には大きなショックだったのである。早くもここが限界なのか。風呂場から聞こえる楽し気なハミングに、独りで傷口を手当てする彼の心が悲鳴を上げていた。
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