母娘|ぬくもり1-2
誰もが、老いることを避けては通れない。その先に待っている長い旅の終着駅もだ。駅にはいくつものホームがあって、のんびりとした各駅停車で到着する者もあれば、あっと言う間に人生を駆け抜けて来た超特急で到着する者もある。満足のできる旅路であったのか、不満と後悔ばかりが残る旅路であったのか。良き家族や仲間に恵まれていたのか。何かを成し得た、人に胸を張れるような生き様であったのか。ホームに降り立って、ふと長い線路を振り返ってみれば、車窓から眺めた過ぎ去りし風景たちが、どれも懐かしく、どれも愛おしく感じられている。手提げカバンの中には、たくさんの笑顔と涙が詰まっているのだ。そして改札口を出る時、皆、もう一度だけ振り返る。ややくたびれた切符を受け取る駅員が、『お忘れ物はありませんか?』と尋ねるからだ。その時、雄一はどんな言葉を返すのだろうか。妻と歩んだ半世紀は、もはや彼にしか思い返せなくなっているはずだった。
「あなた、私のメガネ知らない?」
「ん?」
夫は、陽の差す窓際の肘掛椅子で朝刊を広げていた。
「さっき、そこに…。」
「ああ、ほんと。」「ないと不便だわあ。」
彼が傍にいる限り、日常生活に支障はなかった。認知症と診断されたのも、去年の暮れのことだったのである。今はまだ、何かに気を取られた瞬間、直前の記憶が飛んでしまうだけなのだ。
「今日も暑くなりそうねえ。」
「うん。」「最高気温が36度の予想だ。」
「本当?」「聞いただけで溶けそう。」
家事全般も、長年の習慣となっているものは、何とか無難にこなしていた。洗剤を入れ忘れることはあっても、洗濯そのものを忘れることはないのだ。毎日の処方薬は、雄一が管理して飲ませていた。冷蔵庫にも、彼女の好物を買い置きしないように心掛けている。特に甘い物は要注意だった。少しでも空腹を感じれば、次々と口にしてしまうのだ。
「ねえ、あなた。」「私、メガメをどこに置いたかしら?」「見当たらなくて。」
「だから、そこに。」
メガネは、孝子の顔にかけられていた。天然ボケは、彼女の魅力の一つでもあった。
彩音の通う高校は、市内でも指折りの名門校であった。親友の水川京奈とは、幼稚園の頃からの仲良しで、お互いに一を聞けば十を知るほど何もかもを心得ていた。
「何それ、えっ、マジで?」「メチャメチャショック。」
「でしょ。ヤバ過ぎーって感じ。」「目、点になってたもん。」
二人は、中学時代からの友達で、同じ高校に通う鈴木果歩とファストフードの店でたむろっていた。目が点になったと話したのが、昨日、憧れの翔太と出くわした彩音なのである。
「ほんとに先輩のお父さんだったの?」
「うん。何度もオヤジって呼んでたし。」
おっとりとした口調の果歩に、早口の彩音が答えた。
「マジで見えないんだ、翔太先輩のお父さん。」「けっこう衝撃的かもー。」
京奈は、興奮気味に言葉を続けた。
「だってだよ。遺伝子とかあるワケじゃん。」「どうなっちゃうワケ、子供とか。」
「はあ?」「何で京奈が子供の心配するの?」「えっ、ウソ、もしかしてマジで翔太先輩のこと狙ってた!?」
「あれーっ、言ってなかったっけ。」「すーっと多賀翔太一本なんですけど。」
あんぐりと口を開ける彩音の隣で、今度は果歩が声をひそめた。
「学校じゃ、言わない方がいいかもねえ。」
「だよね。」「私もそう思った。」
「私もそう思う。」
彩音と京奈が同意した。思わず誰かに話してみたくなるような、レアな情報であるのは間違いがない。だが、憧れの先輩のイメージを、自分たちの手でダウンさせたくもなかった。そう、三人にとってはネガティブな情報なのだ。障害者を家族に持つことが、本当はどんなことなのか、想像すらも及ばなかった。ただ何となく、触れてはならないタブーのような、出来れば見て見ぬふりをしたい面倒な存在のような、漠然とした印象しか持ってはいなかったのである。さらなる偶然が彼女たちを巻き込んで行くなど、この時の三人には予感さえもなかった。
すやすやと眠る娘の寝顔を見ているだけで、込み上げる想いが大粒の涙となってあふれ出す。真紀の心は、哀しみの淵の中をさまよっていた。
異変に気付いたのは、入浴時だった。ブラの内側にピンクのシミを見付けたのだ。真一に打ち明けたのは、三日後に同じシミを見付けた時だった。念のために。そう話し合って一番近い病院を訪れたのだ。乳腺の専門医に紹介状を書くと言われた時、彼女はまだ、自分のことだと受け止め切れずにぎこちない笑みさえ浮かべていたのである。涙が滝のように流れ出たのは、悪性である可能性が非常に高いと、紹介された専門医に言われて戻った自宅のソファの上だった。
「お帰り。」「ごめん、ありがとう。」
ベビーベッドの前で、さっと涙を拭っていた。
「今日はカレー作るわ。」「真一さん、好きやろ。」
実母の山岡咲江が、彼女の様子を見に、三人で暮らすアパートを訪ねて来てくれたのだ。
「うん。いつも山盛りでお代わりしてる。」「喜ぶと思うわ。」
咲江は、入院中の美麗を預かっても良いと言ってくれていた。もちろん、彼女もそうして貰いたい。しかし、真一の両親からも同じ申し入れを受けているのだ。彼が、自分の親に子供を預けたいと望むのは自然だった。だが、真紀にも、実母でなければ伝えきれない事細かな想いがあるのだ。どうすべきなのか。判断できずに考えあぐねていた。
「入院の準備とかしてる?」
台所に立つ咲江が問い掛けた。
「ううん。まだ何も。」
「そう…。」
ぎりぎりまで準備するはずがない。昨日と変わらぬ今日でいたいはずなのだ。咲江は愚問であったと気が付いた。
「最近は早いらしいね。」「次の日から歩かされるって聞いたよ。」
「そうみたい。」「リハビリも頑張らなきゃ。」
「大丈夫。」「お前は辛抱強い子だから。」
母の、その励ましの言葉が引き金となった。抑えていた気持ちが、堰を切ってしまったのだ。どうして自分なのだろう。どうして乳房を奪われなければならないのだろう。夫婦の未来はどうなってしまうのか。乳房のない母親を、美麗はどう感じて行くのだろうか。女性であることも、母であることも否定されるような、そんな強迫観念にとらわれていた。
「恐い。」「すごく恐い。」
肩を震わせて泣く娘を、咲江は精一杯に抱き締めてやることしかできなかった。
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