-last-

男は少し身体を起こして、雪の方へ向き直ると、頬机でこちらへ視線を投げかける。

頭が空っぽになったような気分でぼんやりとしていた雪は、あぐらを抱え直して口籠る。


「なに?なにかって何…」


「たとえば、そのお前の額にある印が、どういうものか、知っているんだろう?」


男は、とんとんと自分の額を指して雪に尋ねた。雪は、男の触れている部分に、なにがあるのか考えた。


「あたまに、何かありますか?」


雪が質問を未消化のまま尋ね返すと、男は少し真面目な顔をして言った。


「カインの印。俺はこの言い方が好きじゃないんだが、カインは神に”逆らって”人を愛した人間だった。人類愛…じゃなく、特定の誰かを愛する愛。お前のそれは、いったい誰に宛てたものだ?」


「誰?」


「そう、だれだ?お前が愛するに足ると思う人間は、どこのだれだ?」


「だれ…」


満腹で眠気が襲ってきたため、自分の投げかけた質問と、男からの質問とが、ぐるぐると頭の中を旋回する。自分が大事な人間、いったいそれは誰なのだろう?カインの印、そんなものは知らない。けれどもこの男が尋ねているのは、雪が大事だと思う人間の名前らしい。


雪は、これまでの人生で出会った人々の顔や声、叩かれたり、殴られたりしたときの感触を思い出した。名前の知らなかった人も合わせて、細かに思い出せる。しかし、そのだれもが特別ではなかった。誰もかれも、他の誰かの代わりではあり得ないのに、自分にとっては、違いが無かったのだ。


「僕の大事な人間は…」


家族、という言葉が出かかった。しかし、父や兄弟はおろか、母さえ知らない。きっとどこかにいたのだし、現在もどこかに生きているのかもしれない。


いつだったか幼い頃、想像で自分の家族というものを大事に、自身の心の支えにしようとしたことも確かにあった。だが、あまりに何かが足りなくて、自分にとって「家族」というのは、ひとつも現実味のない、泡の様な表象にすぎないことを自覚した。

そしてそんな自分が、いったいどんな価値を軸に、毎日を生きてきたのか。できるかぎり前の記憶を呼び起こして自身に問いかけると、一つの明白な答えが浮かんだ。



「あぁ、それは”僕”です」


雪の、たった今思いついたような返答を前に、男は眼鏡の奥の表情を曇らせる。


「お前?」


男が確認すると、雪は頷く。


「はい、たぶん、自分が生きてるなって、そういうことだけが大事で。だから大事なのは僕自身。でも、じゃあ、なんで死のうとしたのかって、それは…殺されるかもしれないって思ったからで、それで…」


「誰に?」


男は、声を潜める様にして雪のほうへ身体を寄せる。雪はその分、距離をとる。


「だれって、最初は施設長。突然やさしくされて、怖くなって、そんなことありえないのにって。これまで普通に起きていたことが、起きなくなったら、僕は死ぬような気がして。ぶたれて、痣が出来て、切り傷ができて、でもどんな怪我でも、翌日にはすっかりきれいに治る。そんな僕が、何を怖いんだって、言われたこともあったな…だからみんな余計、気味悪がって…あ、これって、変ですよね」


男はじっと雪を見つめ、一回、瞬きをする。雪はそのときはじめて、男の睫毛を見たような気がした。


「神の中立には、特別ながある。それを人間は奇跡だというが、理由のしれない奇跡など、本来不気味なだけだろう。変かどうかと問われれば変だろうよ。だが、お前にはだったんじゃないか?」


「ん…そう、ですね。もしケガで死んじゃうことを考えたらきっと僕は…ぼくは…」


雪は、その先に何を言うのが正しいのかを考えた。


もし、突然ぶたれることがそのまま恐怖になって、傷になって残って…というのが当然なら、もしかして自分は、今の自分では無くなるのだろうか。


 自分の周りにいる人が、人間がみんな、雪のことを傷つけて、それが毎日重なっていく日常を、雪は想像しようとした。だが、深い一晩の眠りの後に残るのは記憶のみ、新しく負うもの以外に、傷と痛みのない生活を送ってきた雪にとって、何かが欠けていることも確かだった。


人は、雪に対して直接的な”関与”をするのだが、それが雪の皮膚の上に残らないのは、いったい本当は"何のせい"なのか。


雪は自分の頭を押さえ、胸の内に沸き起こる、不愉快な、ある一つの感情に向き合おうとしていた。


「水門さん、僕は、あなたが誰か知っている気がします。本で読んだことがあるんです。人間の信仰をお金とか、ほかの価値あるものと交換しましょうと言ってくる、そういう存在。でも僕には何もないから、交換できるようなものが無いし、例え悪魔が来ても、通り過ぎちゃうだろうなって。なのに水門さんは僕に、他の人と同じように接してくれた。天使は僕を特別だと言って、水門さんも、僕のことをなんか変な風に呼ぶけど、でも僕は…」


男はじっと雪の次の言葉を待った。雪の謂わんとしていることは、取り立てて特別なことではない。


要するに、自分には悪魔が魅力的と思うような「何か」を持ってはいないはずだ、という”謙遜”である。しかし、男からすれば、そんなものは人間の価値基準とは関係なく存在し、また自身に至っては相当に特殊な嗜好だと認識している。


「俺が最初お前に何を言ったか。そして、それに対して何が起きたか、俺は確認しただけだが」


男はのっそりと身体を起こし、首の裏側を掻いて一息つく。雪はびくっと身体を硬直させ、その瞬間、男としっかりと目が合った。


吸いかけた空気が凍り付き、まるで静止した時間の中に縫い止められたような”錯覚”。


乾く眼球と、それに反して、自分の意思に寄らない何らかの”機能”が動作しているかのような充足感。自分が今、本当は何を見ているのか。それさえ、忘れてしまいそうなほどの情報が目の中を行き交っている、そんな例えは適切だろうか。


「そうか、神の中立には」


雪が我に返ると、男の目は、まるでガラス玉のように何かを映写して輝いていた。


「神の中立には、が宿っている。本人の意思とは関係なしに」


男の言葉に、雪はいわく言い難い、吐き気を覚えた。胸の内に広がる、もやもやとした感情。説明できないこの感情は、外からやってきたのではない、自身の内側から、溢れているのだ。


「僕は人間なのに。どうしてあなたは、そんなことを言うんですか」


雪の心の中に初めて、『悲しい』という感情が、形を成した。何に対しての悲しみかと問われても、やはり分からない。ただ、雪の両目から涙が、とめどもなく溢れては、頬を伝って膝に落ちた。


「神なんて、消えてなくなればいい。人だって…」


雪はそう言いかけ、自分の中にあるはずの、人間に対する敵意や悪意、害意の欠片を探した。だが、それらは掴もうとすると儚く消え、残るのはぼんやりとした白い霧のようなイメージだけ。自分の身に起きてきたこと、その一切をもって、人間に対する執着や愛情を、自分は切り捨てられるかと問えば、それが出来ないことに気づく。



雪は言った。


「もう、嫌なんです。こうやって想い続けるのは。まるで人を憎めないことが僕にとっては呪いのようにさえ思う。何を差し出しても、いつも十分ではないから。僕は不完全な世界の一端にすぎず、永遠に辿りつかない人間の足元に、自分の自由を投げ出しても、飽き足らない」


静かに泣き続ける雪を見ながら、男は満ち足りたような笑みを浮かべて言った。


「もし、あんたが人間への悪意に身を堕とすことがあっても」


雪は聞くまいと耳を塞ぐ。男は気にせず雪の耳元に唇を寄せ、言葉を紡いだ。


「神が一人消えるだけ。憎しみは所詮、己を食らうことのできる人間だけのもの。お前は、お前自身を喰らえるか?」


強く両手を押し付けたところで、男の言葉は耳に届いた。雪は首を振る。はっきりと左右に、否定の意を示して首を振る。


「そうか、なら諦めろ」


男はそう言い、にっこりと穏やかに微笑むと、フウッとその場から消えた。


鍋焼きうどんの、甘い香りが残る部屋の一室。


明るく温かく、居心地のいい部屋の真ん中で、雪は一人、涙を拭いて項垂れた。もうすぐ彼の父親も帰って来る。出迎えの準備をしよう。雪は立ち上がると、痺れた足を慣らし、ドアを開けて一階へと降りて行った。




つづく。


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