カインとアベル
カインが、自身の育てた穀物を、そしてアベルが、自身の育てた山羊を神にささげたとき、神はアベルの山羊だけを受け取り、カインを罰した。それはなぜか。
以下はあくまでも私の見解になる。たんなる思い付きである。
アベルは、おそらく無垢であるがゆえに永遠の無知者である。そして兄は、弟とは違い、知識を得るものである。
神は、アベルの供物を受け取り、カインを責めたが、それは供物が神の要求するものに合致しなかったからである。では、神は何を求めたのか。それは、彼等兄弟が、それぞれ最も大事とするものである。
「彼等にとって最高に、価値があるもの」を、神は要求していたのである。
そこで弟は、自分の最も大事にしていた山羊を、神にささげた。だから、神は受け取った。しかし、兄が最も大事にしていたのは、弟のアベルであった。
兄はそのことに、実は気付いていた。しかし、彼は神を前にして、嘘を付いたのである。
そればかりか彼は、神が彼の供物を受け取らないことについて、それが間違ったことであるかのように言った。そのために、神は強くカインを罰したと考えられる。
弟のアベルは兄の愛に気付いていなかった。アベルが最も愛していたのは、神であった。だからこそ、自分の最も大事な山羊を神に捧げたのである。しかし兄が最も愛していたのは、神でなく、弟のアベルである。
カインは神に嫉妬していたともいえる。その気持ちを知らずに、神のためにカインを非難するアベルの言葉は、カインからすれば、聞くに堪えないものであったに違いない。
カインは絶望し、アベルを殺した。もっとも大事なアベルの命を、魂を神に捧げたのである。それが神の気に入る行為であり、またしたがって、アベルにとっても、"良いこと"であるはずだった。
カインは神の意思を知り、知識を得たものとして、神にしるしを与えられた。カインは、神に従属するもの、知識を得たものとなったのである。
一方アベルは、地獄からカインを呪っていると言われるが、それは、アベルが神の意思を真に理解していないことを意味する。アベルは神に従属したのではなく、ただその恩恵ごと愛したのである。
彼は、自分が兄とは違い、選ばれたものだと思っていた。しかし、自分は兄に殺され地獄へ行くことになった。
神は兄を生かし、その存在を認めたのである。アベルは無知であり、それゆえに的外れな怒りに囚われている。
それは、神に認められた兄に嫉妬し、また、神を心から愛した自分を殺した兄が、とうの神によって生かされた事実が理解できないためである。
アベルは、神の言うとおりに、自身の大事なものをささげた。何より、神は喜んで自分の供物を受け取ったではないか。アベルはそう訴える。しかし、彼は自分が兄によって神のための供物にされたという事実を理解できない。
彼は、兄に愛されていたことを知っていたのか、どうなのか。どちらにせよ、アベルは兄の愛情を許しはしなかったであろう。
まず愛すべきは神であり、それは兄にとっても同様である。もし、兄が自分を一番に愛さなければ、自分は死ぬことはなかった。アベルは、カインの愛さえも否定するのである。
アベルはわかっていないのである。誰をゆるし、誰が死ぬのかということについて、その法は神のさだめるものである。
神の許したことを、アベルが許せないということは、アベルが神の法に背いているのと同じことである。アベルはカインを許さねばらない。そのとき、神はアベルを地獄から救い出し、自分の傍に彼をおくだろう。
一方、神に服従するもの、知るものであるカインは、地上に永く生きて、神の法を広める役割を負っている。地獄から聞こえてくる弟の非難は、神が彼に与えた罰であるともいえる。
しかし、より正確には、カインは、自身の行いのもたらす、すべての災厄を、自分自身で引き受けねばならないということである。そこに神はもう介在しない。知識を得たもの、神の法を知るものは、神の助けを借りることはできないということである。
カインの悲劇は、あくまで悲劇である。なぜなら彼は、喜んで神に従属したのではなく、弟への愛によって、望まずも、神に従うことになったからである。
カインは最も愛した者を失い、それによってしるしを受けた。それは、彼が、神の使徒であることを示すが、同時に「すべてを失った者」であることを示す。
彼は弟を殺した時、自身の愛によって心を引き裂かれた。彼にとっては、それが人間として最後の瞬間であった。彼は、神の使徒として、神の存在を証する「記号」へと昇華した。彼は、人では無くなったのである。
神の法を知る者には、すべからくこの悲劇が起こることを、カインとアベルの話は伝えている。しかし、この悲劇を知るものは、あまり多くは無い。だからこそ、神に近づこうとする者の多くは、アベル的であることに躊躇しない。
はじめから、神の望むままに、神の希望に応えようとする。たしかに、それでもかまわない。ただ、アベル的な者として神に応えるとき、自分にとってのカインがいないことを確認する必要がある。
アベル的であるあなたにとってのカインとは、神ではなく、あなたを最も愛する人である。あなたがアベルであるのはいっこうにかまわないが、カインを退けることはまず不可能である。
したがって、カインとアベルの悲劇は、すべての人間の悲劇として普遍的に解釈され得る。
ここから引き出される結論は、神に対するとき、私たちはかならず、神を愛するものと愛さない者の二つに分かれるということである。
そして、そのどちらであっても神の法から自由になることはできず、一方は肉体の死をもって地獄の苦しみを、もう一方は精神の死をもって神への服従を強いられるという、おそろしい結末を語るのである。
この世に精神と肉体を併せ持って生き残るものとは、したがって、人から愛されることのない、見捨てられた罪人だけである。彼らには、神しかいない。彼らは珍しくも、暫くのあいだ、神に対して非常に「自由な」態度でいることを許される人々である。
したがって終末において、「生き残る」人々が、すべて罪びとであると言うのは論理的に間違っていないばかりか、しごく当然の結果となる。
この世の中に残るのは、神を愛する「アベル」でもなく、自分の「カイン」も持たない、最も罪深き人々だけである。
あとは、そのような罪深い人々に神の法と愛を説く使徒(=カイン)がいると言えるが、彼にはしるしがあり、罪びとはそのしるしを見て、そこに「愛の終わり」もしくは「魂の死」を見ることになる。
それゆえにカインのしるしは、恐怖のしるしであるといえる。カインはいわば、神への絶対的な愛を説く、断頭台の生首である。彼は愛を説くが、それは決して自由な選択を許す愛ではない。彼は使徒として自分に続く、第二、第三のアベルを見いだそうとするのである。
カインがそのしるしを持って説くのは、神の定めた終末、すなわち、ある重要な決断の期限である。その期限までに、自身がカインであるかアベルであるか、すべての罪人、すなわち生ける人々は、決めねばならない。
罪人とは、単純に言えば、一つの決定を下すにあたって、猶予を与えられている「モラトリアムな」人々に過ぎないのである。
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