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最近の雪は、だいぶおかしかった。
空の上で、燦然と光り輝く星々のように光る「文字」が、まるで絶対の真理のように思いこんでいたところがある。
だって、そんな奇妙なこと、大方の人間には起こりっこない。でも、それを経験したのは他ならず、この雪なのだ。
わけも分からず、「善人」に頬を叩かれ、ときには殴られるという宿命を持った人間…。その雪が、光る文字を見たとしても、たとえ、それが悪魔や天使やらといった奇抜なものたちからのメッセージだとしても、それがいったいなんだと言うのだろう。たいした意味はない。すくなくとも文字は、雪の宿命を変えてくれるほどの力を持たない。
気が付くと雪は自分の部屋に居て、ぬれた服を脱ぎ、ベッドにもぐっていた。何かが違うと思ったが、そう深く考えるまでもなく眠りに就いていた。
翌朝。
「雪くん、朝ごはんは何を食べたい?」
雪はどきりとして、施設長を見あげた。まだベッドの中だった。はっとして思い出した。寝過ごしてしまったのである。
飛び上がるように体を起こした雪は、施設長にやさしく押し戻された。雪は確認する。その眼差しの中に狂気を確認する。そして身を固くする。さぁ、いつでも来い。目は閉じない。それが彼の勇気であり、彼という人間の核心である。
「具合が悪いだろうから、学校には連絡しておいた。食べたいものはあるかな?」
雪はおそろしくなって、布団を被った。どうしたらいいか分からない。きっと、恐ろしいことが待ち受けている。雪は自分の身体を心配した。どこまで守れるだろうか。
「ごめんね、眠たいのなら、寝ていなさい。また様子を見に来るから」
施設長のやさしい声など、聴いたことが一、二度、あるかどうかだった。雪はいわずもがな、誰に対しても彼は厳しく、ときには度を越した暴力だって許されていた。施設長の言うことは絶対だ。それがなぜ、手のひらを返したような態度をとるのだろう。
雪にとって、何がうれしいだろうか。喜びたい気持ちが無いと言ったら、うそだ。
味わったことのない優しさや気づかいに、身体が先に反応してふるえている。小刻みに震えながら体を丸くした雪の眼には、涙がにじんだ。ただ、死ぬかもしれない。
もしかして普通のこどもたちは、こんな幸福を毎日浴びる様に味わっているのか。そう思うと、どうしてもやるせない。
死のうとしている自分のことを振り返る。そこには、思いがけないほどの痛みが眠っているように思えた。自覚しないように、忘れてしまおうとした悲しみもたくさんあるだろう。
こうなれば、恨みも何も、あったものじゃない。
雪のような不幸を知らない「幸福な子ども」が、世の中にはきっといる。彼らにとっては日常のなんでもないことが、自分にとっては死の前兆にしかならないことも辛い。「辛い」と言いたい。
雪は、やりきれなかった。
なんで死ぬのか。なんで殺されるのか。
いいやどうして、自分は殺されると思ってしまうのか。いや、これは本当に間違っていない。思い込みでも、気がふれたのでもなく、ただ、本当のことだ。昨日まで残酷だった施設長が微笑みかけ、雪の食べたいものを尋ねるばかりか、寝坊を許した。これはいったい何を意味する?
自分に降りかかる最大の危機を、雪は他にどうやって避けることができるというのか。これまでだって、逃げてきたし、避けてきた。それでも運命の歯車の回転には、間に合わなかった。
大きすぎる力が働いていて、雪にはどうしようもなかった。
『本当にどうしようもなかったのか?』雪はもう一度じぶんの胸に尋ねたが、死への恐怖がそれを妨げる。どうせ、死ぬのなら、もうあきらめるべきだと。
次に人と会ったときが、最期かもしれない。
雪はベッドから飛び起きて、服を着た。髪を押さえつけ、布団を整えた。隠してあった上履きを持って、窓から抜け出る。細身の雪だからできた。
人のいないところ、人のいないところを選んで走った。近づいてくる人の姿を認めれば、反対の道に戻る。そうして雪は逃げていた。なにが恥ずかしい?
まがり角で、うっかり人とぶつかりそうになった。あまりに素早く身をひるがえした雪の姿を、誰がいったい彼と認めただろう。
しかし、雪は逃げることに集中していて、大きな何かにまだ気づいていなかった。
さっきまで晴れていた空が、にわかに陰りはじめていた。どこからともなく灰色の雲がおしよせ、雨がばらつく。温かな風は、生臭く重たい空気にかわり、時折、冷気をふくんだ突風が街角を吹きぬけていく。
ようやく天候の変化に気付いた雪は、むきになって風に逆らう。風の吹いてくる方には、人が少なかった。
しかし変化はそれだけでは無かった。雪は必死になって人を避けていたが、その努力は残念ながら必要なかった。
雪が走ってくるのに気付いた人は皆、雪の顔をみて何かに気付くと、まるで逃げるように彼を避けた。彼の行く手を、彼のために空けたのである。
そうとは知らずに、雪は走り続けた。
そうして目的の無い逃走、それ自体が心地よく身体に染みわたり、雪の心を軽やかにしていく。それが彼の生き方であるように、自然なことであった。
***
走っているうちに、気分が高揚してきたのかもしれない。雪はもう、死を怖れていなかった。
自分を失うのが怖いとしたら、それは誰かが悲しむからだ。誰も悲しまない死のために、どうして雪まで嘆くことがあるだろう。また、怖れることがあるだろう。
雪は走るのを止めた。死への恐怖が消えたのだ。
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