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それはいつもの水曜日だった。
校庭の隅で、人目を避けて昼食をとっていた雪は、誰かの気配を感じて、息をとめた。雪は、突然の来訪者が一番危険だと知っていた。
大抵雪のことを叩く人間は、雪の知らない人間に類した。だから雪は身構えた。心臓の音が速くなり、雪はいますぐ叩かれてもいいように、コンビニのサンドイッチをそっと自分から離して置いた。
「すみません、お食事中に」
そういって現れたのは、やはり知らない相手だった。しかしここは高等学校の敷地内。学生や学校関係者、教職員以外の人間が来ることはまずない。だから雪は、今度は少し、そういったことで驚くことになった。しかし、例外も案外ありうるのだ。雪はその人物のことをつぶさに観察した。
その来訪者は若い男であり、いかにもといわんばかりに、優しそうな面立ちをしていた。恰好はと言うと、サラリーマンぽくはない、ごく薄い青の、やわらかそうな素材のスーツに、白いネクタイをしていて、とても気持ちの良い、さわやかな人であった。
さらには、そっと胸ポケットから自分の名刺まで差し出し、その見知らぬ男は雪に言った。
「僕は、こういうものです。どうかお見知りおきを」
その名刺を見ると、このように書いてあった。
『 天使部 営業 今日もがんばりましょう! 名前は大天使ミカエル 』
雪は、また極めつけの謎だなぁと思いつつ、説明を期待せず、名刺を眺めた。雪が何も言わないでいると、大天使ミカエルは雪の頭をちょいとつついて、笑顔でこう言った。
「あなたの事情はよく知っています。何しろ私は大天使ミカエル。さぁ、訊きたいことを訊いてもいいんですよ」
尊大な人だと雪は思ったが、どうやら自分を叩きに来たわけでは無い様なので、内心ほっとしていた。しかしそれならこの後、いったい何が起こるのかしれない。そんな恐怖も無いでは無かったが、雪は目の前にいるのが一体なんなのか分からなかったので、まずそれを訊いてみることにした。
「あなたはいったい何なんですか?」
この質問を、大天使は本当のところ、喜ばなかった。しかし天使はどこまでも天使である。爽やかな笑みをこわさずに、ミカエルは雪の頭に手を置き、言い聞かせるようにこう言った。
「いいですか。この頭にはすでに十分なものが詰まっているはずです。
ですから、差し上げたでしょう。一文字も間違えることがないように、私の名刺を。きちんと、あなたのわかる言葉で書いてある」
そう言うと、ミカエルは、雪に渡した名刺の文字を指でなぞった。するとその文字が浮かび上がるようにぼんやりと光った。
雪はこんなに不思議なことができるのだから、さすがにこれは天使かもしれないと思った。ミカエルはその雪の様子を見て喜んだようだった。
「『大天使ミカエル』。これが私の名前。ただし呼ぶときは、『天使さま』とか、『光の子』。まぁ、省略しても『天使』とだけは呼ばないように。呼ぶなら名前を」
「はい、天使さま」
ミカエルは愛想ていどに頷くと、今度は雪の肩に手を置き、説明をはじめた。雪はじっと集中して聞いた。ミカエルは、長くなるが、こんなことを言った。
「あなたは、非常に変わった運命を生きているが、それは神の意思なのだ。
世の中には、『善人』が多くいるが、彼らにも罪を犯させる必要がある。だから、あなたの頬を打つことで、彼らは罪を犯しているのである・・・(中略)。
彼らが頬を打つのには、まったく何の理由もない。そして、あなたは当然、何一つとして悪くは無いのである。
むしろあなたは、彼らに罪を犯させるために、自分の頬を差し出した『善人』である。だから、その苦痛を思って、天はあなたにあらゆる自由と幸福を保障し、天国に至る道も、あなたの道については特別な配慮がなされている・・・(またもや中略)。
これは他の人間にはあり得ないことだが、あなたは『例外中の例外』であり、事情が異なる。あなたは遥か昔、神の計画と意思に協力を申し出た尊い魂の持ち主であり、そのための犠牲は毎日、あなたの身と心によって生み出されている。
天は、最近のあなたの悩みが大きくなりすぎないよう、思慮分別が付く頃、あなたに説明を与える予定であった・・・(おわり)。」
雪は説明をよく理解した。こんなバカげた「説明」は、とつぜん何の前ぶれもなく頬を打たれるのに比べれば、ずっとましな内容だった。
それに雪は、自分の人生が、どうやらその天使によれば、きちんとした理由があるばかりか、「特別」であることも知った。
雪は、天使の名刺をズボンのポケットに大事にしまい、大天使ミカエルに丁重に礼を伝えた。そして、面倒な仕事が済んだことを喜び、手を振りつつ校庭を歩いて去っていく天使の背中を、雪はなんとういうこともなく、見送った。
その日も放課後、いきなり現代文の教師に頬を叩かれたが、雪はどうにか耐えることができた。「自分は特別だ」と、思ったからである。
雪は、天使からもらった名刺を、お守り代わりとして持ち歩いた。そうしていると、いくらか痛みも和らぐような気がしたからである。文字にふれると、光るのがうれしかったというのもある。雪は、そうして変わらぬ毎日を続けた。
雪は自分のことを特別だと思うようになってから、「我慢する」ということをおぼえた。こうしてわからない毎日過ごしているのは、いつか幸せで、わかりやすい日々を生きるためだと思ったのである。しかし、ミカエルは「その日」を言わなかった。
雪が年老いて死んだあとのことを言うには、先週なんて、早すぎるように思った。だから雪には、もう待たずともじきに、「その日」が来るのだと思う、もっともな理由があった。
しかし、それからあっという間に、一か月がたってしまった。
男子ばかりに三度なぐられて、とぼとぼと帰宅する雪は、自分がどれだけ気の毒な人間であるのか、世の中に思い知らせてやりたいと思った。
それにしても、天使がくれた名刺は、いまだに光っている。その仕組みも、なにか巧妙な細工のように思えるほど、完璧に光る。雪は天使が〈連絡先〉を書いてくれなかったことを、すこし恨んだ。そういえば、雪には心の内をうちあけることのできる友人がいないのだ。天使は、自分が話をしたいといえば、相手になってくれるだろうか。
「我慢する」ことをおぼえたせいか、今度は、なんとも収まりのつかない〈怒り〉が、雪の中で生まれていた。
天使が来なければ、雪は自分が特別だと思うこともなかったし、叩かれ続ける日がいつか終わりの来るものだとも、思わなくて済んだ。
自分の人生で、何かを「待つ」というのは、おそらく初めての経験だったのだ。雪が待っているのは、みんなが自分を叩かなくなり、彼のことを、「優しくていい人」だと思ってくれる日々だった。しかし、それはいったいどこからやってくるのか。いったい誰が、そんな日々を約束してくれるのか。
それは1か月前にやってきた、大天使の役割とは思えなかった。残念ながら、天使はそれほど有能には見えなかった。あんなにわけのわからないことを雪に言っても、平気なのだから。
雪は怒りの矛先を、まずどこに向けるべきか考えた。道の真ん中で、ひとりで叫んだら、きっと誰かが自分をなぐりにやってくる。そんな「当たり前」のことは、嫌だった。だから、また考える必要があった。
***
その週末、雪は昼間の内に河原を見学に行った。そうしてその夜、彼は独りで河原に行くと、怪しく光る水面を見ながら、勇気を出して、水の中に歩を進めた。
流れに身体が持って行かれる寸前のところで止まると、腰くらいまで水にどっぷり浸かっていた。雪は、右手に握りしめていた天使の名刺を満天の星空にふりかざし、力の限りに叫んだ。
「おれはいつまで苦しいんだ!」
さすがに川の中だ。誰もやってこない。雪はまた叫んだ。
「どうして! 誰も! 答えてくれないんだ!」
そうして雪は名刺を破り、水の中にばらまいた。紙片は怪しく光りながら、水のきらめきに紛れて、わからなくなった。こうして雪はまた、自分が特別なのだということを思い出す必要が無くなった。雪は大声で泣きながら、川からあがり、自分の身体を乾かした。袖をしぼると、なまぬるい水が手の中であふれた。
いまごろ施設では雪が脱走したことを知って、大騒ぎだろう。このあたりまで誰かが探しにやってくるのではないかと思うと、急に怖くなった。しかし、実際に誰かがやってきて、次にやることはわかっているのだ。雪を叩く。そう、叩くだけだ。
こみあげてくるのは、本当の怒りなのか、それとも純粋な空しさなのか。雪は胸に手をあて、静かに、とうとうと流れる水の流れに心を鎮めようとした。
『すべてがわざとらしい』。自分の前では、世界がまるで雪だけを除け者にして、何かをたくらんでいるようだ。そして、あの天使の言う運命というやつも、きっとそうなのだ。
雪は、神の名を持ち出して自分を侮辱した、あの男の顔を思い出した。
『あいつ、ぜったい天使なんかじゃねぇよ』
雪は幼いころ、何かのきっかけで、日曜の教会に通っていたことがあった。もちろん、見ず知らずの人の間にはいるのは怖かった。でも、あの場所では誰一人として、自分を叩かなかったではないか。雪は、自分には避難場所が必要だと思った。
『自分を叩かない人間がいる場所・・・』
雪は鼻をすすりあげると、あの天使の言ったことを思い出した。
『世の中には、『善人』が多くいるが、彼らにも罪を犯させる必要がある。だから、あなたの頬を打つことで、彼らは罪を犯しているのである・・・』
ぐにゃりと頭がゆさぶられるような気分だった。まさか、自分を叩いていたのが善人だなんて、他の人間ならともかく、自分は到底納得できない。そして、あの天使の言うことが正しければ、自分を叩かない人間とは「悪人」であることになる。
神に対して、すでに罪を働いた人間だけが、雪を叩くという「罪」から免れる。そんなこと、信じられないばかりか、気分が悪くなるばかりだ。
乾きかけで、足にはりつくズボンに付いたごみをみていた。すると、きらきらと光る文字が浮かび上がる。なんだろうと凝視すると、雪の膝の上で微細な文字がおどった。
『・・・こんにちは。私は真実を伝える者』
指でその文字をこすろうとすると、その文字はまるで逃げるように雪の太ももに散らばった。文字数は増えて、まるで雪に訴えかけるように、強い光を投げかけた。
『・・・信じられなくてもいいのです。それがあなたの宿命の形』
雪はそこまで読むと、こらえきれずに立ち上がった。ズボンに付いた文字たちを払うようにすると、その文字はふっと、跡形もなく消えた。
何かの錯覚だったのか、急に疲れがこみ上げてきた雪は、夜道をまっすぐに施設へと帰宅した。
『忘れよう、忘れよう・・・』
雪は必死に忘れたいと思った。さっき川の中に入ったとき、流れに身を任せてしまえば、死ねたと思う。あの感覚が、今頃になって雪の胸をしめつけた。
『忘れないと、忘れないといけないんだ・・・』
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