前段-1-
雪はまた、女子に頬を引っ叩かれるという状況に陥った。
雪は、自分の何が悪いのか全く分からなかったし、その相手の女子だって、いったいどういう理由があってそんなことをしたのか、きっとよく解っていなかった。
いつものことだからと、自分が傷ついたとは思わなかった。事実と感想が食い違うのは当たり前のことだ。だが彼女の方は、自分が傷ついたと言った。そんなこと、信じられない。
今日、雪は、或る一人の女子に話しかけられた。その子の友達なんて雪は知らない。しかし、その雪に話しかけた女子の友人は、どうやら雪のことが好きだった。
雪に話しかけた女子とその友人が、雪のせいで不仲になったようだと、両者の友人と名乗る女子が、雪の前に現れた。
雪は、彼女の説明を受けている最中だった。雪がようやく状況を飲み込んだところで、隣のクラスの、また別の女子がやってきた。雪はその女子を見たとたん、前にも自分を叩いた女子だと気付いた。名前はもちろん知らない。しかし、時すでに遅し。
彼女は雪を見るなり、右手を振り上げ、容赦なく、雪の頬を打った。一度でも十分だったが、彼女は体勢を崩した雪に馬乗りになって、もう一度、今度は拳骨で雪の顎を打った。
痛みで涙のあふれた視界の中に、その女子の無表情な顔が浮かんだ。雪が倒れているのを誰かが助け起こしたが、それは何らかの罪を負った「被告」に対してなされるように、という程度のものだった。
「こいつが、悪いの」
雪の頬を殴った女子は、そう言うなり、泣き始めた。
すすり泣く彼女は、そうしてそれ以上何も言わないで済んだ。雪は、口の中で出血しているのを感じながら、いったい、何がどういう理由でそうなっているのか、知りたいと思った。しかし、誰も雪に尋ねようとはせず、また説明もしない。
ただ、彼らはいかに雪が悪くて、彼女が苦しんだかを聞きたがった。彼女は何も言わない。ますます激しく泣き、最後には教室を飛び出していった。おそらく保健室にでも行ったかと思いきや、学校に居られず、自宅に帰ったそうだった。
雪のクラスメイトは、雪を非難のまなざしで見つめた。雪と同じ男子でさえも、雪のことを良く思う者はいなかった。雪には友人もおらず、家族もいなかった。
彼は、クラスメイトと全く同じような目で彼を見る人々と、「施設」で暮らしていた。貯金もほとんどできなかったが、学費のためにアルバイトはしていた。しかし、あまり人と顔を合わせない仕事だ。それでも雪は、アルバイト先でよく頬を叩かれた。そして決まってその理由は教えてもらえなかった。
雪はなんとか16年間生きてきて、ようやく最近、自分がひどくおかしな人生を生きているのではないかと思うようになった。
雪は、自分が口下手でもないし、また人を苦しめたり、怖がらせたりするようなことをする人間でもないことを知っていた。耳も悪いわけではない。だから、彼等―すなわち、雪の頬を叩く人間たちの言うことを、毎回、聞き漏らしているわけでもないことは確かだった。
ひとりになると、雪はよく考えた。
『どうして、こんなことになっているのか』
理由が無いこともある。聞いたって、自分には理解できないような他人の事情なんて、五万とある。しかし雪の場合、どうだろうか。
確かに、考える必要など無いのかもしれない。
頬を引っ叩かれたからと言って、死ぬようなこともない。一日せいぜい三回までが関の山で、深刻な傷を負ったことは、まず無い。ただ、雪にはたくさん時間があった。
なにせ、終局叩かれることになる様々なイベントの間には、「まったくの休息」と言うほか無いような、「たったひとりの時間」が訪れるのが常だったからだ。
雪はよくよく一人で考えては、たまに気が向くと、過去に彼を叩き、また明日にも彼を叩くかもしれない相手の様子を、見に行くことがあった。
そうすると決まって、その相手は、決して恐ろしい人間ではないばかりか、概してほがらかで、穏やかな人間のように見えた。いったい誰が、彼女もしくは彼等の「張り手」や「拳骨」を想像するだろう。そういうわけだから、雪は悩みをいっそう深くして帰宅することになった。
では雪が不幸な人間であるかと言うと、それはよく解らなかった。誰もかれもが雪のことを批判し、また叩かれても仕方のない人間であると言ったが、雪の「不幸」について言及する人間はいなかった。
なんにせよ彼らの理屈によれば、仮に雪が「不幸」であるとしても、それは雪の「自業自得」であり、「自分で招いた不幸」であった。だから、雪という人間は、「幸福」という評価のまったく外で、生きるより他なかった。雪は、時折自分のことを、こういう風にたとえて呼んだ。
『・・・。ボール』
ボールならば、ただそこに在るだけで、蹴られたり、叩かれたりする。ボールはボールだから叩かれるのである。ほかに何の理由もない。
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