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そいつは、音も無く雪の前に降り立った。
雪が玄関の戸を開けると立っていたのは、スマートな印象に髪を後ろへなでつけ、埃一つ見えない黒いコートで固めた、眼鏡の男だった。
どきりとしたのも、つかの間、人間らしき気配も、何の前置きもない現れ方から、雪は毅然として言ってのけた。
「僕に用があるのか、それとも父に?」
父親とは言えば、その実、自家用車で30分前には家を出ている。
真っ黒な来訪者は、冷ややかに雪を見おろし、鼻で笑う様に言った。
「これがあの、麗しき神の中立? みっともないガキだな」
いわれのない侮蔑の言葉に、雪は一瞬目を見開いたが、傷ついたのではなく、聞いたことのない言葉がそこにあったからだった。
「神の…中立?」
雪の静かな問いに、男はその視線を外さずに、応えた。
「すでに知っているかと思ったが、啓示は無かったか?天使は?」
雪は『天使』という言葉に頷いた。男はそのとき、僅かに眉をあげ、ことさらの不快感を顕わにした。
「おじ…お兄さんは?」
何者か、と尋ねかけて、緊張に喉が強張った。男が放っているのは、施設長の上をいく威圧感だった。
「初対面の相手に無粋な質問だな。貴様こそ何様だと言いたいが、まぁ、招いたのは間違いなく私の方だからよしとしよう。中へ」
たじろぐ雪を横目に、男はするりと雪の脇を抜けて、家の中へ入る。黒光りする革靴を履いたまま、脱ぎもしないで絨毯の板間にあがったのを、ぼんやりと見て、はたと気づく。男が歩いた足跡一つ、付かないのだ。
「なんだガキ、ぼさっとしてないで茶でも出したらどうだ。 私はここの大家だ。知らないのか?」
知っているわけがないと内心で悪態をつきながら、雪は男の前に湯気の立つ湯呑を置いた。
男は大袈裟にぐるりとダイニングから居間を見渡し、また、ふんと鼻で笑う。対面に腰をおろした雪は、珍しく自分の感情が素直に前に出てくるの感じた。売られた喧嘩を買うかのように、苛立ちを隠さず言った。
「何ですか、何の用なんですか」
至極偉そうな大家は、顔を紅潮させている雪に、見下したような視線を送り、胸から小さなカードケースを取り出すと、それをそのまま雪の前にずいっと、押し出した。
「なんですか?」
雪はそう言いつつ、もう手をのばしていた。何か、自分の行動の一つ一つのリズムが、おかしくなっている。考えることより、手や足や口が前に出ていく感じだ。これはある意味心地よくて、しかし、危険だと思った。
手に取ったカードケースは、温かい感じのする革製の、いわば普通のケースで、中には、男の名刺らしきものが、たった1枚入っているだけだった。
「代行業 水門 慙(みと はじる)」
何の変哲もない、真っ白な固い紙に、一行だけ、そう記されてあった。「代行業」という表現が引っ掛かるが、ふしぎと胡散臭さが無いのは、名前がピンとこないほど珍しいからか。雪は言った。
「水門さんは、何をしている人ですか。父に融資をしたのは貴方ですよね。何の目的で?」
雪の胸は、早鐘を打っていた。何か、違うのだ。自分の選んだ言葉では無い。それでもこの口を使って紡いだのは、自分の声だった。
水門は、少しだけ大きく眼を見開いて、威嚇するようなそぶりを見せた。テーブルを指先で軽くたたくと、考え深そうに口元に手をやり、そのあと、何とも言えない笑みを浮かべて言ったのだ。
「お前、もしかして本物か」
雪は男の表情の変化に驚き、その眼の奥から放たれる存在の重さが変わるさまを、じっと息を殺して見ていた。
『何…?』
男はもう、笑顔を隠していなかった。残忍な、とも言うべき悪魔的笑みを浮かべて雪を見ていた。もしかしてこの男は、自分を食いに来たのかと雪が思うくらいには、異常だった。
「私は、“神の中立”には、いつもそれなりの条件をもちかける。」
雪がもう一度男の顔をじっと見つめると、その細められた瞳の色が、きらりと雪の視線を反射したかのように見えた。
「どんな…?」
そう言いつつ、雪は男の顔にどこか、既視感を憶えていた。どこで出会った?
男はその黒く揺れる瞳を向けて、何かを伝えているのだった。まるで、何度も、幾世期にも渡って、二人の時間が流れていたかのような錯覚が、いや感覚が流れ込んでくるような。雪は強く瞬きをして目を背ける。いけない、何かがまずい。
「信仰を、捨てることを条件に」
耳に全神経が集中する。そう、この言葉が持つ色と味を、自分は知っている。
「あらゆる富と幸福を約束しよう」
額がずしりと重い、頭がぐらぐらする、気持ちが悪い。雪は両手を耳に押しあて、ようやく言った。
「僕は、どんな取引にも応じる気はありません。どうかお帰りを」
呼吸と脈動が、ばらばらと走り回っている。眩暈がする。感覚が二重に、三重にだぶって、自分の身体がまるで一つでは無いような感じだ。雪はそのまま、椅子から転がり落ちた。
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