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椅子から床へ転がった雪を、黒い男は苦も無く抱え上げ、知ったように彼の部屋へ向かう。廊下を進み、階段を上がり、ひとりでに開く扉の開閉を待って、ベッドの上に静かに、丁重に彼の身体を横たえた。


そうしてそのままじっと、彼の苦悶の表情に固まった額と、若く薄い肉付きの頬とを固視する。男の中で何かが天秤にかけられ、そしてその答えを吟味する様に、上下の唇がわずかに離れ、またぴたりと噛み合った。



『何故、神が自身の中立を傍に置かないのか、これで分かるというものだ』


男にとって、神の中立とは、長い間畏敬の対象であり、渇望の対象であった。


まみえた雪という少年は、たしかに外見も才能も、特筆すべきところは何もなく、身体的に丈夫なようでも無い。

自分が彼の生活を保障しなければ、そのうち労苦で死んでも可笑しくない位には。しかしそれでも、彼が“特別”であることは、近くに寄れば分かる。触れればさらに実感する。


神を愛する人間は様々に、無数に存在する。しかし、神に愛される人間は、神を愛さずに愛されている人間は、まずめったに存在しない。


始めは、客観的な理由や条件があるのだと考えた。血統や性質、価値観、もしかすれば魂に施された刻印なのかと。だからこそ、何度もそのような『神の中立』を誘惑し、陥れ、辱め、その魂を手に入れたのだ。


だが、手に入れた途端、それは途端に輝きを失い、たしかにあった神の恩寵も消えてしまう。魂の失格というべきか、もとよりまがい物であったのか、区別のつかない結果に苛立ちを隠せなかった。


だがあるとき、彼は気付いた。これまで自分が近づいた人間の誰もが、どこかしら幸福であり、神に守られた存在であることを。その救いに自覚の有無こそあれど、彼らは神に対して対等では無かった。それでは、世に言う『神の中立』とは何なのだ。男は目を凝らして、人の暮らす世界をくまなく見続けた。そしてようやく彼は、あまりに脆弱な、しかし、神の光によって生かされているのではなく、自身の光を放つ人間の一人を発見した。16世紀のことだった。


その発見の意味はあまりに露骨に、彼の身に変化をもたらした。彼はある朝、自分がもう飛べないことを知った。ましてや深い地の底へ戻ることも叶わず、同類とも共通の言葉を失い、話しをすることさえできなくなっていた。驚愕だった。


自分の身に帯びていた能力や世界の広がりさえも、神の恩寵の一種であったと言うこと、そして彼の人間の発見により、それらの目立ったところが剥奪され、あたかも人間でしかないような生が残されているに過ぎない、ということが、思っても見ないことであった。

彼は天に向かってこう、応えた。


「私はあなたに愛されていると自覚した。こんな身でもあなたの恩寵なしには存在できないことも」


そしてその日のうちには、無くしたはずの能力が戻っていた。彼は、はじめて神に感謝したのだった。


 それは確かに不思議な感情だった。の傍に居ると、自分が自分では無いような感じがした。それは見失う、という意味ではなく、普段見えないものが見えている、という感覚に近い。善と悪と、罪と幸福、そうした価値概念が遠くかすんで見えるほどに、存在の意味は重いのだと知った。


彼女には自分が見えていた。迷惑至極と言った風に、何度も誘惑のセリフを退け、幸運の兆しを蹴散らしては、自分だけが進むことのできる荒野へ遠ざかる。


そのような彼女を見ている自分というものが、おそらく、はじめて無力で哀しいものに思えたのは、いったいどんな理由のためであったのか。


離れていても、いやましに、彼女との心理的距離は遠くなっていっても、自分は会いに行くことを止められなかった。


彼女が短い生涯を終えたとき、自分の中にはっきりとした存在の芯が出来ていることを感じた。名前を付けるには烏滸がましいような崇高な何かを、彼は見出していた。


だからこうしてじっと少年を見ているのも、その何かを見ているからなのだ。


彼の中にある何かが、自分の中にある何かを呼んでいる。呼ばれているように思うから、会いに来てしまう。何を求められているわけでも無いことは知っている。むしろ迷惑がられていることは百も承知だ。しかし、名付けてはいけない大いなる理由のために、自分はあらゆる自由を引き換えにしても、この神の中立の傍を捨てられないだろうと考えている。何度も確認しては、ため息をつく。


男は、雪の形の悪い爪のふちを眺めた。おそらく噛んだり、指先で何かをこそげとるなどして傷めたのだ。このまま雪が目覚めないとしても、こうした細かな痕跡を自分が確認した以上、それは一つの大きな意味を持つ。神が、この少年に為している仕打ちの一つが、自分の登場であり、誘惑であり、ひいては彼の昏倒である以外に、一体なんだというのか。


自ら死を望んだ中立は、『罪深い』。しかしそれは、生を倦んでいるという理由からであったのか、もっと他の理由なのかは、直接訊いてみなければ、分かるまい。



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