8
◆
「リエトさん、もうすぐ登山道に出ますよ。体調は大丈夫ですか?」
「問題ない」
道なき道(としか思えない)山中を、アイナの案内で難なく突破したリエトは舌を巻いていた。
彼女の足取りには迷いがない。木や植物の生え方、斜面の傾きなどを観察しながら、総合的にどこを通るのが正解かを見極めているようだった。
「水分補給も大事ですから、ちゃんと飲んでくださいね!」
「わかった」
そのまま持たされていたアイナの水筒は大分軽くなっていた。道々何度も念を押され一口二口とお茶を口に含む。行き倒れて醜態をさらしたリエトはおとなしく指示に従う以外にない。
下草や灌木に覆われた獣道が徐々に踏み固められ、リエトにもかろうじて通り道とわかる程度になったころ。緩い斜面を上がったところで急に目の前が開けた。
「着きましたね」
アイナの言葉に、リエトはほうっと安堵の息をつく。さすがに右も左もわからない山中を、ゴールもわからず歩くのは精神的にきつかった。
リエトが斜面を三歩で駆け上がり、上からアイナにすっと手を差し出した。突然のことに驚くアイナに、リエトがなおも促すように手を伸ばす。
「あ、ありがとうございます」
「ああ」
「きゃ!」
大きな手にアイナがそっと手を乗せると、しっかりと握り込まれて引き上げられた。そのまま、あろうことかエスコートするように腰に手を回され、流れるようにリエトの腕の中に着地する。
顔が近い。厚い胸が目の前にある。埃っぽさと、かすかに甘い香りがして、くらりと頭の芯が揺れた。見る間にアイナの顔に血が上るのがわかる。
「顔が赤いぞ。大丈夫か?」
硬直したアイナの顔をリエトが覗き込んで、ようやく頭が覚醒した。
弾かれるように、アイナはリエトの腕から離脱する。
「あああ、ありがとうございました!」
「いや、気にするな」
アイナが礼を言うと、リエトは思わず見とれてしまうような笑顔を浮かべた。どきどきと跳ねる心臓を静めながら、アイナはすうはあと深呼吸を繰り返す。
まったくこの男は、心臓に悪いことばかりだ。しかも、それを無意識にやっているようで、意図が読めない。読めないから身構えることも出来なくて、不意打ちのようにドキドキさせられてしまう。
――でも。
(嫌、というわけではないのよねえ……)
自然とそうしてしまうのか、彼の行動に嫌味や建前は感じられない。整いすぎた顔面の威力も多分に含まれているとは思うが、多少偉そうなところも感じられる言い方に嫌な気がしないのは、彼の人間性なんだろうか。
やっと落ち着きを取り戻した心臓を押さえて、アイナは顔を上げて周囲を見回す。足元は石畳が敷かれ、整備された登山道だ。狙いどおり、目的の道に合流したのだ。
「登山道、だな」
「はい。ここから町まであと二キロほどです。三十分も歩けば到着しますよ」
アイナの言葉に、リエトはほっとしたような笑みを見せる。
「ありがとう、助かった。しかし、大したものだな、この山中の道を覚えているのか」
「何度か通りましたし、私一度通った道は忘れないので」
アイナの言葉に、リエトは目を丸くする。
「俺には道なんか見えなかった。すごいな」
そうでしょうねえ、という言葉は、賢明にも呑み込んだ。
アイナはしゃがみ込み、感心するリエトの足元にちょこんと座る獣の小さな頭を撫でる。
「この子もすごいですよ! 私が行きたい方向がちゃんとわかっているみたい。地形を見てるんだと思うけど、においもちゃんとかぎ分けてるんですね」
そう言うと、リエトは笑みをかき消して、不機嫌そうに顔をしかめてしまう。
「どこへなりと消えてくれればいいものを……」
「いい子なのに。そんなふうに言うのはかわいそうですよ」
「……俺にとってはただの災厄だ」
それきり黙り込んでしまったリエトに困って、アイナは獣の顎に指を伸ばす。指先でこちょこちょと顎の下を撫でてやると、獣は気持ちよさげに喉を鳴らした。
アイナの両親は冒険者のかたわら獣使いでもあるため、彼女自身獣の知識はある。その彼女から見て、リエトと獣の関係がいまいちよくわからないのだ。
使役獣なのは間違いないが、リエトが獣を使っている様子はない。それは、彼がこの獣の使い方を知らないだけなのか、それともあえて使わないようにしているのか。
獣の方はリエトをちゃんと主人として認識しているけれど、当のリエトの方が獣を徹底的に拒否しているのはどういうわけなんだろう。沢で倒れていた時も、獣がそばに寄るのをひどく嫌がっていた。
「消えろ」なんて、そこまで言わなくても……とは思うが、人には人の事情がある。
ただ……。
アイナは複雑な思いで、小さな獣を見つめた。ざらりとささくれ立つ心を振り払うように小さく頭を振って、勢いよく立ち上がった。
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