第3話 火事

○二ヶ月後  江戸の町 深夜

 

  赤い炎が暗い夜空を染めている。


男の声「火事だ! 火事だ! 赤蛇だぁ!」

 

  火事を知らせる鐘が鳴る。


× × ×


○同日 同時刻 大黒屋 手代部屋


  哲治郎、手代部屋の障子を開けると、西の空が赤く耀いている。

  遠くから、火消しの男の声がする。


男の声「火事だ! 火事だ! だぁ!」

哲治郎「…………」


  暗い夜空に、揺らめく炎。哲治郎の顔を赤く照らす。

  その炎の方角に、裸足で駆け出す哲治郎。哲治郎とともに花札に興じていた手代頭の菊次郎きくじろう(35)と、手代の大熊だいくま(21)、定吉さだきち(20)が、哲治郎を止める。


菊次郎「婿殿!」

大熊、定吉「若旦那!」

菊次郎「まったく、あの婿殿は……お武家から、この大黒屋に婿入りしてから二ヶ月ふたつきも経つって言うのに、いつまで経っても同心気分が抜けやしねえ。(大熊を振り返り)大熊! お前、婿殿にお付き添いして差し上げろ!」

大熊「ええ! あっしですかい? 定吉の方が足が速いじゃねえですか」

定吉「あっしは先日、火傷を……」


  火傷した脚を見せる定吉。


菊次郎「ホラ、デブのおめえじゃあ、婿殿に追いつけねえんだから、早くしろ!」


  菊次郎、部屋の片隅に置いてある風呂敷包みをつかんで、大熊に持たせ、部屋からたたき出す。大熊、大きな荷物が入った風呂敷を背負って、泣きながら哲治郎を追いかける。


○同日 同時刻 江戸の町 大通り


  寝間着と草履で、軽快に走る哲治郎と、風呂敷の荷物を持って息も絶え絶えに走る大熊。


大熊「若、ちょいとお待ちを。若旦那!」

哲治郎「(面倒くさそうに大熊を振り返る)無理しなくて良いよ」

大熊「そうは参りません、婿殿に怪我でもさせたらあっし……お嬢様に申し訳が立ちませんもの」

哲治郎「無理すんなよ」


  哲治郎、更に走る脚を速める。


大熊「若旦那!!」


  大熊、脚がもつれてその場に倒れる。


大熊「若旦那! おまちをぉぉぉ!」


  大熊、手を伸ばして哲治郎を呼ぶが、もう哲治郎の姿は見えない。

  龍之介が大熊に気づいて近づく。


龍之介「なんや、情けない声だして」

 

  大熊、倒れたまま、龍之介を見上げる。

  龍之介、大熊の荷物を拾う。


龍之介「これを、あの火事場に届けたらええんやな」

大熊「な、なんでえ、おめえは」

龍之介「ほな、ひとっ走りいってくるわ」

大熊「待て! おい、ドロボー!」


  大熊、立ち上がって追いかけるが、龍之介の方が足が速くて追いつけない。


× × ×


○同日 同時刻 火事場


  まだ火の手が上がる現場で、野次馬が集まる。

  髪の毛が焼け焦げた女が泣きわめき、火消し組の男達が水をかける。火事場の屋根の上では「め組」のまとい持ちが纏を振っている。

  肩で息を切らしながら火事場に現れる大熊。

  老女を背中に乗せ、小さな子どもを抱き、大きめの子どもに赤ん坊を抱かせてその子をかばうようにな恰好で、哲治郎が炎の中から出てくる。

  哲治郎が子供を降ろすと、野次馬たちが子ども達に水をかけ、布で丁寧にふいてやる。


哲治郎「(大熊に気付き)おう、大熊、遅かったじゃねえか」

大熊「若旦那! に、荷物が、ドロボーが」

哲治郎「はあ? 何言ってんだ。荷物なら、ホラ、そこ。(子ども達が着替える様子を指さす)荷物だけ、先に届いたってのか?」

大熊「ドロボーに盗まれて……」

哲治郎「ここに届けてくれるとは……親切なドロボーもいたもんだな」


  大きな口を開けて笑う哲治郎。

  め組の男が、家人の数を数えている。


哲治郎「全員、無事かい?」

め組「へえ、テツジのダンナ。お陰様で全員無事だそうです。家はもう、取り壊しちまいやすぜ」

哲治郎「おそらく、これは火付けだ。蔵に、火元があった。明日、奉行所のヤツらが検分にくるからよ。分かり易いようにしておいてやってくれ。証拠になりそうなもんまで壊しちまうんじゃねえぞ」

め組「へえ、かしこまりました」

哲治郎「帰るぞ、大熊(踵を返す)」

大熊「ええ!? 若旦那、もうお帰りですか!?」

哲治郎「後のことは火消しと奉行所の仕事。俺たちが出しゃばるもんじゃねえや。明日も早いんだ、帰るぞ」


  大熊、哲治郎の火傷を見つける。


大熊「若旦那、お怪我なさったんですね。小石川のお医者に行かれますか?」

哲治郎「今から小石川に行ってたんじゃ、帰ったら朝だよ……唾付けてりゃ治る」


  本当に唾を火傷に付けようとする哲治郎を、大熊が止める。


大熊「やめてください、若旦那! 変な治療なさって、痕が残ったら、お嬢様が心配なさいます!」

哲治郎「お前……俺の背中は火傷の痕だらけだぞ? 今更、火傷の痕の一つや二つ……」


  哲治郎、自分の着物をはだけ、背中の大きな火傷の痕を大熊に見せる。

  小さい頃に囲炉裏に落ちた痕である。右の肩には、大きな火傷の痕。

  もう一つの左の肩には、小さな、赤い顔の般若の刺青。

 

  目の前に佇む女に気付く哲治郎。

  赤い振袖姿の女が、哲治郎に気付き、軽く会釈する。

  ほどいても肩ほどしかないと思われる短い髪の毛を紅玉ルビーのかんざしで

  まとめ上げているが、髪の毛がこぼれた白いうなじが美しい。

  哲治郎も大熊も、思わず女性に見とれてしまう。


女「(哲治郎の刺青を指さし)般若」

 

  女が微笑んで、踵を返す。

  抜きの大きな女の背中に、白い般若の刺青があることに気づく哲治郎。


× × ×


○大黒屋 店の前

 

  りさ、仁王立ちで哲治郎を出迎える。


りさ「お帰りなさい。テツジさん」

哲治郎「ただいま帰りました……」


 りさ、哲治郎の寝間着の帯を掴むと、店の中に引き入れる。


哲治郎「りさ、ごめんなさい!」

大熊「……若!」


  りさに引き摺られながら、大熊に助けを求めるように手を伸ばす哲治郎。

  大熊がそれに答えるが、りさに引き摺られたまま、店の中に入っていく哲治郎。


× × ×


○同・りさの部屋

  

  布団の上に座らされる哲治郎。

  哲治郎の寝間着をはだけ、褌一枚にするりさ。

  脚の怪我を見て、押し入れから薬箱を取り出す。

  終始無言で哲治郎の傷を処置する。


哲治郎「怒ってる?」

りさ「人助けに行った人に、怒ってどうしますか。これくらいで済んで良かった」


 哲治郎の足にぬった薬を片付けるりさ。


哲治郎「じゃあ、笑って。(両手を広げて可愛らしく)お帰りなさい、テツジさん……とか……」

りさ「笑えるわけないじゃない。夜中に、こんな怪我してきてさあ」


 哲治郎を睨み付けるりさ。哲治郎、りさを無理矢理抱きしめる。


哲治郎「ごめん。(ゆっくりとりさに口づけする)……もう、寝よう。厠、行ってくる」


 りさの身体を離し、りさの部屋から廊下に出る哲治郎。静かに障子を閉める。


× × ×


○同 廊下


  11月の夜風に煽られ、寒さに身を震わせる哲治郎。

  炎のせいであれだけ明るく赤く輝いていた空だが、いまはもう真っ暗。星々が、黒くも見える濃紺の空に明るく散らばる。時折、風に乗って焦げたような匂いが鼻を突く。そしてまだ軽く何度か細く高く煙が上がる。その姿がまるでヘビのよう。

  空を眺め、もう一度、身を震わせる哲治郎。


哲治郎「小便、小便」


 小走りに厠に向かう哲治郎。

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