第9話『僕とフルールが一つになった後』
僕の家には音楽がかかっていた。猫の家のあの曲だ。なぜか家にいると、かけていたくなる。あまりに普段からそうしているせいで、もう目をつむっていても出来そうだ。今日なんか、流していたのに後から気付いた程だ。
躰が燃えるように熱い。声が漏れる。全身をぞわぞわする感覚が走っていく。ベッドの柔らかな感触を背中に感じて、指先に温かい柔らかな感触を――。
ノックの音だ。
無視しようと思った。というより、心に決めて、無視しようとした。でも、できなかった。ノックの音が激しくなり、ドクの声が聞こえたからだ。
良いところだったのに。すごく、すごく良いところだったのに。僕は息を、細く、長く吐き出し、躰を起こした。
「今行くよ! 待ってて!」
扉に向かってそう言って、僕はシャツのボタンを留めて、カーゴパンツのファスナーを閉める。ロッカーを開き、一応、鏡を見る。ちょっと顔が赤いけど、これは仕方がないだろう。突然来た、ドクが悪い。
念のため、僕はキャロラインを抜いて、扉を開ける。
額に汗した、ドクがいた。他には誰もいなそうだ。
「やぁフルール。調子はどうだい?」
「調子はまぁまぁ。気分はあんまり良くないけど」
キャロラインをホルスターに戻し扉を開くと、ドクが家に入ってくる。そのまま、疲れたような様子で机の椅子に腰をかけ、足を投げ出す。街から出るのが少ない人だから、ここまで歩くだけでヘトヘトなんだろう。もっと躰を鍛えておかないと、いざというとき困るのに。
僕はポットを取って、冷めたハーブティをコップに注ぎ、ドクの座る机に置いた。
ドクはすぐにそれを取って、一口飲んだ。
「うん。まさか本当にお前がハーブティを淹れるようになるとはね」
僕はベッドに座って、言葉を投げ返す。
「ドクがそうしたらどうかって言ったんじゃないか。フローレンスの様子はどう? 元気にしてる?」
「まだまだ。お前がタフすぎるんだ。あれだけのケガをしてたってのに、もう傷もなく、歩き出してる。流石の彼も、そこまでは無理だ」
「もう歳だしね。引退すればいいのに」
ドクは大きな声で笑った。ひとしきり笑った後、また一口、紅茶を飲んだ。よっぽど喉が渇いていたんだろう。
「彼も、引退できるなら、もうしてるさ。タイラーが育つまでは無理なんだろうよ」
ビビり屋タイラー。彼が育つなんてあるのだろうか。あれから何度か街にも足を運びはしたけど、彼は僕を見ると、逃げるように姿を隠す。
「それで、今日は何の用?」
ドクは身を乗り出し、覗きこむように僕に目を合わせた。
「ただの経過観察さ。足の傷と、お前のストレスのな。まぁ足の方は大丈夫そうだ。部屋の中に物が増えてるしな。問題は、こっちだ」
ドクは大真面目な顔で、自分の胸を指さしていた。多分、心の方は大丈夫か、と言いたいのだろう。たまにドクは、こうして演技がかった事をする。
「心の方に問題があるのは、ドクの方じゃない? いくら仕事が嫌だからって、こう何度も来られると、僕も困るよ」
肩をすくめたドクが、机の上の日記を手に取り、勝手に開く
「何だ? またバトルログが増えたのか? どれだけ殺せば気が済むんだ?」
知りもしないのに、なんでそんなことを言われなきゃいけないのか。
それにここ何日も人を殺したりなんかしていない。大体、それはただの日記だ。
「言ったでしょ? それはただの日記帳。そんな名前なのは、生きることは――」
そこで気付いた。また言わされた。僕はうなだれ、膝に肘をついて、両手で顔を覆う。ニヤついているであろうドクの顔を見たくなかったからだ。
ドクは僕の言葉の先を継いだ。
「生きることは、戦いだから?」
ドクは笑いながら続ける。
「お前は詩人になったらどうだ?」
とうとう大声で笑い出した。お腹を抱えて笑っていそうだ。僕は顔が熱くなるのを感じていた。だから家に来てほしくないんだ。
ドクが笑うのを止めて、気遣うような、低い声を出す。
「それで、お前、街には住まないのか? 他に何か予定は作ったか?」
僕は顔を覆うのをやめて、ドクを見る。窓から入った光を背にしていて、表情までは分からなかった。
「いままで通り、ここで暮らすよ。ただ、ドクの言った通り、しばらくここを離れて、猫の家に帰ってみようと思ってる。まだ猫の家の記憶は曖昧だからね。まぁ、そのときは、家の扉に『お出かけ中』のプレートでもかけておくよ」
ドクは顎に手を当てて、ゆっくり息を吐いて、立ち上がった。
「それもいいかもしれないな。故郷に帰ってみるってのは、記憶を戻すのにはいいことだ。もう行くよ。俺も仕事と戦わないとな」
ドクは笑いながら席を立つ。ちょっと腹立たしい。いったい、あと何回僕をからかえば、彼の気は済むのだろうか。
扉の外に出たところで、ドクは窓下のカモミールの細長い鉢に目を向け、振り返った。
「ここは日差しが強いから、そろそろしまった方がいいぞ?」
僕は黙って、窓下に付けられているトグルスイッチを下ろす。バシャン、と小気味いい音を立てて、カモミールの鉢植えに小さな
ドクは苦笑いを浮かべて言った。
「よくやるよ」
彼は手を上げ、少しさびしそうに言った。
「またな」
僕は腕を組んで扉の外枠に寄り掛かり、小さく手を挙げて、出来るだけ優しく聞こえるように、気を張った。
「もう来なくていいよ」
僕は笑っていた。
僕の中の『僕とフルール』も、きっと笑っている。
ハードキャンディ・バトルログ λμ @ramdomyu
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