第3話『僕とフルールが家に帰って滅菌の準備を始めるまで』

 味はさておき、キャンディーを舐めたことで糖分を取ってしまったわけだから、そのうちに喉も渇いてくるだろう。

「フルール、水を飲んでいいよ」

 嬉しそうに、フルールは水筒のキャップを開けて水を飲み始める。走ったのもあって美味しく感じる。躰が勝手に動いているはずなのに、もう違和感がない。

 さぁ、今の状況を整理しよう。

 あの射手の様子も確かめたいし、何よりあいつが何者で、なんで僕とフルールを殺そうとしているのかも気になる。

 今の奴との距離なら、僕の眼とフルールの腕があれば、そしてニーリングポジションで撃てば、いけるはずだ。多分。

 問題は着弾確認と近づくまで、だ。セリーナの弾丸が突き刺されば、おそらく彼女が吼えた言葉のように、爆ぜ、肉の塊となるはず。さっきは影に隠れて見えなかったけど。

 まだ日は高いし、水はもう残っているか、あやしいくらいだ。迷っていても何も事態は進まない。フルールがキャンディで上機嫌になっている内に、動きだしてしまおう。

「フルール。キャンディはそのままで良いから、ザックを背負って、セリーナをもって。さっさと奴を終わらせて、奴のボスを殺菌ころしに行こう」

 フルールの躰には緊張が走っていたが、口の中のキャンディをコロコロと動かすとすぐに消えた。緊張は、僕が引き受けよう。

「セリーナ。もう一回やるよ」

 握られたセリーナの木目は、しっとりとしている。

「あぁ……もう一回? まだ日は高いのに」

「だからアンタ達ね……ただぶっ放してるだけじゃないの」

 キャロラインは無視だ。

 さっき見えた敵の位置をしっかり思い浮かべて、岩陰から飛びださせる。

 アイアンサイトで狙うのは発射炎のあった場所だ。さっきより銃口を下げさせたのは距離が近くなっているから。奴が伏せていれば、直撃コースになる。

 フルールが舌先でキャンディの位置を変える。頬に触れるセリーナの木目が妙に温かく感じた。無駄な力が抜けた指がトリガーにかかり、引かれる。

「血の花をみせてよ!」

 何度見ても凄まじい黒煙と、フルールの心臓にまで響くようなセリーナの咆哮。

 音を引きながら伸びていく呪詛は、射手が居るであろう空間へ消える。

 マズルブレーキがあるとはいえ、肩に猛烈な反動があった。しかし、フルールはものともせずにボルトハンドルを引いて殺意の残滓を吐き出させ、次弾を装填していた。

 セリーナは躰から出る熱で、周囲の空気まで焼いていた。

「なかなかクるね。ほんとにおかしくなってしまいそうだよ。血の花は咲いたかい?」

「僕の目には見えないね。フルール、狙ったまま、近づこう」

 フルールはキャンディを左の頬に移して、立ち上がった。そのまま、一歩一歩、乾いた大地を踏んでいく。ざりざりとした靴裏の感触。本来ならフルールが感じているはずの緊張感。全てが僕の気持を高めていた。

「やっぱりイイね。キミと、フルールに握られていると。息をつかせてもらえない」

「フルールの腕がいい。それに僕は、お前の声は好きだ」

 視線の先、草が少し動いた。僕の認識と全く同時に、フルールの指先が動く。高い空に雷鳴のような音が轟く。やっと真っ赤な花が開花した。

 フルールが頬に移していたキャンディを口の中に戻して舐めた。口角が上がっているのが分かる。喜んでいるのだろうか。

「セリーナ。やったね。かすっただけで致命傷だ。直撃かもしれない」

 マズルブレーキがブスブスと大気を焦がす。

「……ちょっと、今は、ダメだ」

 余裕のなさそうなセリーナ。なんだか、すごく、すごくドキドキしてくる。

 僕は言った。

「フルール。念押しだ。もう一発撃ち込んでやろう」

 フルールがボルトを操作しグリップを握り直した。

「なっ、ちょっとまってくれ、私はいま――」

 その後の咆哮は、今日聞いた中で一番大きく聞こえ、血の花は大輪となった。

「フルール。セリーナを背負って。念のためキャロラインを抜こう」

 彼女は言われた通りに、セリーナを革のスリングを使って背負いこむ。そして、すぐにホルスターからキャロラインが引き抜かれた。

「アンタね。セリーナ、しばらくヘタってると思うわよ?」

「撃って、確かめた方がいい?」

「……鬼畜。鬼畜変態バカ」

 キャロラインめ。同じ目にあわせてやろうか。

「フルール。とりあえずマガジン一本、撃ってみようか」

 フルールはセイフティは外したけれど、他の僕の言うことは、無視することにしたみたいだった。まぁいいか。

 セリーナの破壊力に満足したし、楽しめたから、別にいい。

 銃口の先に敵がいたとしても、それが死んでいると分かっているなら、随分と気が楽になる。隠れていた時はただ恨めしかった空の青色も、いまでは解放の象徴のようだ。

 僕はキャンディに吊られて走ったフルールを調子のいい女だと思っていわけだけど、僕自身も大概現金な奴だってことだ。やっぱり、フルールと僕は、同じなのかも。

 フルールが動いてくれなければ、好き勝手自由に動けない。でもそこに死の恐怖が紛れていなければ、こんなにも見える風景が違うなんて、全く僕も調子がいい。それとも、この解放感すらも、フルールが肌で感じたものを受け取っているだけ、なんだろうか。

 フルールとの関係について考えかけていた僕は、彼女がキャロラインのグリップを握り直したのを感じて、それを止めた。

 多分、フルールは興奮を抑えようとしている。自分を殺そうとしていた射手と対面するわけだから、興奮も分かる。でもこれは、なんというか、ちょっと違うような気もする。

 カードゲームで良い手がきたときみたいな高揚感と、さっきフルールの胸を見たときみたいな感じが混ざってて、区別ができない。もしかしたら彼女はすごく好戦的で、僕はそれを抑える役割だったのかも。僕が気付いてからは、彼女は泣いたり怯えたりしていたから、逆なのかな。僕が好戦的で、フルールが弱い女の子。分からない。

 フルールの足が止まる感覚で、僕は僕のルーツを考えるのを止めた。次のモードに入らないと、またフルールが泣きだしたら困る。

 枯れ草の陰に、背中側が半壊した男が倒れていた。男の顔は、かき混ぜたチェリーソース・ミートパイみたいになってる。こんな連想をするなんて、ホットドッグとチョコレートスティックしか食べていないから、お腹が減ってるのかもしれない。

 フルールが笑っているのが分かる。多分、僕の感想が面白かったんだろう。

 気を取り直して、つぶれたミートパイを見ると、その手前にバラバラに壊れた高そうなセミオートライフルがあった。こいつの破片が、ミートパイを作ったらしい。

 男の足元には、もがいた跡があった。それと、弾が入った時にできたであろう穴が、お腹側に二つ。

 躰の裏側は……なんだろう。きたない。まるでフィルシーダイニングのトイレみたいだ。フルールも顔をしかめて、後ろを振り返った。ぐちゃぐちゃだし、見たくないのもよく分かる。

 地面に跳弾の跡があった。その延長線上に壊れたライフル。もしかしたら一発目のセリーナの咆哮で、すでに男の銃は壊れていたのかもしれない。

 弾はきっとライフルを壊して、変な回転をはじめて、壊れた破片と一緒になって、チリビーンズを作った。違う。チェリーソースミートパイ。どっちでもいい。お腹が減ってくるから、顔を見るのはやめよう。それより、男のポケットだ。

 フルールが露骨に拒否しているのが分かる。きたないもんね。

 でも、こいつの持ち物を見てみないと、誰が僕らを殺そうとしたのか分からない。

「フルール。悪いとは思うんだけど、こいつのポケットを探ってよ」

 彼女はキャロラインから左手を離して、腰のシースからナイフを抜いた。

 ナイフ? 

 僕は全然ナイフをもっていることなんか知らなかった。フルールはなんで僕に教えてくれなかったんだろう。そして、なぜ僕は覚えていなかったんだろうか。

「アンタが名前をつけてやらないから、気付かなかったのよ」

 突然のキャロラインの声に驚いた。フルールが勝手に、キャロラインをホルスターに戻していたみたいだ。そして撫でてる。

「名前? 名前って、ナイフの名前ってこと?」

「他に何があるってのよ? 最初にザックの中身をぶちまけたとき、アンタはフルールが下着を持ってることも、ホットドッグも、キャンディだって忘れてたじゃない」

 確かに覚えてなかった。覚えていなかったのは、僕が名前をつけていなかったからってことなのか。でも、だとしたら。

「普通、下着に名前とか普通つけないよね?」

「アンタがそれを言う? 銃に名前をつける方がどうかしてるわよ。まぁ、私のは、嫌いな名前ではないけど。下着の方は、フルールが隠すためにつけなかったんじゃない?」

「隠す? 隠すって何から?」

「アンタからに決まってんでしょうが、この変態」

「僕から? なんで? 恥ずかしいから、ってこと?」

「それを考えるのはアンタの仕事。……フルールに、余計な気を使わせないで」

 フルールがナイフの先で男の服をめくりはじめていた。

 僕は黙ることにして、フルールを通して男の情報に集中する。筋肉質で、がっしりしてる。狙撃用のライフルを持ち歩くんだから、当たり前か。顔が分からないけど、中年のおじさんかな? 

 フルールはナイフの先で男の腹筋をつつき続ける。

「……フルール、男の体格はどうでもいいんだよ。見たいのは男の持ち物の方だよ」

 フルールの躰から不満を感じる。何が不満なのかよく分からな。とにかく、さっさとこんなことは終わらせたい。男のぐちゃぐちゃになった背中から漂う臭気が、あまりに酷い。

 ナイフの先で男のポケットを切り開く。特に何も入っていない。もう片方は地面に隠れちゃってる。とりあえず後ろのポケットからだ。

 立ちあがったフルールは男の腰骨のあたりを嫌そうに靴底で踏んで、汚れたトイレに似ている方を向かせた。背骨も出てるし、ほんとにきたない。

 男の後ろのポケットを切り裂き、めくる。手前側に革の財布。奥のポケットには真っ赤な布のカバーがついた手帳。カバーは、元は違う色だったみたいだ。

 フルールはそれを指先でつまんで、後ろに放る。また立ちあがり、男を足でひっくり返した。粘度の高い嫌な音と、動きに合わせて広がる、最低な臭い。

 右ポケットを切り開く。ライターだ。タバコをもっているかも。フルールはライターも後ろに放って、男の周りの枯れ草をガサガサより分け探す。

 男のものであろう、小さなザックがあった。

「フルール、それとって。中身を見てみよう」

 フルールはザックを拾って、さっき放った持ち物の所までもっていき、落とした。

 まさに落とした。どうやらフルールは汚い物を見たり、触ったりするのは嫌らしい。まぁ、僕も嫌ではあるけど、そこまで雑にしなくてもいいのに。

 ザックを開いて見てみると、ライフルの予備の弾丸とか、ハンドガンの予備の弾丸とかが入っていた。それと、ビロウ・ホーンの包み紙。

 白いソースがついているから、多分ホットドッグじゃなくてハンバーガー。このハンバーガーはあんまり好きじゃない。チーズの匂いがキツくてダメだ。

 他に入っているのは、お酒とタバコ。お酒は重いし臭いし好きじゃない。でもタバコはいい。僕は吸いたいとも思わないけど、男と交渉するときに差し出してやると、口が滑らかになる。貴重品だし、もらっておこう。

 他にはえっちな本とかも入っていたけど、多分これは交渉には使えないだろう。むしろ、誰かからこの本を手に入れただろうこの男の方が、どうかしてる。

「フルール。手帳を見せて」

 物凄く気乗りしないようだったけど、彼女は手帳を開いてくれた。血で汚れたからか、インクが滲んでしまって読めないページが多い。

 薬の中毒者だったのか、薬の名前と売ってる人間の名前が書いてある。多分これじゃない。僕は薬を使わないし、フルールが嫌がる感覚もあった。記憶はないけど、売り子を殺したこともないはずだ。

 それにポエム。『花のようなキミの、柔らかな花弁を僕は散らして……』ポエムにしてはセンスが最低だった。よっぽど恵まれない人生を歩んできたんだろう。

 文字が書かれた最後のページ。僕とフルールだけの秘密の穴場、その座標。それと『生死問わず。死体と銃は持ちかえること』との文言。とりあえず手帳は持ち帰って、家でよく見た方がいいかもしれない。

 残りは財布とライター。ライターには一本角が生えた、馬のマークが彫られてる。財布の方には、結構お金が入ってた。他には女の子の写真。結構可愛い。

 そう思った直後に、フルールが写真を破いてしまった。強い不快感を感じてる。とりあえずお金だけは、もらっておこう。

 そこまでやって、考える。僕らを狙う奴の手掛かりがない。でも狙ってきたのは間違いない。しかも僕とフルールの後をついてきたのか、穴場の場所まで知っている。誰かに教えた記憶はないし、フルールも違和感を感じているのが分かる。

 思い出しても記憶は出てこない。最初に隠れたときの岩の裏側と同じ。僕がため息の一つもつきたくなると、フルールが代わりについた。でももう、妙な感覚はなくなっていた。

「とりあえず、帰ろう」

 僕がフルールにそう言うと、彼女はセリーナとザックを降ろす。帰ろうと言ったのに、彼女は弾を取り出し二発込める。しまった。

 たしかに帰るにしても、準備は大事だ。やっぱりフルールの方が冷静なんだろうか。そんな事を思っている間にも、フルールがボルトを閉じる。

「……今日はさすがに、もう撃たないでくれるかな?」

 セリーナだ。そういえばずっと黙っていた。

 フルールがザックを背負い、セリーナの革ベルトを肩にかけた。

「黙っていたというより、喋れなかった、かな」

「どういうこと?」

「それを私に言わせるのは、野暮ってもんだよ」

「アンタたち、そういう会話、ほんとに止めない? なんだか……ねぇ、フルール?」

 フルールがキャロラインを撫ではじめていた。

 

 家に帰るまでの道は静かなものだった。銃声もない。フルールもメロン味のキャンディにご満悦。喉が渇くのと、崖を飛び降りたせいで遠回りになったのが困っただけだった。それでも今回を教訓に、ランドリッカーで周囲の地形を記録しながら家まで歩く。

 枯れた大地を踏みしめながら、のこのこと歩き続ける僕とフルール。太陽が少し傾きかけたくらいに、家が見えてきた。見た目は、荒野に生える巨岩。家は、巨岩の裂け目の奥に、隠れるように立っている。

 巨岩の足元まで来ると、遠くに金属の壁で囲まれた街も見える。……なんで僕らはここに住んでいたんだっけ。思い出せない。

 ここまでの道も、あの街も思い出せるのに、ここを家にして住んでいる理由、動機が、まったく出てこない。

「フルール、ちょっとまって」

 フルールが立ち止り、街の方へ目を向けたままにしてくれていた。

 あの街の中に、どういう店があって、どういう雰囲気なのかは思い出せる。たしか結構栄えていて、住みにくいって程じゃなかった気もする。口の中が乾いてきている。

 記憶が曖昧だ。断片的には思い出せるのに、一本の連続的な映像としては無理だ。たしか、あの街は住むのに、物凄くお金がかかったような。だからここに住んでいるのだろうか。それにしては変だ。住んでいた時に起こった事件の思い出もある。

 鍵をしっかりかけたのに、空き巣に入られた事があったはず。……ああ、多分これが理由の一つだろう。僕はあの事件以降、やたらと空き巣に注意する羽目になったはずだ。

 もう少し、注意して記憶に触れていく。嫌な、重い気分になっていく。せっかく上機嫌だったフルールも、なぜか躰が重くなる。多分、あの街にもう住むことはないだろう。フルールがどう思ってるのかは分からないけど、僕はあの街が嫌いだ。

 変な感じだ。

 断片化された記憶の一部は映像だけで、思い出しても何の感情も動かない。そして、そういう映像を思い出すと、フルールの感情が揺れているのが分かる。これは、僕の記憶と、フルールの記憶が混在しているということなのだろう。

 いつまでも、こうして思い出していると、フルールがなんだか可哀そうだ。さっきからずっと、僕の思考のせいで、忙しく感情を動かしてしまっている。もうやめておこう。

「フルール。ごめんね。もういいよ」

 フルールが街から目線を切って、巨岩の方に目を向ける。手を触れそうな距離をぐるっと歩いて行くと、裂け目がある。まるでトンネルのような、曲がりくねった隙間。

 細くて暗い道を歩いて行くと、光に差された僕らの家が見えてくる。外から見ると、まるで金属の箱。光を返して、キラキラしてる。ずっと雨が降っていないから、ちょっと埃っぽくなっていて、照り返しが弱い。

 僕とフルールの家の手前には、塀の代りに、拾ってきた薄い金属板を立て、家に近付けないようにしている。野生動物に家を荒らされるのは嫌だし、仕方がない。荒野の道を金属板をもって歩いてくるのに、酷く苦労した思い出がある。

 門扉、と呼んでいるはずの金属のドアを開け、中に入る。ばね式の狩猟用トラップが辺りにまかれている。今日も変化はない。ちょっとフルールが安心しているのが分かる。

 塀は、板を立ててあるだけだから、たまにはそれを倒して入ってくるのもいる。そういうのは、この庭にある、バネ式のベアトラップに引っかかる。そこで引っかかっていれば、自然と貴重なお肉まで手に入るというわけだ。

 獲物の足に噛みついた罠は流れる血で赤くなり、まるで赤い花のつぼみみたいで可愛い。ああ、だからなのか。どうにも、思い出と感情がくっついてこない。苛立ってもしょうがないから、のんびりいこう。

 フルールがトラップを避けて、庭を抜け、家のドアノブの近くに飛びだしている金属棒をつまむ。そして、右に三回、下に一回、上に一回。

 機械的なガチャガチャという金属音がする。これで鍵が開いた。この鍵は、僕が考えたような気がする。取り付けたのはフルールかな。

 記憶が曖昧だから、フルールかもしれない。

 

 二部屋しかない家の中は、あいかわらずのごちゃごちゃだ。しかも、大半が僕が趣味で集めてきた本とか、フルールの趣味っぽい昔の玩具とか、そういうもの。まぁ修理中のジャンク品もあるにはあるけど。

「ザックの中身もここにだしちゃおう」

 でも、フルールは、ベッドの上にセリーナとキャロラインを置いて、今日の成果を机の横の作業台に、丁寧に並べていく。ジャンク品をぶちまけて、さらに壊れたら元も子もないのは分かる。でも、僕は水が飲みたかった。

 ふいに気付く。とうとう僕とフルールの間で、感覚と感情の順序が入れ換わりはじめている。水を欲しがったのはフルールではなく、僕だ。また僕は僕についての思考の沼に、沈みそうだった。

 僕の思考を断ち切るようにフルールが立ちあがり、部屋の隅に置かれた古ぼけた機械のスイッチを入れる。天井近くの丸いスピーカーから流れるサックスの音。

 猫の家で良く流れていた曲だ。何度聞いても飽きない。フルールの躰も、なんだか軽くなっている気がする。

 フルールは軽やかな足取りで振り返り、目の先にある扉を開ける。

 扉の先にあるのは、吸い上げ濾過ポンプがついた井戸と、金属の桶。思い出した。これが僕とフルールがこの家に住み続けている最大の理由。安全な水だ。

 この家を見つけたときは、まだ井戸の周りは部屋にはなっていなかったし、濾過ポンプも壊れていた。それを僕とフルールが街から通って直して、部屋に仕立てた。

 僕らの頑張りによって、街で買うより遥かに安く、濾過された水が飲める。言うと狙われるから、誰にも言えない一番の自慢。

 誰かに手伝ってもらったような気もしたけど、思い出せない。

 フルールがシャツと、土っぽいパンツを脱ぐ。そして背中に手を回し、止まった。

「フルール? 誰かいるの?」

 彼女の感覚を読みとると、恥ずかしがっているようだった。……なるほど、僕が見ていると思っている、というところなんだろう。

 お願いを聞いてあげないと可哀そうだ。でもせっかくだから、水も飲ませてもらおう。

「水を飲ませてくれるなら、目を瞑ることにするよ」

 フルールはすぐに濾過ポンプを動かし始め、水を飲んでくれた。

 舌の根に感じる滑らかな感覚と、乾燥した躰が内側から瑞々しさを取り戻すような、不思議な感覚。生きてて良かった。本当に。

 約束通り、目を瞑ろう。といっても、彼女に目を瞑られてしまうと、何もできなくなってしまう。まぁ僕が自由に動けるわけじゃないから、別に困りはしないけど。

「フルール。お前が目を向けなければ、僕は見れないよ」

 彼女は目を下に向けないように、躰を洗い始めた。手の平で。納得したのか、どうでもよくなったのかは知らない。でも、フルール、僕とお前の感覚は繋がってるんだ。困るよ。

 フルールの躰の柔らかさと、その下の筋肉の感触が伝わってくる。でも僕は、それよりも、この何と言っていいのか分からない、不思議な感覚に困った。僕自身は何やら興奮すら覚える。自分でも何を思っているのだとは思う。でも、フルールは違う。

 彼女にしてみれば自分の躰を洗うのだから、興奮したりしない。それは分かる。でもおかげで僕は、躰の感覚が僕とフルールの間で曖昧になる。

 沸かしたお湯と水を交互にかけられているような、高揚感と冷静さがまだらになって、躰を巡る。

 感情の揺らぎに影響されたのか、彼女は躰を洗う手を止めた。僕としては、ありがたい。これ以上続けられると、セリーナの言葉ではないけど、どうにかなりそうだった。

 フルールは、躰に柔らかい布を巻き、嫌そうに靴を履いて、ベッドの横まで歩く。そこで何を思ったのか、彼女はザックから着替えの袋を取り出し、あの下着を身に着け出した。なんだかちょっと、小さくて、苦しい。

 次に、ガタついた錆の目立つロッカーから、黒色の細いカーゴパンツと、白いシャツを取り出した。そして、強引に取り付けた鏡に姿を写す。僕は彼女の服装チェック。

 彼女の目を通して、上から見た時は良く分からなかった。胸は、正面から見ると結構大きい。そして腰が細い。お腹に筋肉のラインが少し浮いている。よくこの体格でセリーナを担ぎ、ましてや撃ったりできるものだ。

 ……ちょっとこの下着は、男の目を引きそうだ。

「フルール。せめて、シャツはちゃんと閉じた方がいいよ」

 僕の言葉が不満だったのか、フルールはロッカーの扉を乱暴に閉めた。この体感覚が怒りとか不満なら、なんと言って欲しかったんだろう。

 彼女はそのまま、セリーナとキャロラインを避けて、ベッドに躰を横たえる。背中に柔らかい感触が広がる。服を着替えたのは寝巻のつもりだったのだろうか。だとしたらさっき思いきり扉を閉めたのは、単に閉まりにくい扉だったからなのかな。

 目の先にある汚れた天井。掃除しても、汚れが落としきれなかったことを、思い出せた。自分の記憶が戻ったり、戻っていなかったりで混乱する。フルールの記憶なのか、僕の記憶なのか、わからなくなりはじめている。

 とにかくそうしていると、ベッドの柔らかさもあって、眠気が誘われてくる。今日の射手との戦いは、ちゃんと覚えておく必要がある。何かにメモでも取っておこうか。でも、それは明日にしよう。

 フルールもきっと眠いはずだ。背中に伝わる柔らかい感触は、今日の出来事は全て夢だったのではないかと、彼女にも思わせているはずだ。

 フルールの右手がキャロラインのスライドに触れ、カチャリと音を立てた。

「アンタ、気を抜きすぎじゃない? まだアンタ達を狙ってる相手、分かんないのよ?」

 たしかにキャロラインの言うとおりだった。でも、もう僕は疲れているし、フルールも柔らかいマットと毛布の上で、もぞもぞしている。今日はもう動きたくなさそうだ。

「とりあえず、今日はもういいよ。疲れてるしね」

 フルールはキャロラインを柔らかく撫で続けている。優しく、さっき井戸場で自分の躰を洗った時よりも、丁寧に。ちょっと気持ちがいい。

 彼女の手から伝わる感覚で、キャロラインを大事にしているのが良く分かる。

「あ、これはヤバいわね」

 キャロラインの、焦った様な声。何がまずいのだろうか。たしかにベッドの上で銃をいじり回すのはどうかと思うけど、何も撃ったりするわけではないだろう。

「何が?」

「うっさい。アンタは目を瞑って、さっさと寝なさいよ。今すぐに」

「今すぐって。お前の声がうるさくて、良く寝れないよ」

 フルールの手がキャロラインから離れる。なんだか彼女の様子が変だ。僕は眠くてたまらないのに、彼女は妙な昂揚感を感じている。今度は、僕の冷静さと彼女の昂揚感がまだらになっていく。

 フルールの手は、そのまま自分の胸のあたりをなぞり、少しずつ下に下がっていく。はだけていた胸の間を通って、おへそ、そして更に下へ。

 僕は、彼女の手がもたらす、くすぐったいような躰の感覚と、彼女自身の昂揚感があまりに煩雑にからみ、動揺していた。

「フルール? 何してるのさ」

 構わず彼女の手が、カーゴパンツの中に滑ろうとしていく。これは、アレだ。いくらなんでも、僕が起きてるうちにされたら困る。とにかく止めさせないと。

「フルール? フルール! 手を止めて。とにかく、今はダメだ」

 そうこう言っているうちに、ぞわぞわするような感覚が躰に走り始め、僕はどうしたらいいのか分からなってきた。僕は考えるのと感じるのを止めて、自分の中に閉じこもってしまう方法を模索しはじめた。

 その影響か、身をよじったフルールの膝が、セリーナのストックにぶつかった。

「おや、随分仲良くなってきたね。フルールを止めなくていいのかい?」

「止める方法が分からないし、うぁ、どういえっ、ばいいのか」

「まぁ、そのまま任せてしまっても、害はないと思うよ?」

「冗談じゃない! 僕には大有りだよ!」

「しょうがないねキミは。っと、フルール! 窓の外だ!」

 セリーナの声に驚くよりも早く、フルールはキャロラインを手に取り、窓に向かって引き金を引いていた。甲高いキャロラインの罵声が部屋に響いた。

「この変態覗き魔!」

 キャロライン罵倒の連射は、四回放たれ、窓の外の誰かにあたったらしい。金属の壁に穴が空いていた。そして被害者は窓に顔をぶつけ、崩れ落ちたのか、窓の下に消えていった。汚らしい顔をした中年の男だった。

 僕がそう認識し終わる頃には、フルールが左手でセリーナを掴み、ベッドの横に立ち上がっていた。彼女はキャロラインに安全装置セーフティをかけ、カーゴパンツとベルトの間に突っ込む。そして、セリーナを右手に持ち替え構え姿勢を低く、扉に近づいていく。

 早すぎて彼女の行動を認識するだけで精いっぱいだった。誰かが窓から覗いていたのは間違いない。僕も男の顔を見た。

 でも、フルールの反応の速さと、感覚の切り替えに追いつけない。一瞬前まで妙な感覚を僕に与えていたと言うのに、すでに躰は火照るどころか冷静そのものだった。

 屈みこんだまま前進する彼女の腹に、キャロラインのスライドが触れた。冷たい。

「アンタも! なにちゃっかり覗き見してんのよ! 家の外にいた変態男より先に、アンタの頭に穴開けて、風通しを良くしておくべきだった!」

 キャロラインの罵声。まだ言い足りなかったみたいだ。でも、僕は変態呼ばわりされるいわれはない。感覚は共有されているのに、変なことを始めたのはフルールの方だ。

「そういうつもりじゃなかったし、これでも僕は止めた。それに、そんなことされたらフルールも死んじゃうよ?」

「うっさいバカ! 変態! さっさとフルールを守りなさいな!」

 フルールの手がセリーナの躰を強く握りしめ、軋んだ。

「二人とも静かに。フルールが驚いて、怯えてる。キミがリードしてあげないと」

 セリーナの言葉で、急いで僕はフルールの手の感覚を感じる。強く握り過ぎていた。恐怖だ。彼女は反応の速さの割に、感情の処理が追いついていない。

「フルール。トリガーガードに人差し指を当てて。僕もいる。大丈夫」

 指先に冷たく、細い感触。強張ったフルールの躰から、力がぬけていく。これなら大丈夫そうだ。制御できる。

「慌てず、扉の外を見て」

 彼女は慎重に、音を立てないように前進し、扉の横にぴったりと躰をつける。壁の冷たい感触が気持ちいい。手で少し開けて、セリーナの筒先で開いていく。頭一つ分あけたところで、一瞬だけ外を覗く。誰もいなかった。躰を出して、左右を確認。窓の下に転がっているのは、さっき撃った男の死体。他に人はいない。

 だけど、まだ隠れているかもしれない。僕は音を聞いた。遠くに砂の上を走る足音が一人分。柵の向こう側だ。

 フルールが駆け出し、柵の扉を開ける。視線の先に、走って逃げ続ける男の背中。そこに彼女が構えたセリーナのアイアンサイトが入り込みはじめ、重なる。

「落ち着いてフルール」

 フルールが一息吐き、止める。引き金に置き直された彼女の人差し指が、ゆっくりとトリガーを引き絞る。

 セリーナの咆哮。今度は強烈な衝撃波だけじゃなく、音が岩に反響して、特に大きかった。何と叫んだのかもわからない。

 そんな僕とは裏腹に、すぐにフルールはボルトを引き、戻していた。

「やぁ、風穴をどうぞ、と言ったんだよ」

 視線の先には、太ももの辺りから大量の血を噴いている男。すぐ近くに、何か落ちている。足だ。すごく、すごく痛そうだ。

「足が取れてる」

「穴は開いたはずさ。一瞬だろうけどね」

 フルールが立ちあがり、僕が周囲を警戒しながら、男に向かって歩き出した。ただ前に歩いているだけだなのに、神経がすり減りそうだ。

 脳裏に先ほどの射手の姿が浮かんでくる。細い通路だけに、狙われたら回避できずに一瞬で死んでしまう。

 幸い、倒れた男のところまで誰もいなかったし、撃たれることもなかった。心の底から安堵した、といっていい。

 痩せた中年の男だった。右足が付け根から取れてしまっている。そこから、大量の血を噴き出したみたいで、そのせいか男の顔は、真っ青だった。

 猫の家の猫のフルールに引っかかれた男と同じ表情をしている。多分、痛みによるショック死だ。

 ……猫の家の記憶が思い出せた。それだけでも十分な収穫だ。僕は少し、嬉しくなった。フルールも笑っているのが分かる。これは、何だろう。まぁ、たしかに、男は変な顔をして死んでいる。

 フルールがセリーナを肩に吊るした。

「フルールが喜んでいるのは、キミの記憶が戻ってきているからさ。多分。……少なくとも、その死体の間抜け面のせいではないよ」

「お前も間抜け面だと思ってるじゃないか」

 キャロラインの感触。またフルールが触ってる。

「だから、アンタ達、早くフルールに調べさせないよ」

 僕が言わなくても、彼女は既に調べ始めていた。

 間抜け面の男の所持品は、さっきの射手と大して変わらない。ただ、あの気味の悪いポエムと全く同じ文面が手帳にあった。気持ちの悪いポエムは、同じものが見つかったことで、吐き気を催すようなものになった。もう一人の男の方を調べよう。

 家の前のもう一人の男は、酷い、酷いありさまだった。

「フルールは気にしなくていいよ。多分、男にしか分からないから」

 フルールは全く意に介することなく、所持品を漁り始めていた。感情も感覚も、怒りは含まれていたけど、冷静そのものだ。多分この感じからすると、怒りの原因は男の服がすごく臭うからだろう。

 男の所持品にも気持ち悪いポエム。三人も同じものをもっていたのだから、きっと意味のある言葉なんだろう。それに、同じ女の子の写真もあった。

 女の子の写真の方は、またすぐにフルールが破り捨ててしまった。実は彼女は、写真の女の子に嫉妬でもしているんだろうか。彼女からは、怒りも感じる。

 他には、変な厚紙のカードが入っていた。カードにはモレストファミリーと書いてあった。嫌な名前の家族だ。

 これは間違いなく手掛かりになる。フルールがひっくり返して裏を見ると、僕の嫌いなあの街の、通りの名前が書いてある。つまり、こいつらを倒しに行かないと、まだまだここに来るかもしれないということだ。それはすごく、すごく嫌だ。

「これは、僕らの平和な生活のためにも、滅菌ころしにいく必要があるね」

 フルールがキャロラインを苛立たしげに引き抜いた。

「アンタに同意しておくわ。準備をして、いますぐにでも行くわよ」

「寝込みを襲われるのはごめんだしね。大変だけど、いまからでも行こう」

 僕とフルールは、滅菌の準備をすることに決めた。

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