この作品は、たとえば今と全く違った世代の
祖父や祖母の話を聞いているような感覚がします。
少し寂しげに、自分が若かった頃とは
大きく変わった世界のことを語っているような、そんな雰囲気。
たとえば、昔ゲームは悪でした。アホになる、なんて言われてたりして。
たとえば、昔オタク文化は悪でした。犯罪者予備軍だ、なんて言われたりして。
倫理なんてそんなもので、正義なんてどこにもない。
かつては正しいとされたものが今では悪くて、
我々には歪んでいるように見えても、それが彼らの倫理だったりして。
ただあの日、フォルカスはたしかに死んでいました。
それだけが確かなことであったように思いました。
この話に劇的な展開はありませんが、
読む人の中にあるものに問いかけてきます。
だからこの機会に。
倫理について、少し考えてみませんか。
ネット上でたくさんの名作に出会いました。アイデアが優れているもの、文体がセンス抜群のもの、とにかく執筆速度が速くて、どちらかというとストリートアートに見惚れている感覚になるもの等々。
ですがハードコピーして何度も読み返したくなる、自分の投稿作品に決定的な影響を及ぼす、それほどの作品にはなかなか出会えません。本作に出会えた感動を正確に伝えるのは難しいですが、頑張ってみます。以下はあくまで私見、私が感動した点を述べます。
人工肉や生命の複製など、本作にちりばめられた倫理学的なモチーフは、すべて演出上のギミック。本作で本質的に語られているのは、ひたすらにこの世界を生きる主人公の「まなざし」だと感じました。
では世界設定が空虚なものかというと、そこの演出も非常にうまい。人工肉にしろ、それにまつわる(今の私たちから見ると)グロテスクな社会倫理の変化にしろ、私たち読者が生きる現実が抱えつつある要素です。
近未来という、私たちにとって「見えそうで見えない射程の、延長線上の世界」という舞台装置の中で、そういった倫理上の要素を巧みに先鋭化しています。あまりに巧み過ぎて、私も当初、本作は社会風刺の作品なのだと思いました。
主人公は私たちと同じいわゆる平凡な感性の持ち主で、超人ではありません。だから眼前の違和感に「こうしよう!」という解明の動機を持たない。ただ違和感だけがある。そんな主人公を行動に駆り立てたのは飼い猫にまつわる出来事。「猫が餌を食べない」と「猫にあげる餌がない」という、主観(日常)と客観(社会)を同時に問う演出に「上手いなぁ」と読みながら思わず口にしてしまいました。
社会に所与された条件の中で生を重ねつつも、ちょっとした違和感の表明を行った主人公(このあたりの演出も上手いです、ぜひ一読を)の姿。
私も当初レビュータイトルを「~を考えさせる」と書こうと思いましたが、よく考えたら日常で「なんか考えさせるよね」って言った後は100%の確率で考えてないんですよね私。ですからあえて自分自身に対する戒めと、倫理学上の問い以外の目線でも読んでほしいという思いを込めて上記のレビュータイトルにしました。名作です!
動物解放論、というのがある。
著名な倫理学者ピーター・シンガーによれば、あらゆる苦痛は取り去らわれなければならない。そして動物にも苦痛を感じる能力がある。だから、あらゆる動物は苦痛から開放されなければならない。動物解放論はそういう理論だ。
確かに。と思うかも知れない。
実際この議論は倫理学の中でも強力な立場で、ヴィーガン論争などの中心にある議論の一つでもある。
僕らは肉を食いたい。けれど殺して肉を食うことの倫理的悪さの論証も理解できてしまう。
人工肉は科学技術による然るべき応答なのかも知れない。僕らは肉を食うことができ、動物は開放される。
いや、果たして本当にこれで万々歳なのか?
しかしフォルカスは死んでしまった。肉食家たちは逮捕されてしまった。
フォルカスの死は本当に倫理的だったのだろうか?
肉食家たちは自分の欲望を押し殺すべきだったのだろうか?
『フォルカスの倫理的な死』は近未来SFだが、現在の倫理的な問題とも接続している。やさしい筆致で描かれる物語は、それ自体の魅力以上に現実の問題へとつながる可能性を秘めている。