他の生物を捕食することは、生命活動において最も基本的な消費行為だと思います。
この作品では生命の「消費」がさまざまな形をとって表現されています。
※以下、若干のネタバレを含みます。
作中ではフォルカスという猫の死について語られますが、私はペットもまた人間によって消費される存在なのではないかと思いました。
猫のフォルカスもまた生命を消費する存在であり、培養肉を拒絶して衰弱していくフォルカスになんとも言えない感情がこみ上げてきました。
人類は長い歴史の中で、様々な動植物(人間自身も含め)を管理することで社会を維持し、発展させてきました。
科学技術の発達は社会に変化をもたらす。そうすると消費のあり方も変化し、やがて歪みや問題がでてくる。
最後まで読み終えた時、タイトルの『フォルカス倫理的な死』が示しているのは何なのか、深く考えさせられる作品でした。
生きている、とは本来どんな意味なのだろうか。そもそも、生きる死ぬに本来的な意味などあるのだろうか……?
ミヒャエル・エンデの『モモ』という作品の真逆を行く作品なのかな、と感じました。
深く考えさせられる、良質なSFで、読みごたえがありました。
以下、ネタバレ・自己解釈・長文乱文含みます(すみません、自分の頭の中を整理する意味でも書いてみたくなりました。あくまで私はこんなふうに読んだ、というものですので……)。
まだこちらの作品をお読みでない方は、お気を付けください。
生きる、とは命がある、ということだろう。命が失われた、といえばたいていの場合は死んでしまったことと同意だから。
食事をするのは生きるため、命を保つための行為。
娯楽快楽目的の食事でさえ、生きるため、命を保つための行為といえるのではないだろうか。娯楽も快楽も一切合切失ってしまっては、何の楽しみもなくなってしまい、生きている意味がわからなくなってしまう人もいるだろう。
動物を殺して食べることを、命をいただく、なんていったりすると思う。生きている状態から、殺すことにより、奪いとった命をもらい受ける行為。それが肉を食べるということなのだとしたら、ノンカルマ・フードサプライの殺さない肉を食べるというのは、どういった行為になるのだろう。
命は単語だけど生きるは動詞。
命がある、という言い回しもできるから、なにがしの存在が独立してあるものなのかもしれず……例えば魂とか心とか、そんな言い方に置き換えることも、場合によっては可能かもしれない。
だからつまり、殺した肉を食べる行為は、体を動かすための充電、という意味に加えて心を取り込む、魂を補充する、という意味もあり、
殺さない肉を食べる行為は、ただ体を動かすための充電、という意味になるのではないか。
ノンカルマの食事は受け付けなかった黒猫の名前が気になって検索をかけてみた。
『地獄の辞典』において登場するフォルカス(フォーラス、またはフルカス)(原題:Forcas (Forras, Furcas)という倫理などを教えてくれる悪魔らしい。
フォルカスが殺した肉だけを食べ、最終的に主人公に殺させることで彼女に教えようとした、もしくはわからせることが叶わなかったこととは、生きているということと命というものの在り方。それから、ただの充電だけでは人は体を動かし生きるだけなら可能でも、命(心、魂)を補完しきることができない、ということだったように思う。
主人公のパートナーは機械のフォルカスと生前のフォルカスの違いがわからない。でもフォルカスを殺した主人公は違和感を感じている。動いてはいるけれど、そこに魂、心はもうない、というのをなんとなくでも感じ取ったのだろう。
しかし主人公は殺した肉を食べても、違和感の正体やフォルカスが殺さない肉を食べない理由を突き止めることはできなかった。
フォルカスは、この時点で倫理的な死を迎えたのだろう。
命、魂、心を失った生き物の末路は、電池切れ。
あとで充電すればそっくり動き出すのだろうか?
充電すれば。
でも、じゃあ、誰も充電をしなければ?
いつか起こるであろう人間の電池切れは、いったい何者が充電をしてくれるというのだろうか?
(ちなみにニトベはおそらくニトべギクからかと。
この花は糖尿病や『癌』、肝炎などに効能があるんだとか。
……癌細胞すら食肉に変えてしまう人間にとっての本当の癌とは……)
いきなりの長文乱文独善レビュー失礼しました!
本当に久しぶりに、文句なしの傑作SFだった。これぞSF。
食べるという原点を安直な倫理……『ハンニバル(トマス・ハリス著 高見 浩訳 新潮社 敬称略)』のレクター博士風にいえば、『道義用排泄パンツ』で無理矢理覆った社会。ディストピアそのものだ。誇り高い一匹の猫はそれに抗い続け、遂に戦死した。多分あれは、主人公への仁義を貫きつつも己の志を通す唯一の手段だったのだろう。野蛮な精神を放逐したはずの社会が極めつけに野蛮という、救いようのない逆説。残された(遺された)人間どもは、あたかも江戸時代の大富豪達のように、ご禁制を密かに破る仲間意識くらいしか正気を保つ術はない。
それにしても、ガン細胞のごとく無限に増殖する細胞をもって支えられた人類社会は、いつか木っ端微塵にしたくなる。残虐さと向き合うのを黙殺して我(ら)こそ清純でございという連中をこそ食糧にしたい。野蛮な社会を彼らが食い物にしたように。