ランニング・マン ~風子とパパの日常4~

新樫 樹

ランニング・マン

 パンっと乾いた音が響く。

 先生が高く上げた右手の先で、小さなピストルがわずかに細い煙を吐いた。

 いっせいに転がるように走り出す小さな塊たち。

 トラックのまわりに張られたロープの向こうで、大人たちがわぁっと応援の声を上げる。にぎやかなBGMにも負けない歓声。

 幼稚園の運動会は、青空に色とりどりの旗がきれいだった。

「いいか、風子。パパにしっかりつかまっとけよ」

「うん」

 頼りなさそうな顔つきで、けれども強い力で僕の右足にしがみつく風子。

 ジャージのズボンの紐を、もう一度縛り直した。



「…どうしよう」

 妻がカレンダーを前に頭を抱えていたのは火曜日のことだった。

「どうしたの?」

 風子を寝かしつけ、リビングに戻ってきた僕が声をかけると、帰宅したばかりの彼女は唇をきゅっと結んでいた。とても困ったときの彼女の癖だ。

「被っちゃったの。風子の運動会と、出張」

「え?」

「前に話してたでしょう、新しい支店のこと。そのスタッフ指導に行かなくちゃいけなくなったのよ」

「長くなりそうなの?」

「一週間…かな。もっとかかるかもしれない」

「いつから?」

「今週の金曜日。運動会の前々日よ。…はぁ」

 その顔はひどく悔しそうに変わった。

 行きたくて行きたくて待ち遠しくて、なのに行けなくなった。そういう顔をしていて、僕は内心少し驚いていた。

 妻は、幼稚園の先生やいわゆるママ友を倦厭しているところがある。

 きっと僕らが役目を交代する前に彼女が体験してきた、いろいろな嫌なことがそうさせているのだろう。少しだけ、他の子供たちとは違う世界を見ている風子への周囲の偏見は、今僕が感じているよりもあからさまだったのかもしれない。

 本来、妻は社交的で明るいムードメーカーだ。職場での人望も厚い。

 僕にすべてを話していたわけではないのは感じていたから、僕の知らない辛いことも多々あったのだろうと思ってきたし、これまで行事ごとに乗り気でなかった彼女を責める気持ちはいっさい湧かなかった。

 けれど、今日の彼女は今までとは違っている。

 何も書いていない卓上カレンダーをじっと見つめたままなのは、頭の中でどうにか出発を遅らせられないかを算段しているに違いなかった。

「運動会、行きたかった?」

 意地悪な気持ちはまったくなく、僕はたずねた。

「……うん。行きたかったわ」

 元気のない声が返ってくる。

「幼稚園に行くの、辛かったんじゃないの?」

 彼女はカレンダーから顔を上げた。穏やかな表情だった。

「嫌よ。大嫌い。あんなところ。本当は風子だって行かせたくないくらい」

 カタリと卓上カレンダーが元の位置に戻された。

「でもね、あなたに風子をお願いして、私が職場に復帰して、そうしてみてわかったの」

 こちらを向いた顔が微笑んだ。

「一番頑張ってきたのは風子だったって。私も必死だったけどね。嫌な思いもたくさんした。それでもやっぱり、風子が一番闘っていたんだって。なんでこんなことに気付かなかったのかしらね。…風子の頑張りを、見てあげたかったなぁ」

「きみが仕事を頑張っていること、風子はよくわかっているよ。運動会に来れなくても、きみが一緒に頑張ってくれているってこと、風子は感じるよ」

「……そうかしら」

「当たり前じゃないか」

 そうね、と彼女は言って髪からピンを数本抜いて息をついた。

 長い黒髪がはらりと背中に散る。

「あなたはもう立派な主夫ね。風子のことも家のことも、ほんとうにありがとう。私も、もっとしっかりしなくちゃね」

 とっさに言葉が出ずにいると、彼女はニッコリ笑った。

「…これで、いいのよね。わたしたち」

「もちろんだよ。僕たちの道は、僕たちで決めればいいんだから。一番いい道を選んだと思っているよ」

 本心だった。

 風子が見せてくれる新しい世界はすばらしい。

 主夫と言う立場が見せてくれる新しい世界は刺激的だ。

「実のところ、サラリーマンをしていたときよりずっと毎日すごいんだ。大変なこともあるけど、それより新しいことを知ることが多くて、たぶん僕はずいぶんと賢くなったと思うよ」

「まぁ」

 楽しげな彼女が、とても愛おしかった。

 そして僕は、僕ら夫婦が少しずつでも前に進んでいると実感したのだ。



 風子はピストルの音で体が動かなくなるようだった。

 大勢の子供たちと一緒に走るのも怖いらしい。

 観客がたくさんいる場所となると、その場にいるだけでも元気がない。

 予想はしていたけれど、運動会というのは風子にとって苦しいことばかりだ。

 風子のことを「闘っている」と妻は言ったけれど、たしかにその通りかもしれない。そしてそんな風子を見ている僕も胸の端が擦り切れる。

 人は誰でも心をわかりあうのは難しい。

 けれど風子のそれは、すりガラスの向こうのように、おぼろげに見えていても手が届かない。心を触れ合せるのは容易ではないし、理解するにはもっと努力が要る。

 だから……たとえば、だれもわかってくれなくてもいい。

 園行事を嫌がる風子が、せっかく運動会には出ると言ったのだ。僕はただただ、帰り道で楽しかったと風子に言ってほしいとそればかり思っていた。

 そのためなら、僕は何でもする。

「そろそろ行くぞ」

 運動会の朝。

 風子の部屋に向かって声をかける。

「うん!」

 せめてもと、妻は風子の運動会用のゼッケンを作っていった。

 園オリジナルのもので、デコレーションは自由だ。

 妻は風子と何やらこそこそ相談していたが、出張前の忙しい時間をぬうように夜遅くまで作業をしていた。完成したのを僕が見るのは今日が初めてだった。

「ほら、パパ、見て!」

 支度を終えた風子の胸に、大きくゼッケンが付いている。

 そこには色とりどりのフェルトで、走っている人が三人描かれていた。

 残念ながら僕にはこういうもののセンスが皆無で、どうコメントしていいのかわからなかったが、なんだか見ているとわくわくするような気はした。

「ふーちゃん、ママ、パパだよ」

 うつむいて胸のゼッケンを指さしながら、風子が説明をする。

「今日は、みんなで走るんだよ!」

 眩しいばかりの笑顔を見ていたら、僕も自然に笑っていた。

「そうだな。みんな一緒だな」

「うん!」

 過酷なばかりでもないのかもしれない。

 少なくとも風子には、他の子には味わえない喜びがあるはずだ。

 いつもよりちょっと頑張った弁当と二本の水筒をカバンに入れて、僕はよしっと気合を入れた。


「パパ、ふーちゃん、こわい…やだ」

 風子が出場する「さくら組全員リレー」で順番を待っているとき、小石で地面に絵を描いていた風子が、ふと僕を見上げて言った。

「ピストル?」

「うん。あと、ぜんぶ」

 こんなときだ。僕が風子を抱きしめてしまいたくなるのは。

「そうか。そうだな。怖いな」

「…うん」

「でも、今日はパパがずっと一緒にいるから大丈夫だよ。走るのも一緒だ」

「いつものみたいに、くっついて?」

「いつもの?」

 はて、と頭の中を探ってみて、そういえば足にしがみついた風子をそのままに移動したことがあると気付いた。

 たまたま洗濯を干していて風子が足にしがみつき、電話が鳴ったのでとりに行ったのだが、たしかにそれが何度かあった。風子にとっては「いつもの」かもしれない。

「いや、あれは……」

 無理だよと言いかけて、ふと口を噤む。

「風子、いつものなら大丈夫なのか?」

「うん」

 小さい声ではあったけれど答えて、風子はこくりと首を縦に振った。

「じゃあ、いつものでいこう。風子とパパだけの作戦だ。頑張ろうな。ほら、ママもゼッケンで一緒だ」

「うん!」

 丸い小さな顔がぱぁっと輝いた。

 そうして、僕らのおかしなリレーは始まったのだ。

 あっという間に順番は来た。僕らは最後だ。

 右足に風子がしがみついている。

 まるでコアラのように。

 園児用のバトンは持ちやすいように輪っかになっていた。

 輪投げの輪のようなそれが、前を走った子供から僕に手渡される。先生から、風子ちゃんのパパに渡してねと言われていたのだろう。とてもスムーズだった。

「いくぞ! 風子!」

「うん!」

 音楽の中を僕は走り始めた。

 とはいっても足に風子をくっつけているのだ。まともに走れるわけがない。せいぜい早歩きがやっとだ。

 大人たちの歓声はぴたりと止んでいた。

 ざわざわと声がする。

 それが温かいものではないことは容易にわかった。

「大丈夫か? 風子」

「うん」

 必死にしがみついている風子。

 懸命に進む僕。

 何が悪い。

 これが僕らの道だ。

 これでいいのよねと聞いてきた妻が脳裏に浮かび、いいに決まってるだろと心の中で僕は叫ぶ。

 半分まで来たときだった。

「ふーちゃん、ふーちゃんパパ、がんばれー!」

 突然、甲高い声が上がった。

 それを合図にしたように、子供たちの応援席からどっと声が続く。

「がんばれー!」

「ふーちゃん、おちるなー!」

「ふーちゃんパパ、がんばれー!」

 叫び声に近い声援に押されるように、僕は走る。

「ふーちゃん、いけー!」

「ふーちゃんパパ、いけー!」

 ゴールの白線を越えたとき。

 きゃーきゃーはしゃぐ声と拍手が起こった。

 園児の席では一人残らず飛び跳ねて、こちらへ手を振っている。

「……風子、すごい声援だな」

 すっかり上がった息でつぶやくと、風子は僕の足から離れてじっとその様子を見ていた。

 僕も、子供たちに目を向けた。

 なんの屈託もない眩しい笑顔が、不覚にも僕の目に水の膜を張りそうで、慌てて唇の内側を噛む。

 先生に促されて風子と一緒にクラスの列に入り、揃って行進して応援席に戻る。

 そこでも風子はきらきらした仲間たちの目に包まれ、ふーちゃんかっこいいと言われてもぞもぞしていた。

「ふーちゃんパパも、かっこよかった!」

「すごい、ちからもちだった!」

 僕にまで、口々に可愛い賛辞が投げかけられる。

 ありがとうと微笑みながら、これがすべての人の心の根っこであってほしいと、僕は静かに願っていた。

 そうであれば、僕は風子を悲観することなどなにもない。

 そうであれば、きっと子供たちは幸せだ。


「ふーちゃん、ぜっけん、かわいい!」

「ほんとだ! すごい!」

 プログラムは進んでいたけれど、風子はまだ仲間たちの優しい瞳の中にいた。

「……ふーちゃんと、ママと、パパだよ。…ママがつくってくれたの」

 小さく言って風子がゼッケンを指さすと、再び「わぁっ」と明るい声が上がった。

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