第10話


第九節 ニューヨークに戻って


 スーの居留地を後にして、わたしはデンバー経由でニューヨークに戻る飛行機に乗った。何時間か経った頃、ミズーリ州上空通過の機内アナウンスが流れた。間もなくミシシッピ川の上空を通るという。

 その昔、先住民はその大半が東部からミシシッピの西側に強制移住させられた。代表的なのはチェロキーの「涙のふみわけ道」である。今わたしはその大河を西から東に越えようとしている。ミシシッピの姿は雲の上からは見えないけれど、わたしの心には先住民の悲痛な叫びが聞こえて来るような気がした。いつの間にか眠り込んでいた。

 眼を覚ますと、飛行機は次第に高度を下げていた。雲の切れ目から地上の風景が見え隠れし始めた。一直線のハイウェイを車が数台疾走していた。

ハイウェイの網目はどんどん広がり、走る車の台数も加速度的に増えていった。機体はさらに高度を下げ、着陸のため大きく旋回を始めていた。その先に黒光りした巨大な高層ビル群が集中する島が見えた。マンハッタンだ。ミシシッピの先住民の叫びは、はるか遠くに消え去り、わたしは眼下に広がる巨大都市の圧倒的な存在に、頭がふらつくような興奮を覚え始めていた。

 飛行機は滑走路に無事タッチダウンし、機内では喚声が起こった。空港に車でわたしを迎えに来ていた妻の運転で、マンハッタンに向かう。都心に入ると、通りの両側にレストランやブティックが軒をつらね、カラフルな衣服に身を包んだ人々が歩道を闊歩している。派手なストライプのネクタイ。白いワンピース。羽飾りのある帽子。Tシャツとジーンズ等々。すっかり見慣れたマンハッタンの風景だが、サウス・ダコタから戻ってみると、また新鮮に見えるのが不思議である。通りではラテン系のミュージシャンが、民族衣装をまとって演奏に興じている。流れる景色の中で、帽子も服も黒でまとめ、髭をたくわえたグループが目にとまった。

 ニューヨークにはユダヤ人( Jew )が多く住んでいる。別名「ジューヨーク」( Jew York )と呼ばれる所以だ。髭のグループはハシディックというユダヤ人で、マンハッタンのお隣、ブルックリンに多い。

 ユダヤ神秘主義というのがある。カバラーという魔法を信奉している。昔ユダヤ人は国を追われ、ディアスポラ(放浪)の民となり、世界各地に住むことになった。

 そのうちポーランドにはユダヤ神秘主義の拠点が出来て、狂ったように踊りまくることで唯一神に対する信仰をつなぎとめようとした一派があった。それがハシディックの起源といわれている。もとは少数派だったが、今では保守派のユダヤ人として多数派になっている。そのことを話したら、「踊り続けてビジョンを見るスー族のサン・ダンスとよく似ているわね」と、妻が言った。

「そうだな。キリスト教にはクウェイカー教徒という一派がある。彼らも身体をクウェイク(揺らす)することで陶酔し、神と和合するらしい」

 車はソーホー地区に入っていた。わたしたちは近くの駐車場に車を預けて、ギャラリーがひしめき合う路上に立った。辺りには都心の喧騒とは違う、落ち着いた芸術的な雰囲気が漂っていた。

 ソーホー(SOHO)はハウストン・ストリートの南に広がる地区で、ハウストンの南(SOUTH OF HOUSTON)の頭二文字ずつを合わせてある。北側の地区はノーホー(NOHO)という。

 オランダ人が住み始めた頃のマンハッタン島は、今世界の金融・経済の中心になっているウォール・ストリートが人の住む北限で、北限を示す文字通りの壁(ウォール)があった。その後、オランダ商人がマンハッタン島の西を流れるハドソン川の水運を利用して北上し、イロコイなど先住民がもたらす毛皮を島の南にある港に運び、本国に送った。交易が盛んになると人口も増え、白人の居住地域もウォールを越えて、島の北部へと広がって行った。ソーホーも居住地域の北上に伴い、開けたところである。

 ソーホー地区の居住者は、時代につれて変わっていった。

最初は貿易商や入植者の白人が中心だったが、奴隷制により新大陸に連れてこられた黒人の末裔が住むようになると、白人はさらに北へ移動した。さらに時代が下ると、今度は黒人も北へ移動し、ハーレムのもとが築かれた。その代わりにソーホーに住み着いたのは、アートを志向する若者だった。

「マンハッタンは色んな顔があるのね。少し行くと全然違う雰囲気になっちゃう。何度来てもおもしろいわ」妻がほほ笑んだ。

 オランダ人がかつて住んだニューヨーク州ウェストチェスター郡スカースデイル。今はユダヤ人などの豪邸が並び立つアメリカの代表的な住宅街となり、一角にわたしたちの住む社宅があった。マンハッタンからはメトロノース鉄道のハーレムラインで、二十分ほどのところにあるが、直に帰らずにソーホーにわざわざ立ち寄ったのは、勤務先でわたしのアシスタントをしているスーザン・フォースティが珍しい人を紹介するという言葉に惹かれたからだった。

 わたしたちはイタリアン・レストランで待ち合わせていた。スーザンは時間通りに、若い男性を伴って現れた。

「紹介します。わたしの友人、ブルース・コリンズです」

 四人はテーブルに座り、注文をしてから話し始めた。

「ブルースは先住民の出身なの。カンサと言って、カンザス州の名の語源になった部族よ」

 スーザンは、わたしがアメリカ先住民を取材していることを知り、この男性に引き合わせてくれたのだが、彼の何処が「珍しい人」なのか、一見してはわからなかった。

 スーザンがわたしの方を向いた。

「ブルースのおじいさんの兄弟はチャールズ・カーティスという人です。名前聞いたことありますか」

「聞いたことはあるが、詳しくは知らないなぁ」

「長く合衆国の上院議員を務めた政治家なの。カンザス選出のね」

「ひょっとして、カーティスさんは合衆国副大統領だった人?」

「あ、正解です!」

「副大統領なら、もしも大統領に万一のことがあれば、大統領職を代行する立場になる。いずれにしてもカーティスさんは、アメリカ先住民として唯一初めて合衆国政権の中枢に昇り詰めたことになる。コリンズさんの大伯父(おおおじ)ということか。いつ頃のことですか。副大統領だったのは」

 ブルースが口を開いた。

「一九二八年、フーバー大統領の時です」

 ドイツ人系アメリカ人アレックス・ジョンソンが、サウス・ダコタのラピッドシティにホテルを創業した年だ。

「どんなことに関わられたのですか」

「ひとつあげるとすれば、彼自身が成立に取り組んだカーティス法という有名な法律があります。この法律はオクラホマに強制移住させられた先住民の自治の道を開いたものとして知られています」

 わたしの脳裏に荒地オクラホマに移住させられたチェロキーの「涙のふみわけ道」が浮かんだ。先住民の悲痛な叫びが聞こえて来るような気がした。

「大伯父は裁判所を連邦政府の手から先住民の管轄へと移しました。オクラホマに白人入植者を受け入れる委員会には、先住民の委員を置きました。先住民の意見を反映させるためです。この委員会は、もともと大伯父が作ったものです」

チャールズ・カーティスは合衆国上院議員の中でも歴史に残る傑出した指導者であった。四十年以上にわたり米国政府と先住民に尽くし、一九三六年二月八日に首都ワシントンで亡くなったと、オクラホマの先住民ビジター・センターで入手した「著名先住民の栄誉の殿堂」(The National Hall of Fame for Famous American Indians)に記されている。


*「民族のサラダ・ボウル」ヘルズ・キッチン


 ブルースらと食事を終えたわたしと妻は、タイムズ・スクウェアーを歩いた。

巨大な街頭スクリーンが、ハンバーガーのコマーシャルを映し出していた。観光客が街の風景をカメラで撮りまくっている。

「今日は珍しい人に会えたから、一味違う九番街に行って見るか」

ミュージカルの劇場が軒を連ねるブロードウェイを越え、四十六丁目あたりを九番街に出た。背の低いビルが軒を連ね、スカイスクレイパー(摩天楼)がそびえる六番街あたりとは雰囲気がまるで違う。エスニック料理の店が目白押しだ。イタリア、ベトナム、ビルマ、台湾、ブラジル、スペイン、キューバ・・・・・・。毎日一軒ずつ入ったとしても、二ヶ月以上はかかりそうだ。 

『ヘルズ・キッチン・デリ』という看板が出ている店に入り、コーヒーを注文した。店のスタッフは揃いのTシャツを着ている。胸にHell’s Kitchen (ヘルズ・キッチン)という文字がプリントされていた。

「すみません。地獄の台所って、どういうことですか」

 わたしはそばにいたスタッフの胸を指して尋ねた。

「これかい? 色んな説があるんだ。元々はドイツ料理のレストランの名前だったとか、昔このあたりはスラム街で犯罪だらけの地獄みたいなところだったからだとかね。レストランに客が押し寄せて、調理場がまるで目が回る地獄のように活気があったからという説もある。それがこの地区に巣食ったアイリッシュ・マフィアのせいで、本物の地獄になり、客足が遠のいてしまったのさ」

「アイルランドからの移民にもマフィアがいたんですか」

「ああ。残忍この上ない連中さ。シシリーからやって来たイタリアン・マフィアと抗争したこともあるくらいだ。金貸し業で、期日にバカ高い金利と借金を返さない奴は容赦無く殺され、死体はバラバラにされた。それからコンクリート詰めにされて海に放り込まれちまった。ジミー・クーナン、それにミッキー・フェザーストーンという最悪コンビが地獄を作り出したんだ。彼らのことを書いた本も出ているよ。この辺じゃ有名だ」

「本のタイトルを教えてもらえませんか」

 わたしは手帳を取り出した。

「T・J・イングリッシュという作家の書いた『ザ・ウェスティーズ』(The Westies)という本だ。それにしても、あんたら、わざわざヘルズ・キッチンを訪ねて来たのか。ご苦労さんだなぁ。ここは毎年五月に、国際フード・フェスティバルという催しが開かれて賑わうんだ。昔みたいにいつも千客万来で、キッチンが忙しければいいと思うがね」

 スタッフはそう言って、胸のプリント文字を引っ張った。

「今度マンハッタン南部に先住民の博物館が出来るのをご存知ですか」

 妻が尋ねた。

「ああ。あのグスタフ・ハイとかいう石油成金が集めた先住民のコレクションだろう? 前はここからブロードウェイを百十丁ほど上がったブロンクスにあったんだ」

「よくご存知ですね」

「そら、情報だけはごまんとあるさ。大都会だからね」

「ヘルズ・キッチンには色んな民族が住んでいるんですね」

「ああ。ここはマンハッタンに乗っかった小さな地球さ。世界中の民族が暮らしているからな。民族のサラダ・ボウルってところかな。少なくとも摩天楼のビル街に比べれば、ここは活気があるし、人情も枯れずにあるさ。違った文化を背負った色んな民族が、ひざとひざをつきあわせて一緒に暮らしている。それが活気を生み出すのさ」

「アイリッシュもそのひとつですね。マフィアは困りますけど」

「その通り。連中の職業はコップ(警官)が多い。ニューヨーク市警はアイルランドに感謝しないとね。連中は毎年三月半ばに、アイルランドの聖人セント・パトリックを祝う大パレードをする。五番街はアイルランドのシンボル・カラーの緑一色になる。壮観だぞ」

「民族毎にパレードがあるって本当ですか」

「ニューヨークの何処かで、毎日何処かの民族の集いがあると思っていい」

 わたしたちはコーヒーを飲み、店を出た。さらに西へと歩き、十二番街でハドソン川にぶち当たった。昔オランダの商人が、先住民イロコイと交易するのに利用した川だ。運搬船が一艘(そう)川上に向かっており、余波が岸に迫って来た。


*民族の匂い

 

 九番街に戻り、少し南に歩くと、通りの角にインディアン対策局の出張所があった。アメリカ合衆国内務省インディアン対策局という正式名称が、看板に見てとれた。

「ちょっとここを覗いてみようか」妻を誘ってみた。

「見せてくれるのかしらね」

 扉を開いて中に入った。事務所の奥にいた男性がちらりと視線を向けたが、すぐに見ていた書類に眼を戻した。小さな展示があった。「インディアン血液証明書」のサンプルが紹介されている。


この証明書は一九五七年五月十七日生まれのボビー・クライド・マーティンが、クリーク族の血統四分の一を持つことを証明する。一九七八年四月三日発行。


 男性が席を立ち、ほほ笑みながらわたしたちのところにやって来た。

「それはわたしのです。クリークというのはオクラホマにいる部族です。チェロキーと同じく、オクラホマの地に強制移住させられた部族なんです」

 ボビーが説明してくれた。

「先住民も、辺鄙な居留地を離れて暮らす人が、今では全体の半分を超えているんです。居留地では仕事も少なく、暮らしていけない人が多いんですね。それで都会に出て働き、他の民族と結婚して子供を儲ける機会が増えます。そうすると、先住民の子どもの血が当然だんだんと薄くなります」

「こんな証明書があるということは、先住民は血統を大事にするってことなんですか?」

 妻が尋ねた。

「血統を大事にすることは、その部族の持って生まれた文化や歴史を大切にしようとすることになり、部族の誇りにつながります」

 ボビーが続けた。

「混血は何も悪いことはありません。人間同士の愛情から生まれる当然の結果でしょ。逆に、権力がこんな証明書を作るのは、先住民を徹底的に管理しようとする策謀の一環だから反対という意見もありますが、証明書を持つことで部族の誇りを忘れないということはあると思います。それが消されようとしている部族の歴史を取り戻そうとする動機につながればいいと思うんですが」

「先住民として自分の部族には誇りをお持ちですよね」

「はい。わたしの妻はヒスパニックで、子供はしたがって八分の一のクリークとなります。クリークは白人に『文明化された部族』と呼ばれました。白人文化を比較的素直に受け入れたからです。逆に言いますと、同化され易かったと言えます。だから、私の場合は伝統的な文化や歴史を維持するという意味で、出来る限り血統を大事にしたいと思っています。だから自分の血液証明書を公開しているのです」

「こんなことを聞いて失礼かもしれませんが、インディアンなどと言われて、差別をお受けになったことは?」

 わたしは敢えて尋ねてみた。

「たとえ偏見の眼で見られても、わたしは一向にかまいません。部族としての誇りを持っていますから」

 ボビーはきっぱりと言い放った。

 わたしはニューヨークに赴任した頃に出会った韓国人のタクシードライバーの話をしてみた。

「彼は夢を抱いて韓国からニューヨークにやって来ました。でも現状を見て幻滅したんです。カリフォルニアで白人の警官が黒人の容疑者にリンチを加えた事件があって、黒人の集団が何故か韓国人に対して鬱積(うっせき)した不満を爆発させたことがあり、大きなニュースになりましたね」

「ええ、よく覚えていますよ。このニューヨークにもその対立が飛び火して、デリカテッセンやフローリストなど、韓国人の商店が相次いで黒人に襲われました。白人には手が出ないからといって、何の関係もない韓国人に矛先を向けたんです。少数派の黒人がはるかに少数派の韓国人に対して理不尽な差別の眼を向けたことになりますね」

「その事件を踏まえて、ドライバーが言ったんです。毎日十時間も十二時間も身を粉にして働かなくては暮らしが成り立たない。それに比べて黒人は働きもせず人のものをねだり、同胞に対して略奪や暴力をふるう。韓国人に対する差別が存在する以上、韓国系アメリカ人は権益を守るため団結しなくてはならない。朝鮮半島の統一だって? 俺にはそんなものは関係ない。国を捨てたんだから、このアメリカで暮らすことをまず考えなくてはねって」

 ボビーが話した。

「皆自分の生活を守るのに精一杯なんだと思います。ニューヨークのような都会は物価が高いし、税金も重い。税金といえば、ソーホーの南にあるチャイナ・タウンは現金商売が多いです。チェック(小切手)やクレジットカードを扱えば、売上が当局に筒抜けになってしまうから嫌うんですが、それがヘタをすれば、脱税の温床になります。それに、民族差別ですが、話をすればキリがありません。人口二億五千万人のこのアメリカ合衆国で、白人はおよそ一億九千万人の多数派です。黒人の人口はざっと三千万人で、少数派です。わたしの妻のヒスパニック人口が最近それを追い抜いた。それと比べても韓国人を含めたアジア系の人間は多くて一千万人ぐらいでしょう。先住民となれば、せいぜい二百万人くらいしかいませんから。多数派が少数派の権益を侵す可能性の高さは昔とちっとも変りません」

 わたしたちはインディアン対策局出張所を辞し、再び街に出た。

「対策局の職員は白人だと思い込んでいたけど、ボビーのように先住民の職員もいるのね」

妻の言葉に答えた。

「特に出張所のように直接先住民の相談窓口になる所には、意識的に先住民のスタッフを置いているそうだ。白人よりも先住民同士の方が、相談にも乗り易いし、立場を理解し易いという配慮らしい」

 南米ペルーの出身者が懐かしい響きの楽器でメロディを奏でていた。 近くの壁にポスターがあった。「クレージー・ホース」という文字が眼に飛び込んで来た。何かと近づいてみたら、クレージー・ホースという名前のモルト・ウィスキーのことだった。次のような酒造メーカーのあいさつ文が書いてあった。


クレージー・ホースは我々の商品であるモルト・リカーですが、その名前を聞いて怒りだす人もおれば、飲んで楽しむ御仁もいる。また全く無視するお方もいる。

しかし、それがアメリカという存在なのじゃないでしょうか? 選択の自由という意味で。

 

 わたしたち、今度はイタリアン・レストランが軒を連ねる街を歩いていた。リトル・イタリーである。通りにテーブルが出て、大勢のイタリア人がサンドウィッチやパスタを食べながら、話し込んでいる。楽隊が演奏しながら近づいて来た。トランペットの音色が青空に吸い込まれてゆく。店を覗くと、奥の壁に大きな木製のカジキマグロが掛かっていた。イタリアの俳優の写真がこちらを見て微笑んでいる。シシリーからこの大都会にやって来たマフィアも客筋にいるに違いない。彼らはこの街でヘルズ・キッチンのアイリッシュ・マフィアと対決したのだ。

 しばらく行くと、チャイナ・タウンに出た。モット・ストリートという標識が掲げられたアーケード街があった。この辺りは当然ながら中国人の姿が目立つ。店の軒先に豚の頭や足が幾つもぶら下がっている。大きな包丁を持った職人が豚肉をさばく音。食材を売る店からは、買い物客のざわめきが聞こえて来る。漂う蒸し饅頭の匂い。早口で飛び交う耳慣れない言葉。その響き。銀行の前の長い列。行き交う車のクラクション。新聞売りの声。

 わたしたちは民族の匂いを嗅ぎながら、車を預けた駐車場に向かった。


*追悼・マルコムX

 

 一週間後、ハーレムの中心百二十五丁目で地下鉄を降り、地上に出ると、そこには黒人の街が広がっていた。風に吹かれて紙屑が舞っている。アポロ劇場の前に人だかりがあった。マルコムXのドキュメンタリー映画の試写会が開かれようとしていた。スパイク・リー監督がマスコミのインタビューを受けている。いつか写真集で見たマルコムの眼鏡の奥に潜む鋭い眼や、アジ演説で白人をこきおろす大きな口が思い浮かんでいた。隣の教会前では、黒人女性のグループがゴスペルの練習をしていた。褐色の肌に真っ白な衣裳をまとった女性の発散する息と汗が、魂の叫びとなって辺りに飛び散って来るような気がした。

「アフリカン・アメリカンの生命力が溢れているわね」

 妻はゴスペルの調べに耳を傾けていた。

「彼らはアフリカン・アメリカンで、先週インディアン対策局で出会ったボビーはネイティブ・アメリカンか。アメリカ人と、とても一言でくくれないな。余りにも多様だ」

「本当にそうね」

 歩き出そうとすると、若い黒人女性が声を掛けて来た。

「お二人さん、マルコムXの試写を見ない? わたし急用ができて見られなくなっちゃった。ティケットが無駄になるのであなた方にあげようと思って。一枚で二人入れるの。ゴスペルを興味深そうに聞いていたでしょ? だから黒人問題にも関心があるのではと思ったから」

「ありがとう。折角だから見せてもらおうか」

「そうね。そうしましょう」

 ティケットを受け取り、劇場の中に入った。客は圧倒的に黒人が多かった。試写が始まると会場は静まり返ったが、映画の中でマルコムが白人を打ち負かすと、拍手喝采の大騒ぎになった。

(マルコム死すとも、今も熱狂的な支持は続く、か・・・・・・)

 何だか胸が熱くなった。ブラック・ムスリム(黒いイスラーム)の組織の内紛で追い詰められたマルコムが、危険を感じて家族を安全な場所にかくまうシーン。鳴り響く脅迫電話を不安な顔で見つめるマルコム。演説会場で襲われ、何発もの銃弾を浴びて絶命するシーン。エンディング・テーマが高らかに流れ始めた。観客は総立ちになり、万雷の拍手を送った。

 会場を出ようとした時に、テレビ局のクルーがカメラを向けた。

「映画の感想を一言お願いします」

 わたしは突きつけられたマイクに向かって言った。

「マルコムは、聖地メッカにあるモスクを訪ねた時に、神の前では人間は全て平等だと悟りました。原点に立ち返って、いよいよという時に暗殺されたのですよね。そういう意味で悲劇だと思います。マルコムにもっと生きて欲しかった。そして社会を正して欲しかったと思います。マルコムは黒人だけでなく、もっと広い意味での人間のあり方を追究するために殉教したのだと思います。彼の生命を奪った悪を憎みます」


*ネイティブ・アメリカンの新殿堂


 一九九四年十月三十日は、国立アメリカン・インディアン博物館 (National Museum of the American Indian )の一般公開が始まった日だ。先立って行われたプレス発表の日に見に行った。同名の博物館は首都ワシントンでも運営されているが、ここではニューヨークの新殿堂をご紹介する。

 博物館に収蔵・展示される先住民コレクションの母体は、ニューヨークの銀行家ジョージ・グスタフ・ハイという人物が、南・北アメリカ大陸を隈なく旅行し、六十年ほどかけて収集したもので、世界で最も包括的で優れた先住民文化財のコレクションである。収められたオブジェは百万点に上り、八万六千点というプリントとネガの写真アーカイブが含まれている。

 ハイ・コレクションはニューヨーク・ブロンクス区のブロードウェイ百五十五丁目に、一九一六年ジョージ・グスタフ・ハイによって創設された私設の「アメリカン・インディアン博物館」(The Museum of the American Indian / Heye Foundation ) に展示されていた。

 今回新展示室となったジョージ・グスタフ・ハイ・センターは、自由の女神行きのフェリーが発着するマンハッタン南部・バッテリーパーク近くの記念碑的建造物、アレキサンダー・ハミルトン旧税関ビルに収められている。

 博物館はワシントンにあるスミソニアン財団が管理するとあって、式典には民主党の大物上院議員も姿を見せていた。アラスカから来演した「エスキモー」グループのダンスなどが行われた式典後、展示品を見て回った。

「スー族のパイプがあるわ」

 妻が目を凝らしながら展示品に近寄った。

「シッティング・ブルのパイプもあるのかしら」

「スー族のパイプ・コレクションは展示の中でも主要なもののひとつだ。かなり充実していると聞いているよ。」

 隣に居たお年寄りが会話に加わって来た。

「グスタフ・ハイが金に糸目をつけず、買いまくったんだろう。本来はスーの遺産として地元の資料館に展示されるべきものだ」

「わたしは日本人ですが、お宅は?」

「オグララ・スー族出身です。今日の式典に招待されて来たんです」

「そうでしたか。でも、当時は白人の侵入で戦乱も続いていたし、地元には今のように資料館がなかったから、貴重なパイプも何処かに失せてしまったかも知れません。ハイのお陰とまでは言わないけど、結果的に残ったことはよかったのかも知れませんね」

 スーのお年寄りは眉間にしわを寄せて、わたしを見た。

「本末転倒の考え方ですね。これらのパイプは元々われわれスーの伝統的な聖具ですから、どんな経緯があったにせよ、本来の持ち主に返されるのが筋だと思います。それを地元で資料として保存し、活用して消されつつあるわれわれの歴史を取り戻すことに役立たせるのがいいと思います。如何でしょうか」

 お年寄りはそう言い終わるとわたしの表情を探った。

「おっしゃる通りですね。申訳ありません」

 わたしは自分の言を恥じ入った。お年寄りは安堵の表情を浮べていた。

「さあ、今日は新しい先住民博物館の披露の日です。新しい門出を祝おうじゃないですか」

お年寄りは晴れ晴れとそう言って、元気なステップで歩き始めた。

 今回の博物館の基本的な構想には、二十三人の先住民の職人と部族長が深く関わったとのことで、展示の第二セクションでは、彼らが膨大なハイ・コレクションの中から三百点を精選し、作品の意義をそれぞれ自分の言葉で語っているのをパネル展示してあった。例えば、北アメリカからは、工芸品にまで高められたバスケットの製作工程についてカリフォルニアの先住民ポモ族のスーザン・ベリーが語り、南アメリカからは古代の狩猟の儀式をボリビアの織物作家ボニファキア・フェルナンデスが語るといった具合だ。

 収蔵されている芸術・工芸品は必要性があれば、展示から切り離して部族に返還されることもあるという仕組みを取り入れているのが特徴だ。

 式典で、ある部族のものと判明した遺骨を入れた器が、コレクションから切り離されて返還されたのがその実例である。むやみやたらに収集されて来たもののうち重要な遺産を、本来の所有者あるいは出自の後継者に返還してゆけば、遺産が部族の手元に戻ることになり、「先住民博物館」と先住民の新しい関係が築かれる。先住民は自らのアイデンティティとなる貴重な歴史を取り戻すことになるのだ。 

 新殿堂は、北米のみならず、中南米とカリブ諸島まで先住民の対象を拡大した「南・北アメリカ大陸とそれを囲む海洋と諸島、すなわち西半球に属する全ての先住民の歴史的な遺産を総合的に収蔵し、展示するミュージアム」になっている。

 アメリカ先住民の芸術・工芸品のコレクションとしては最大のもので、南・北アメリカ大陸の先住民文化千二百以上を網羅し、収蔵品は一万二千年以上の歴史を超えて、その数、八十二万五千点に上る。作品の約六十八%はアメリカ合衆国出自のもので、以下南米(十一%)、メキシコと中米(十%)、カリブ諸島(六%)それにカナダ(三・五%)と続く。収蔵品は作品本体の他、一八六○年から現在までの写真類が約三十二万四千枚、映像フィルムやAVコレクションなどが約一万二千点、それに一八六○年代からの紙資料アーカイブは、積み上げれば約五百メートルの高さになるといった具合だ。

 さて、ここで新しい博物館の全体的な構成や将来像などについて、ざっとした感想を率直に述べてみたい。最初に見て回った時の印象を、わたしは次のように記していた。


展示の見やすさだが、合衆国先住民については、まとまり良くコンパクトに展示されていたブロンクス時代の方が、全体像をつかむのにはわかりやすかった印象である。式典での民族衣装の披露とダンス、演奏もそうだったが、展示の方も極北に居住する先住民について「北米全体のバランス」を配慮し過ぎたのか、やや目立つ形の展示内容だった感が否めない。北米先住民ならば、イヌイットまで含めるのは当然なのだが、「均等性」や「平等性」を意識し過ぎたのか、却って生き生きした全体の展示効果を薄めているような気がした。


 それはあたかも日本とは特殊な歴史的経緯があり、しかも定住外国人である「在日コリアン」の問題を、一般的な「在日外国人」というくくりで、他の国籍も含めた一括的な問題として捉えれば、却って在日コリアン独自の問題点や視点が希薄になってしまう恐れがあるのと似ている。

 同様に、先住民文化が北米以上に色濃く残る中南米まで含めての展示は、正直わたしにとって余りにも全体像が広がり過ぎて、却ってアメリカ合衆国に暮す先住民の特色、その独自性が薄められてしまう気がした。

 しかし、それは恐らくわたし自身が北米、しかもアメリカ合衆国という限られた範囲で取材して来た頭で感じてしまう「違和感」であろう。


 わたしの第一印象はさておき、振り返ってみれば、国立アメリカン・インディアン博物館というのは、《多民族が住む小さな地球》であるニューヨーク・マンハッタンに新設された先住民博物館であるからこそ、南・北アメリカ大陸という視点で先住民を捉えることを任としていると理解すべきなのであろう。

 そう考えれば、最初わたしが経験した「違和感」も、取材を次の段階に進めて、先住民、ひいては少数民族の本質にさらに迫ってゆくための道しるべとなるのでは、と思うに至った。

 もうひとつ気になった点は、国立アメリカン・インディアン博物館 ( National Museum of the American Indian ) という新博物館の名称だ。

 それは、コロンブスから五百周年を迎えた一九九二年を契機に、先住民が「わたしたちはアメリカン・インディアンではない。ネイティブ・アメリカンだ」というスローガンで、白人の手から自らの歴史を取り戻すキャンペーンを始めたことの象徴性に矛盾しているのではなかろうかということである。何故「ネイティブ・アメリカン」という言葉を採用しなかったのか。

 この点について、博物館リソース・センターのエレン・ジェイミソンさんは、わたしのエアメールへの返信で次のように答えている。

「一九九○年、ハイの私設博物館がスミソニアン財団に移管された当時、博物館で勤務していました。わたしの知る限り、財団は新博物館の名称については、世界中の人が名前を聞いて、すぐどんな博物館なのかわかるというのを最大のポイントにしていたのです。すなわちそれまで使われて来た「アメリカン・インディアン」と聞けば、(たとえそれが誤解を招く意味を含む言葉であれ)誰を指すのかはすぐわかりました。ところが、『ネイティブ・アメリカン』は確かに当時、先住民を表す言葉として登場し始めていましたが、まだ世界的には誰にでもわかるほど熟した言葉ではないと財団が判断し、不採用になったのです。財団は、わたしが勤めていた前の博物館の名称である『アメリカン・インディアン博物館』に National(国立)という一語を加えただけで新博物館の名称にしました。それは、すでに良く知られていた名称を重んじるとともに、その博物館を引き継いだのは、スミソニアン財団であるということを明白にしたかったからと話しています。何故なら、寄付以外は、運営資金が連邦政府の財源で賄われていることから、現在十九ある財団の博物館の名称には、全て国立という文字が入っているからです」

 博物館の回答には、名を捨てて実を取ったような印象を受けたが、ホームページや手紙に同封されていた最新の博物館パンフレットには、「ネイティブ・アメリカン」と同等のNative peoples of the Americas(南北アメリカ大陸の先住民たち)などの言葉が使用されており、博物館の名称には不採用になったが、今や「ネイティブ・アメリカン」という言葉が実質的に使用されていることが確認出来た。

 今後の博物館であるが、ネイティブ・アメリカンのその時々の現状を踏まえた将来への展望を示す新しい演出がなければ、単なる「過去の遺物の展示場」になってしまう恐れがあると言えよう。消え去ろうとしている部族の歴史を自らの手に取り戻し、生活の息吹や熱気などが皮膚感覚を通して伝わって来るような展示ができるのは、演出の担い手であるネイティブ・アメリカン自身であり、そのような方向での運営がなされることを望みたい。


                                     完

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『歴史を取り戻す~先住民ネイティブ・アメリカンの闘い』 安江俊明 @tyty

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