第2話

第一節 女性首長が語るチェロキー族の軌跡


 アメリカ合衆国東部十三州に住む白人入植者のために土地を確保し、眼の上のたんこぶである先住民を法の名において荒野に追放しようという「インディアン強制移動法」が一八三○年成立した。その法が適用され、一八三八年チェロキー族がオクラホマの居留地に向けて死の行進を強いられたのである。

 わたしはチェロキー族を訪ねて、一九九四年八月末、居留地にあったネーション(国家)の首都タレクワにいた。部族本部の入り口にはアルファベットのCWYに似た「チェロキー語」という意味のチェロキー文字が白くペイントされた褐色の石碑があり、森林に周りを取り囲まれた国家は静寂に包まれていた。その静けさに包まれていると、あの悲劇的な運命をたどった部族のゆかりの地に身を置いているとは、とても想像できない思いがして来る。

 歩を進めると、チェロキーの文化と歴史を伝えるチェロキー国立博物館があった。博物館の周りには屋根を樹皮で葺いた丸太小屋が建てられ、造りは窓なしでドアは一箇所のみ、屋根の下に煙を抜く穴が二つ開いているというスタイルである。

 これが典型的なチェロキーの住まいという説明だった。小屋の傍には、西部開拓史に登場するような馬車が置かれ、小屋の壁には馬具や工具がぶら下がっていた。

博物館を覗くと、黒光りした重厚な輪転機が眼に飛び込んできた。機械に新聞が掛かったまま展示されている。一八二八年二月にアメリカ先住民が創刊した史上初の新聞『チェロキー・フェニックス』である。先住民が持つ唯一の文字(チェロキー文字)で印刷され、記事は英語と併記の形になっている。

文字を創ったのはチェロキーのセコイアという人物で、一八二一年のことだった。

 セコイアは銀細工師であり、白人との交流が多かったため、白人の「アルファベット」に強い関心を抱いたのが「文字創造」の動機となった。

八十五の音節文字で、使いやすく、覚え易かったため、七年後に新聞が創刊されるほどチェロキーの間で急速に普及した。余談ながら、アメリカ西部に自生する常緑針葉樹で、百メートルほどの樹高になるアメリカスギのセコイアは、彼の名前を採り命名されている。

 チェロキーは周辺の先住民チカソー、クリーク、チョクトー、セミノールと五大部族連合を結成し、白人の文明を受け入れたことで、「文明化五部族」(Five Civilized Nations )と呼ばれたが、それでも白人との長い苦しい戦いが続くことになる。

 一九六九年十一月、サンフランシスコ沖に浮かぶアル・カトラズ島が、先住民の若者らに占拠されるという事件が起きた。そこは昔連邦刑務所があった孤島で、シカゴギャングの大親分アル・カポネが収監されたことでも知られている。当時は厳しい監視体制と島を取り巻く速い潮流で、島からの脱走は不可能とされていた。

 若者の要求は、先住民に対する連邦政府の不当な差別と土地収奪に抗議し、その根本的な是正を迫るものであった。

当時は、アメリカがベトナム戦争の泥沼に陥り、厭戦気分が若い世代を中心に蔓延し、反戦運動が世界的な規模で展開されていた。先住民の武装組織アメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)が、北東部ミネソタ州で旗揚げした時代である。

 それまでワシントンと先住民の間で締結された諸協定には「使われていない連邦政府の土地は、全て先住民が利用できるように返還しなければならない」という条項が盛り込まれていた。

 ところが、この条項は悉(ことごと)く無視されていた。アル・カトラズ島の占拠は政府に対し、返還されない土地は元々先住民のものであり、約束を履行して土地を返還するように要求したのである。

 意表をついた先住民の若者の行動は、マスメディアに取り上げられ、白人の中にも共鳴者が生まれた。騎兵隊による先住民シャイアン大虐殺を題材に、加害者としての白人を描いた映画『ソルジャー・ブルー』の主演女優キャンディス・バーゲンも、若者を支援するため、ひょいとナップサックを肩に掛けてアル・カトラズ島に渡ったのである。

 島を占拠する若者の中には、後に女性として初めて先住民チェロキーの首長になるウィルマ・マンキラー(Wilma Mankiller)がいた。マンキラーは英語で「人殺し」という意味になるが、チェロキーの言葉では位や肩書きを表す。

 一九九五年三月二十八日、ウィルマはニューヨークにあるアメリカ自然史博物館での講演の冒頭で、自らの姓について話し、聴衆を沸かせた。

「ある時、ショルダー・バッグを持って飛行機に乗ろうとしたの。すると、空港職員が慌ててわたしに駆け寄り、制止されたことがあったの。理由を尋ねたら、バッグにプリントされていた「人殺し」が問題だと言うのよ。だって自分の正真正銘の名字だもの。仕方ないわよね。何度かそんなことがあって面倒だったわ」

 わたしも聴講した講演で、ウィルマはチェロキーの歴史と自らの体験を語った。以下は、その要旨である。

 

チェロキーの故郷は、北方のカナダからアメリカ南東部にかけて二千六百キロにわたり続くアパラチア山脈の南部にあります。聖山スモーキー・マウンテンの名はお聞きになったことがありますか。州で言えば、南・北カロライナ、アラバマ、それにバージニアなどに当たります。

一六二○年、白人移民がヨーロッパから帆船メイ・フラワー号に乗って、この大陸にやって来ました。彼らは、慣れない土地で食糧の確保さえままならない時期がありました。我々の祖先は彼らの窮状に配慮して、栽培したとうもろこしを友好の証として差し出したのです。

ところが、白人は苦難から彼らを救い上げたのは、眼前の先住民ではなく、自らが信仰する神、すなわちキリストであると理解したのです。白人の眼からは「食糧を神の代わりに手渡した異様な姿をした蛮人」の存在は消え去り、心では天を仰ぎ、生きる糧を与え給うキリストに対する感謝の念であふれた訳です。

この時点で、既にその後の大きな認識のズレが生じていました。

「インディアンはキリスト教徒ではない。従って人間として扱う必要はない」

そう言い切って、白人は先住民に暴力をふるい、奴隷として酷使したり、殺害したりしたのです。

運命の神は暴力に加え、病魔という災禍を先住民にもたらしました。ヨーロッパで蔓延していた伝染病を白人が持ち込んだのです。伝染病は免疫のない先住民の間にまたたく間に広がり、多くの命が奪われました。天然痘やペストといった恐ろしい伝染病だけではなく、ヨーロッパの人間なら簡単に治る麻疹(はしか)のような病気さえ、先住民にとっては致命的な病だったのです。それほど大西洋は、白人がやって来るまでは自然の大きな防波堤の役割を果たしていたのです。

アメリカ独立戦争でチェロキー国家は、それまでの経緯からイギリス側に付きました。

しかし、チェロキーの村々はアメリカ独立派の攻撃にさらされていたため、独立派と平和協定を結ぶ必要に迫られたのです。協定でチェロキーは、サウス・カロライナなど国家の主要部を白人に割譲することになりました。これに反対したチェロキーは、国家から離脱し、独立派との敵対を続けました。

イギリスとアメリカ独立派という白人同士の決戦に巻き込まれ、翻弄されていたチェロキー国家は、イギリスが敗退し、アメリカ合衆国が独立した後の一七八五年になって、アメリカと初めての条約を結びます。ホープウェル条約です。これにより、チェロキー国家は合衆国の保護下に置かれることになりました。

又、チェロキーが割譲した残り全ての土地については、別の条約が結ばれ、チェロキーの土地に対する権利が保証されました。

ところが、その保証はいつの間にか無視され、アメリカ政府は色々と口実をつけては、チェロキーや他の先住民の土地を奪い取っていきました。

その究極の形が「インディアン強制移動政策」です。その内容は、東部にある先住民国家を当時の合衆国版図の外に追い出し、かつミシシッピ川以西に強制的に移動させようというものでした。

これを基に「インディアン強制移動法」を成立させたのが、第七代大統領アンドリュー・ジャクソンです。ほら、二十ドル札に肖像がありますね。あの大統領です。

ジャクソンは一八一二年の第二次英米戦争でイギリスを破り、新大陸からイギリスを撤退させた人物で、アメリカにとっては国民的英雄です。ジャクソンのせいで先住民国家は頼みのイギリスを失い、アメリカが自らの意のままに先住民政策を推進できるようになってしまったのです。

強制移動法の狙いは、合衆国東部十三州に住む白人入植者のために土地を確保することにあり、そのために眼の上のたんこぶである先住民を法の名において、荒野に追放しようというものでした。

族長ジョン・ロスら当時のチェロキーの指導者は、ジャクソンの後継者となった大統領マーチン・バン・ビューレンに直訴し、チェロキーが自主的にミシシッピ川以西に移動するのを認めるように要請しました。

大統領はこれを認め、一八三八年から翌年にかけて移動が開始されたのです。およそ千三百キロにも及ぶその移動は、後の時代に「涙のふみわけ道」(Trail of Tears) と呼ばれ、関係者の胸に深く刻み込まれることになります。

ここで、その移動を監視するためにチェロキーに同行したアメリカ騎兵隊の白人兵が書き残した記録をご紹介したいと思います。彼の名はジョン・バーネットです。ジョンは少年時代をチェロキー国家があった聖山スモーキー・マウンテンで過ごしました。チェロキーと慣れ親しみ、愛着を感じていました。ジョンは成人して軍隊に入り、運命のいたずらでしょうか、チェロキーの強制移住に監視役として立ち会うことになったのです。

 

  こぬか雨で体が凍りつく十月の朝。

  私は、彼らがまるで家畜のようにぞんざいに、多数の荷馬車に詰め込まれて 西に向かうのを見た。 追放のふみわけ道には、死の臭いがつきまとっていた。

  夜には窮屈な荷馬車の中で、あるいは火の気のない土の上で体を横たえるけ。凍る寒さにさらされ、肺炎で次々に亡くなっていった。

  族長の妻で、気高い心を持った婦人も、病で苦しむ子供にたった一枚しかない毛布を分け与え、自らは天に召された。眼が開けられないほど降り続く霙(みぞれ)と雪嵐の中を、来る日も来る日も荷馬車に揺られ続けた果てに。

  ようやく、半年もの辛くて長い旅は終わったが、スモーキー・マウンテンの麓から、オクラホマの荒野まで、四千人余りの墓が静かに涙のふみわけ道に並ん  だ。

  チェロキーの人々をこれほどまでに苦しめた全ての原因は、他ならぬ白人の強欲である。


 一八六一年、合衆国を真二つに引き裂く南北戦争が起こります。奴隷制に立脚した南部は、強大な北部に対抗するため、チェロキー国家に支援を求めました。族長ジョン・ロスは白人同士の殺し合いに巻き込まれまいと、必死に中立の道を歩もうとしますが、チェロキーの立場は微妙でした。

 それは、恥ずかしながらチェロキー国家は奴隷制を認めており、しかも南部に位置していたからです。自らも奴隷を所有していたジョン・ロスは、結局南部と同盟を結んでしまいました。しかし、北部を支持する勢力もあり、チェロキーは再び分裂します。

 足かけ五年にわたる戦争は、北部の勝利に終わりましたが、双方あわせて六十二万人余りの犠牲者を出しました。

 北部中心のアメリカ政府は、南部を支持したとして、チェロキーなど五部族を罰するため、オクラホマの荒野の西半分を取り上げる協定を受け入れさせました。オクラホマの荒野、インディアン・テリトリーは、白人移民の大幅な増加に対応するため、先住民を集中的に強制移動させる場所に使われていました。故郷を追放されて、やっとたどり着いた地を再び取り上げるというのです。

チェロキーと共に荒野に追いやられた先住民にはクリーク、チョクトー、チカソーそれにセミノールの四部族がいますが、この時代の強制移住とは形を変えた移住政策が、一九五○年代半ばに先住民に押し付けられたことがあります。それは先住民を居留地から都市に移動させるアメリカの政策でした。

 私が十一歳の頃、我が家もその政策でチェロキー第二の故郷オクラホマを離れ、サンフランシスコに移住しました。

 実は、それが我が家の「涙のふみわけ道」の始まりだったのです。都市に移れば、いい仕事があり、子供は立派な教育を受けることができるというインディアン対策局の役人の言葉を信じた父親が決断したのです。

政府のとった方法は、強制移動の頃と比べますと、はるかに温和なものでしたが、巧みに先住民の固有の文化や伝統を破壊し、白人に同化させようとする手口に変わりはありませんでした。

 私はオクラホマを離れたくなかったのです。母親も都市への移住に恐怖心さえ感じていました。でも、出発の日はやって来ました。私はこれで見納めだと思い、家族で住んだ家、まわりの木々の形、森から聞こえてくる鳥や動物の声など全てを記憶に留めて置こうとしました。ひとつでも故郷のことは忘れたくなかったのです。

サンフランシスコに到着しましたが、あいにく空きのアパートがなく、二週間ホテルに足止めになりました。ホテルとは言っても、裏町の古いホテルです。夜になると周辺はネオンの巷となり、けばけばしいドレスを着た売春婦が通りに立ち、男を誘っていました。

 故郷では犬、コヨーテ、山猫、フクロウなどの声があたりに木霊(こだま)していました。全て自然の音色です。ところが、そこでは車の騒音など、耳慣れない音ばかりが飛び込んできます。パトカーや救急車のサイレンは最悪でした。今まで聞いたことさえなかったのです。

 ある日、弟と階段のそばに立っていました。すると、そばに人々がやって来て、皆壁の前で立ち止まりました。何をしているのかと様子を窺っていると、突然壁が開き、立ち止まっていた人々が皆壁の中に入っていきました。すると、壁が閉じて人々の姿が消えてしまいました。驚いていると、今度は又壁が開き、別の人々がそこから出てきました。これがエレベーターというものでした。壁の中にあるボックスで、人間が上下に移動するなんて私たちには信じられないことでした。

インディアン対策局は、ようやくわが家の定住先を見つけました。父も近くの工場で仕事に就きました。でも、父ひとりの給料では都会での家族の生活はままならず、兄も一緒に働きました。

 私は学校が嫌でした。先生が私の名前を呼ぶと、クラス全員が笑いました。マンキラーは、英語では「人殺し」(Mankiller)という意味になりますが、故郷では何も珍しい姓ではありません。でも、ここでは事情が違うのです。話し方や服装も、からかいの対象でした。それは私が他の生徒よりも貧しいからではなく、違う文化を背負っているからでした。

 故郷を離れ、都市にやって来た他の部族の人々が私のまわりにもたくさんいました。精神的な疲労、健康状態の悪化などで皆悩んでいました。全てが故郷の地域社会や家族から切り離され、ストレスに囲まれた都会の生活に身を置いているのが原因だと、後になって知りました。

 それでも、私たちが受けた試練は、一八三○年代にチェロキーの先達が遭遇した「涙のふみわけ道」に比べれば、全く大したことではありません。

 私たちの場合は、雪嵐の中を何百マイルも歩かされることはありませんでしたから。それに移住はあくまでも自主的なもので、強制された訳ではなかったのです。

 しかし、共通点はあります。都会で纏(まと)わりついた疎外感は、涙のふみわけ道を通り、ようやくたどり着いた荒野で先祖が感じたであろう疎外感と同じものだったでしょう。

 都会でのあからさまな差別は辛いものでした。人種的な偏見を肌で感じたことがあります。ある日、婦人が私たち一家に近寄って来て、突然母を指差して言いました。

「あんたの子どもは、皆黒んぼの子どもだ」

そう吐き捨てるように言うと、今度は母のことを「黒んぼの愛人」と呼んだのです。それは父の肌の色が褐色だったからだけのことです。

 いつもは穏やかな母が、凄まじい剣幕で抗議したため、婦人は飛び去るように逃げて行きました。

 私たちに偏見を持っている人々は、この婦人のようにあからさまに言うことはなく、私たちのいない所で悪口を言うのです。こんな単純な差別だけではありません。

 一八五○年代、すなわちゴールド・ラッシュ最盛期の頃のカリフォルニアでは、大挙して押し寄せた白人移民らが先住民の女性を強姦し、大半を死に至らしめたといいます。妾になるように強要された女性も何千人といました。誘拐されて奴隷に売られた先住民の子どもは、約四千人にのぼります。

 先住民はまるで動物のように白人の狩の餌食にされました。

 カリフォルニアでは一八七○年まで、先住民の頭皮や切り落とした首に奨励金を支払うという社会があったのです。民主主義を標榜し、自由で夢の地という看板を掲げたアメリカのカリフォルニアで、このような蛮行がつい最近までまかり通っていたことを忘れてはなりません。

 聖書には「全てのものには、最も輝く季節がある」というくだりがあります。私の一番好きな言葉です。アル・カトラズ島を同志と占拠して、先住民に対する差別や偏見と闘っていた若い日の私は、もういません。

しかし、これからも一先住民としての矜持(きょうじ)を持ち、私なりの人生の旅を続けようと思います。

 ご清聴ありがとうございました。

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