ダンボール・リボーン ~風子とパパの日常2~

新樫 樹

ダンボール・リボーン

 辛そうな妻の顔を大丈夫だからと見送り、ドアが閉まったのを見届けてからリビングに戻ると、風子はまだ部屋のすみにうずくまっていた。

 幼稚園のカバン、帽子、ハンカチ、ポケットティッシュ…。

 点々と風子へと続く道しるべ。

 なんと声をかけようか。

 いや…もう少し、そっとしておいた方がいいだろうか。

 毎朝の恒例行事はいつもよりちょっと早く始まってしまったせいで、幼稚園に行きたくないと大騒ぎする風子を、はからずも妻も見ることになってしまった。

 話だけはしていたけれど、実際に目にしてみるとかなりのショックだったのだろう。妻は苦しそうに顔をゆがめて胸に両手を当てたまま立ちすくんでいた。

「いつものことだ。僕に任せて。もう時間だろう?」

 妻に謝罪の言葉は言わせたくなかった。

 ここに謝らなくてはならない人間はひとりもいない。



「ヘンゼルとグレーテルみたいだな、風子」

 風子が放り投げていったものをひとつずつ拾い上げながら歩けば、壁際とソァーの隙間の小さな塊にたどり着く。

 今日は大好きなピンクの服でも太刀打ちできなかったなと、パステルカラーの花柄を眺めた。

 さて、次はどうするか。

 時計はまだ7時半。今日は園バスをキャンセルするとして、8時40分に車を出せば間に合う。あと1時間10分。

「風子、今日の給食は…」

 風子の好きなカレーだぞと言いかけて、口をつぐむ。

 さらにきゅっと固くなった背中に気づいたからだ。

『まぁ、いいか』

 口の中でつぶやく。

 主夫になってから習得した僕自身への呪文は、なかなかの効果がある。

 小さいのにやたら良い耳に気付かれないように、そっとひとつ息をついてから、手を伸ばして頭を撫でた。

 そしてもう一つの呪文は、風子に絶大な効果がある。

『今日は行かなくていいよ、風子』

 ぱっと上がった丸い顔には安心した柔らかな表情が乗っていた。

「出ておいで。体、痛くなっちゃうぞ」

「うん」

 前に出した僕の手につかまって、パステルピンクの花柄はひょいと飛び出すと、そのままおもちゃ置き場に突進していった。

 これでいいのか、僕にはわからない。

 甘やかしているんじゃないかと言われたこともある。

 そうだろうかと思わなくもないが、大人だって毎日ぎりぎりの頑張りを強いられ続けたら壊れてしまう。子どもならなおさらじゃないかと思った。

 それに…僕の背丈なら楽に越えられる壁も、風子じゃ手も届かない。

 なら、手の届きそうな壁を見つけてあげるしかないんじゃないだろうか。

 正しい答えはまだ深い霧の中で、ちっとも見えてこないけれど。

 今の僕にはわからないことだらけだ。

 小さなオフィスの中で、世の中のことは大抵知ったつもりでいた昔の自分を、ひどく気恥ずかしく思い出すことがある。



 午後の宅配で届いた大きなダンボールに、風子がきらきら目を輝かせた。

「ちょーだい! これ、ふーちゃんにちょーだい!」

「いいよ。荷物を出したらな」

「うん!」

 伝票をはがしてガムテープを切ると、圧縮されたマットレスが現れる。

 三人で寝るには狭くなってきた風子のために買ったシングルのマットレスだ。

 風子は中身には目もくれず、空いたダンボールを一生懸命持ち上げて運んでいる。目的地はリビングのようだった。

 無事に運び終えたらしいのを見てから寝室にマットレスを運ぶ。

 分厚いビニールの袋を破って取り出していると、パパーと声がした。

「どうした? あれ…風子?」

 リビングに足を踏み入れると目の前にあのダンボール。

 風子はどこにもいない。

「風子?」

 もしやと閉じているダンボールの蓋を開けると、中にはにこにこ上機嫌の探し人がいた。

「パパ。ふーちゃん、あかちゃんになるから、ひろって」

「え?」

「パパはふーちゃんをみつけて、ひろってかえるの」

 ええと…。

 だいたいの風子の遊びには慣れてきていたが、思いもかけない遊びを説明されて言葉も出ない。

「…わかった」

 とりあえず返事をすると、風子はダンボールの蓋を元通りに閉める。

 すると、おぎゃーおぎゃーと箱の中から声がし始めた。

 なるほど赤ちゃんが泣いている。

「おや、赤ちゃんの声がするなぁ。どこから聞こえるんだろう」

 こういう時の風子は僕の本気度を察するセンサーを持っている。

 だから僕は、誰にも見せられない…というよりも、絶対に見せたくないクサい芝居を本気でする。

 おぎゃーおぎゃー。

「ああ、この箱から聞こえるぞ。開けてみよう」

「おぎゃーおぎゃー」

「わぁ、なんて可愛い赤ちゃんだろう。そうだ、連れて帰ろう」

 ダンボールから抱き上げると、風子はきゃっきゃとうれしそうにはしゃぐ。

「もいちど!」

 しゅるっと僕の腕を降りて、再びダンボールの赤ちゃんになった。

「おや、赤ちゃんの声がするぞ。どこだろう…」

 風子は「もいちど」を繰り返し、僕はそれに付き合ってダンボールから赤ちゃんを拾い続ける。

 拾われるたびに、風子の顔は大輪の花のようにほころんだ。

 なんだか、出会えて良かったと言われているようで…、僕は不覚にも胸が何かでいっぱいになってしまい、思わず頬ずりをしてパパ痛いと抗議を受けた。



 いい加減疲れて重たくなった腕をちょっとさすって、もしかしたら明日は久々の筋肉痛かもしれないなどと思いながら、くたびれて眠ってしまった風子の腹にバスタオルをかける。

 まるで卵からかえるひな鳥のようだったな。ふと思った。

 大きなダンボールから生まれ続ける風子。

 拾い続ける僕には途中から、風子が生まれ直しているように見えていた。

 何度も、何度も。

 どんなに近くにいても、風子の心が見えることはない。

 僕はただ知りたくて、躍起になって目をこらすしかない。

 この不思議な遊びの意味も、だからつい穿った見方をしようとする。

 そこには何の意味もないのかもしれないけれど…。

 妻が送ってきた手探りの毎日が、今になってよくわかる。

 ちゃんと育てなくてはと悩んで、届かない言葉に苦しんで、自分を責めて。そうしてもがき疲れた彼女からタッチを受けたあの日、僕ら家族はもう一度生まれ直したんだろう。僕自身も。

 そうして、想像もしなかった新しい世界を見ている。

 そっと、丸い顔に流れかかる黒い髪をのけてやると、痒かったのか小さな手がごしごしと鼻を拭ってぱたりと落ちた。気持ちよさそうな眠りは続いている。

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