お守り

新樫 樹

お守り

 

 遅くなってごめんと彼は言って、私を抱きしめた。

 スーツのあまりの冷たさに、生地の薄い病衣の私は思わずふるりと身を震わせる。すると彼はもう一度、ごめんと言った。

 背中をなだめる手のひらは、とても温かかった。



 結婚すればいつかはと思っていた妊娠は、予想よりもずっと早く、想像よりもずっと辛かった。

 悪阻というものをドラマでしか見たことがなかった私は、それがかなり個人差があるということも、重症化することがあるということも知らなかった。

 出産間際まで仕事して、産んだら復帰する。

 そんな安易な計画は、妊娠3か月になって粉々に砕け散った。

 食べ物だけでなく水分までまったく受けつけなくなった身体は立つことさえもままならなくなって、検診のためにやっと行った病院ですぐさま入院するようにと言われてしまった。

「赤ちゃんは順調ですが、母体の健康のために少し様子をみましょう」

 園児をあやすような笑みで医師に言われ、あとで鏡に映った自分の顔を見て納得する。こんなになさけなくやつれた自分を見ることになるとは。こんなに何もかも嫌になるほど悪阻が辛いとは。

 いっそ死のうとはさすがに思わなかったが、死んだ方がマシとは毎日思った。

 無機質な病室のベッドで、一日中点滴に繋がったまま。

 ふと、なんで私はこんなところでこんなに苦しんでいるんだっけと、分からなくなる瞬間に怖気立つ。

 お腹のわが子のことなど、考える余裕もない。

 それがとても怖かった。



「どう?」

 彼は毎日仕事帰りに病室に来た。

 いつも冷たい空気をまとって、不釣り合いな呼吸の速さで。

 面会時間をずいぶん過ぎていても、ナースステーションから文句を言ってくる人は誰もいなかった。

「昨日より、少し、いいみたい…」

 私の答えも毎日変わらない。

 僅か過ぎる変化は自分でもわからないほどだったけれど、日数をかぞえればもうそろそろ落ち着いてもいい頃だと、片隅にかすかに残っている冷静な自分が判断して言わせていた。

「よかった」

 どんどん痩せていく身体に彼は気付いているはずだけれど、ただそう言って抱きしめる。そして祈るように背を撫でる。

 いつもならそうして帰るのだったけれど、その夜の彼はごそごそと自分の鞄を探り出した。

 どうしたの? という問いかけは荒い息で出てこない。

 こうしてベッドで起き上がっているだけでも、だんだん息が上がってくる。

「実はさ、今から出張に行くことになったんだ。急に決まって…けどきみに会ってからにしたくて夜行バスにしたんだけど…。それで…」

 探し物が見つかったのか、彼は手にしたものを私に見せた。

「本当は何か気の利いたものを持ってきたかったんだけど、支度の時間なくて…」

 こんなものしか置いていけない。

 微笑みながら出したそれは、愛用の電動髭剃りだった。

「明後日まで僕の代わりに。ああ、ちゃんと洗ってるから大丈夫だよ」

 手渡されて、思わずふふっと吐息がもれる。

「…あなたの、代わりに、髭剃り?」

 はははと彼も小さく笑う。

 つるりと冷たい感触が手のひらにひたりと寄り添う。

 胸がジンと熱くなって、吐き気が一瞬遠のいた。

「ありがとう」

「じゃあ、行ってくる」

 はっとしたようにちらりと時計を見て、幾度も振り返りながら彼は病室を出て行った。

 残された髭剃りは小さく絞ったライトを受けて、シルバーの表面にオレンジ色の温かな光を乗せている。

「変わった、お守りね…。あなたのパパは、面白いわね」

 そっとお腹に手を当てて、私は初めて小さな小さな我が子に話しかけた。

  

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お守り 新樫 樹 @arakashi-itsuki

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