Dinner.1 ミートソースパスタ 新世界より

 その電話がかかってきたのは夕暮れ――

 キッチンでパスタを茹でている時だった。


 僕は大きな鍋に多めの塩を入れて水を張り、沸騰するのを待っていた。

 キッチンの隅に置いたタブレットPCからは、モーツァルトの作曲したセレナーデ――『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』が静かに流れていて、小さな夜を迎えるその曲は、女性と目を合わせた時のように陽気な第一楽章から、女性の手を取って踊りに誘うような第二楽章の『ロマンス』へと移っていた。


 セレナーデとは、女性のために演奏させる曲で、主に夜に演奏される曲のことをさしてそう呼ぶ。ソースに絡み合うパスタを完成させるうえで、セレナーデほどうってつけな楽曲はないと僕は思っている。あくまでも、僕の持論ではあるけれど。


 僕の二つ折りの携帯電話が突然鳴った時、僕はなんとなくその電話がかかってくるような気がしていたので、それほど驚きもしなかった。ただ、電話に出る気にはなれななかったし、できることなら耳を塞いでしまい、その不機嫌そうなメロディを聞かなかったことにしなかった。


 これも僕の持論の一つなのだが、食事の支度をしている最中――または食事中にかかってくる電話は、たいていトラブルと相場が決まっているものなのだ。


 トラブル・イズ・マイ・ビジネス。


 トラブルを生業としている僕としては、この電話に出ざるをえないことは理解していたけれど、この電話がまた別の類のトラブルとだということも、だいたいにおいて理解していた。独身生活が長くなると、なんとなくその手の類の危機管理には目ざとくなれるものなのだ。


 僕は、携帯電話をスピーカーフォンにして出た。


「もしもし」

「もしもし、お兄ちゃん?」

 

 聞きなれたその声は、少しだけ不機嫌そうで、それでいて僕が電話に出たことに安心しているみたいでもあった。

 

 僕がマンションの一室で飢え死にしていると思っていたのだろうか? 


 昔から信頼の無さにかけては右に出るもののいない兄だったので、まぁ、それも仕方ないだろうと思った。うんざりしてしまう話だけれど。


「急に電話をかけてくるなよ。緊張するだろ」

「家族に緊張してどうするのよ?」

「僕はシャイなんだよ」

「昔から、私がうるさいって言うまで延々一人で喋りつづけたくせいに? ぜんぜん笑えないんだけれど」

「電話だと緊張して得意のジョークが披露できないんだよ」

 

 僕たちは、お決まりのつまらない会話をした。

 いつの頃からか、こんな儀式めいたやり取りをしないと僕たちは本題に入ることができなくなっていた。昔は彼女の部屋に入り浸って、一時間でも二時間でも延々話し続けていられた。それこそ、妹が「うるさい」「部屋から出てけ」と言っても、僕はいつまでだって喋る続けることができたはずなのに。


 世の中のありとあらゆるものを糾弾して、気に食わないものを徹底的に扱き下ろして、世界中を敵に回すようなことを平気で口にした後でも、僕の舌はいつまでだって回り続けた。それこそ、弁の永久機関のように。


 妹も、ある程度までは、そんな僕の話を面白がって聞いてくれていた。しかし、今そんな話をしようものなら、僕は間違いなく精神病棟にぶち込まれるか――犯罪者の予備軍として自宅に監禁でもされるだろう。


 もう、お互いに下らない冗談を言い合える年齢ではなくなっていた。

 僕たちは日に日に余所余所しく、そして年々他人になっていっていた。


「それで、何の用だ? 今、食事の準備をしているところなんだけど」

「こんな時間に食事? いったいどういう生活をしてるわけ。だって、まだ夕方の五時なのよ? 六時にだってなってないのに」

「昨日朝方まで酒を飲んでいたからさ。三時過ぎに起きて今から軽く食事をとるんだよ」

「呆れるわ。いつまでそんな生活をしてるんだか? まぁ、別にいいけど」

「所帯を持たない独身の男の生活なんてこんなものだよ。それより、要件を早く言ってくれないか?」

 

 僕は面倒くさそうに言いながら、パスタの残りのゆで時間を確認して、もう一つのコンロの上に置かれた鍋の中身をへらでゆっくりと混ぜた。


 その鍋の中には、濃い酸味と甘みの香るミートソースが弱火でじっくりと煮込まれていた。冷凍していたものを解凍したものだけれど、三日かけて煮込んだ特製のソースだった。


 照りつける真っ赤な太陽のようなソースは、程よく水分が飛び、早くパスタと絡み合う時を待っているように、鍋の中でプスプスと音を立てている。ステップを踏むみたいに。そして、セレナーデはその曲の役目を果たそうとするかのように、第三楽章へと足を進めようとしている。まるで、男女が仲睦まじく手を取るような感じで。


「いちいち聞かなくても、電話した理由くらい分かるでしょう? 私たちの両親の結婚記念日くらいは覚えてるでしょう。食事会をするから、お兄ちゃんにも出席してって電話よ。これ、毎年してるんだけど?」

 

 妹は、まるで生理中みたいに不機嫌な声音で言い放った。

 昔は、生理がはじまると底抜けに機嫌が悪かったことを思い出した。そんな時、僕はただ嵐が過ぎ去るのを待つ航海士のような気分で、一人部屋の隅で口を閉ざしていたものだ。誰も嵐には逆らえないのだ。


「それだったら、僕も毎年断っているだろ? 結婚記念日には、お前にお金を振り込んでるんだから、それでうまくやってくれよ」

「そう言う問題じゃないでしょう? 家族なんだから、年に一度くらい集まったって罰は当たらないでしょう。お金なんか振り込まなくていいから、顔を見せにきてほしいのよ」

 

 妹は、堪忍袋の緒が切れそうな声でそう言った。

 僕はどう答えるべきか迷ったけれど、昔のような調子で一発かましてみようって気分になっていた。


「僕たちが良く話し合っていた頃――僕が、家族について語ったことを覚えてるか? 家族なんて、しょせん血がつながっただけの他人だ。たまたま、他人同士がセックスをして、その結果、その成果物が他人の子宮から生まれてきたに過ぎない。もちろん、親を否定するつもりはないし、感謝をしていないわけじゃないけれど、僕は望んで家族の一員になったんじゃない。だから、世の中って奴が勝手に規定して、定義して、そしてつくりあげた家族なんていう空想を――僕たち子供に押し付けるのはやめてくれ。この世界に、家族の形なんてものは存在しない。理想の家族なんてもってのほかだ。世界中の常識だか、歴史だか、道徳だか、宗教だが、学者だか、精神科医なんかがうそぶいているそんなものを――家族の形だかを、頼むから僕に当てはめるのはやめてくれ。そんなものは、テレビのコマーシャル以下の価値もないんだ、ってさ」

 

 数十年ぶりに吐き出すそのクソ下らない演説は、一切のよどみなく僕の口から流れ出た。詰まっていたケチャップのチューブから、中身が勢いよく吐き出されたみたいだった。まるで言葉にされる時を、目の前にホットドッグのソーセージが現れるのを待っていたかのように。

 

 それは、僕の魂と舌にはっきりと刻まれた――

 僕の思想のようなものだった。


 ゴミのような思想で、ゴミ捨て場に置いてあっても誰も持って行ってくれない類の思想。永遠の置き去りにされて、腐っていく類のもの。

 ネズミの死体以下のものだ。

 

 そのことが、僕を底抜けにうんざりさせた。

 自分がこの世界で一番くだらない人間に思えて、まるで伸びきったパスタみたいな気分になった。

 

 しかし、これで電話が切れてこの会話も終わりだろうと思った。

 会話を打ち切りたい時に最も有効な手段は、相手に会話のできる相手ではないと思わせることだと、僕は経験則で学んでいた。

 これで、この不毛な会話も終わりだな。

 そんなことを思って携帯電話に手を伸ばした僕の考えと裏腹に、妹は電話を切らなかった。

 

 そして、絞り出すような声でこう言った。


「私のせい?」

 

 その声はとても傷ついていて、とても怯えていた。

 昔、静かすぎる夜に一人で眠れなかった頃の彼女のように。そんな時、彼女は決まって僕の布団の中に潜り込んできた。


「どうしてお前のせいなんだ? 僕のせいに決まってるじゃないか? 百パーセント――わずかな誤差もなく僕のせいだよ」

「私が、結婚をしたからでしょ? お兄ちゃん、私の旦那ことを気に入っていないんでしょう? つまらない人と結婚したって、うんざりしているんでしょう?」

 

 妹は、まるで確信しているような感じでそう言い切った。

 それは、今まで胸の内に秘めていたことを全て吐き出したような感じの言いかただった。詰まっていたケチャップのチューブから、中身が勢いよく吐き出されたみたいな。僕は自分がホットドッグになったような気分だった。

 

 いや、伸びきったパスタにケチャップがかかっただけの、できそこないパスタになった気分だった。とにかく、底抜けにうんざりする気分。


「それは、お前が勝手に勘違いをしているだけだ。別に、僕はお前の旦那のことを気に入っていなわけじゃないし、お前にガッカリもしていない。つまらない人かどうかはわからないけれど――僕は、お前の旦那に好感のようなものを持ったよ。元気な大学生みたいな感じがしてさ。いつもお前を笑わせてくれそうじゃないか?」

 

 最後の皮肉は余計だったと思いつつも、僕はそう言って妹を宥めた。正直なことを言えば、僕は妹が結婚した相手のことをつまらない人間だと思っていたし、そんな人間と結婚をした妹にガッカリもしていた。

 

 だけど、好感を持ったというのは本当のことだった。

 平凡そうな男だったけれど、何度かあった時はいつも他愛の無い冗談を言って場を盛り上げようとしていた。テレビのバラエティ番組から飛び出してきたような男だな、と思って僕は吐き気がしたけれど、幸せな家庭を築いてくれそうだと思ったのも事実だった。

 間違いなく幸せになる類に人間だった。


「つまらない嘘をつくのはやめてよ。私が結婚してから、家族の集まりにほとんど顔を出さなくなったじゃない? 年末年始も帰ってこない。お盆にも帰ってこない。両親の結婚記念日にだって帰ってこない。私の旦那のことを避けているんでしょう?」

 

 妹は、鋭く指摘した。

 それはある意味で事実だったけれど、その理由だけが大きく違っていた。これは妹の旦那のせいなんかではなく、あくまでも僕個人の問題なのだ。どこまで言っても、これは僕の性格や思想や魂の問題であって、妹の旦那のせいじゃない。

ましてや妹のせいなんかでもない。

 

 その差異を説明することは、非常に難しい。

 しかし、今はその差異を説明しなければいけなかった。

 

 彼女は結婚してからずっと、僕の行動に傷ついていたのだ。

 自分が間違った男と結婚してしまったのかもしれないと、深く思い悩んでいたのだ。

 そう考えると、僕は自分が許せなくなった。


「本当に、お前のせいじゃないんだ。これは、全部僕のせいなんだだよ。つまり、全て僕の問題と責任ということだ」

「私が結婚した後、お兄ちゃんが家族の集まりに来なくなることが、どうして全部お兄ちゃんのせいなの? 何の問題があるっていうのよ?」

「つまり、僕は他人といる時の顔を家族に見せたくないんだよ」

 

 僕は、いよいよ本心を白状した。


「僕は、目の前にいる相手によって――自分というものを使い分けているんだ。数少ない友人といる時の顔。古い友人といる時の顔。仕事上で付き合った人といる時の顔。女性と一緒にいる時の顔。他人といる時の顔。どうでもいい人間といる時の顔。そして、家族と一緒にいる時の顔。これらの顔には明確な差異があって、僕はその顔が重なることを、ひどく恐れているんだ。自分が何ものだか分らなくなってしまうんだよ。ちょうど色々な絵の具を混ぜ合わせて真っ黒になってしまうみたいにね。僕はそのことで自分を見失いたくないし、損ないたくないんだ」

「私の旦那だって家族の一員よ」

「悪いけど、お前の旦那が僕の家族の一人になることはない。僕の家族は、お前と、僕を生んでくれた二人の両親だけだ。彼は、僕にとって他人で、僕は彼の前では――他人といる時の僕の顔でいたいんだ。家族の顔でいたくない。そんなことをしてしまったら、僕はこの世の中の全ての人を家族だと思わなくちゃいけなくなる。そうなったら、僕は発狂するだろうね。もしかしたらジョン・レノンンみたいなお花畑になるかもしれないけれど、そうなったら、僕はどの道おしまいだ」

「あなただって、いつかと結婚をするでしょう? その人は家族の一員になるんじゃないの?」

「確かに、僕はいつか結婚するかもしれない。まぁ、しない可能性のほうが大きいと思うけれど。仮に僕が結婚をしたとしても、僕の結婚相手は――僕の家族の一員にはならない。それは、新しい家族になるんだ。そして、僕は新しい家族の顔をつくる。できることなら、二つの家族の顔が重なったりはしないでほしいと思うよ。心からね」

 

 僕がそこまで言うと、しばらく深い沈黙ができた。

 僕は、まるで自分が暗闇の中にいるような気分になった。


「そんなこと言ってると――お兄ちゃんは永遠に孤独なままよ?」

 

 妹は、少しだけ笑ってそう言った。

 まるで、我々がよく話し合っていた時のような親しさが、そこにはあった。


「だろうね。おそらく、僕は孤独が好きなんだと思うよ。孤独でいると、自分が完璧になったような気がするんだ。何をやるにも完璧にこなすことができるからさ。そして自分の好きなようにできる。例えば完璧なパスタをつくったりとかね」

 

 独身生活が長くなってくると、自分がどんどん完璧に近づいていくのが実感できるようになる。何をするにしても手を抜くことなく、自分の思想に基づいて行動をすることができようになる。しかし、そういった完璧さは、人間を徹底的に孤独にする。


 徹底的な孤独を一度でも同居人にしてしまうと、今度はそれを手放すことができなくなる。自分が完璧から遠ざかってしまうことを恐れるようになる。そして、その怖れを振り払うかのように、さらに深い孤独を選んでしまう。森の奥深くに足を進めるみたいに。


 僕のクソみたいな思想を聞いた妹は、声を出してくすくすと笑った。


「なんだか、昔に戻ったみたい。昔、よくこうしてあなたの下らない思想を延々聞かされていたのを思い出したわ。あの時は、私もいくぶんかお兄ちゃんに共感してたし、いつまでそんな考えをもっていたいって思っていたけど――社会に出て、それは軽蔑する類の思想だって分かった。でも、今は、いつまでもそんな思想を持ち続けているお兄ちゃんが、少し羨ましい」

「お前は、少し気が滅入っていて、物事を正常に考えられなくなっているんだよ。こんな思想は、社会不適合者の思想だ。幸せになりたいなら、真っ先に捨てる類のものなんだよ」

 

 僕が優しくそう言うと、妹は力なく「そうね」と頷いた。


「それで、何かあったんだろ? そろそろ本当の本題を切り出してみろよ」

 僕は、静かに尋ねた。

 妹が電話を切らなかったとき、僕は何かがあったんだろうと予感していた。そして、今の態度を聞いてそう確信した。きっと妹は、静かな夜が怖くなって僕の布団の中に潜り込んできたのだ。


「旦那と上手くいってないのか?」

「よく分ったわね」

「お兄ちゃんだからな」

「昔から頼りにならないお兄ちゃんだったけどね」

「弁解の余地もないよ」

 

 僕たちは、少しずつ親しみを取り戻していた。

 僕たちの間に、もう余所余所しさはなくなっていた。

 まるで我々が良く語り合っていた頃に――子供の頃に戻ったみたいだった。


「嘘よ。私は、お兄ちゃんをすごく頼りにしてた。ねぇ、覚えてる? 夕方のチャイムが鳴って私がまだ家に帰ってきていないと、お兄ちゃんは、いつだって家を飛び出して私を探しに来てくれたのよ。読みかけの本を放り出して、一生懸命に探してくれたでしょう? あれが嬉しくて、私はいつも夕方のチャイムが鳴るのを待っていたのよ」

「知らなかったよ。でも、聞けて良かった。お前を探しに行っていた自分を誇らしく思うよ」

 

 僕たちは、互いに夕方のチャイムの音を思い出していた。

 

 そのチャイムは、ドヴォルザークが作曲した交響曲第九番『新世界より』の第二楽章で、日本では『家路』や『遠き山に日は落ちて』のタイトルで知られる楽曲だった。

 とても懐かしく、そして優しい音楽だった。


「こんど、お前の旦那と話してみるよ。二人で」

「ありがとう。別にたいしいたことじゃないんだけれどね。なんだか、自分の家の中にまるで理解のできない他人がいるみたいで、最近話もしてないの。それで――」

「夜に怯えることもあるさ」

「夜に怯える?」

「ああ。人生って奴は、基本的に上がったり沈んだりだ。太陽が沈んでしまい、長い夜が来ることだってある。そういうことだよ」

「そうなのかしら?」

「ああ。長く暮らしていれば、そういうこともある。もともとは他人なんだから、たまにはうんざりもしてくる。とくにバラエティ番組から飛び出してきたような奴だと、なおさらにさ」

「かもね。彼、すごく良い人なんだけどね。家事も手伝ってくれるし、汚い言葉は使わないし、私のことをいつだって尊重してくれるし、とにかく私を楽しませてくれようとしてくれるし。でも、なんだかそんなところが全部うんざりしてきたの」

「結婚生活で気が滅入ってるんだよ。しばらく一人になりたいなら、僕の部屋を貸すから、二、三日ゆっくりするといい。僕はしばらくホテルで生活するよ」

「ずいぶんが余裕があるのね」

「それが独身生活の唯一の取り柄なんだよ」

「羨ましいわ」

「直ぐに羨ましくなくなるよ」

「かもね」

 

 妹は、少しだけすっきりしたようにそう言った。


「私ね――結婚したら、またあの夕方のチャイムが鳴った時みたいな、幸せな時間がたくさん来るんだって思ってた。でも、他人と暮らすっていうのは思ったよりも大変なものなのね。とくに、私たちみたいな考え方をしていると」

「違う」

 

 僕は、はっきりと否定して続けた。


「お前は、僕の下らない考えを意識し過ぎているだけなんだよ。僕が子供の頃に語ったゴミみたいな思想なんて、全部忘れるんだ。それは、幸せになるには全く必要のない考えなんだ。とにかく、一度お前の旦那と話してみるよ」

「ありがとう。食事の支度の最中にごめんなさい。でも、話せてよかった」

「僕も話せてよかったよ。今度二人でゆっくり食事でもしよう」

「ええ、そうね」

 

 僕たちは、そう言って電話を切った。


『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』の演奏はとっくに終わっていた。

 

 僕は、どっと疲れを感じてキッチンの小窓から外を眺めた。そこには、子供たちが家に帰る懐かしい夕暮れが広がっていた。目をつぶると、『家路』のメロディがはっきりと聞こえてきた。

 

 妹を探しに行ったあの夕暮れの音楽が。

 

 僕には、もう帰る場所はなかった。

 辿るべき家路どころか――僕の家は、もうどこにもない。

 家族も、今では他人と変わらない。

 それでも、僕は妹の兄だった。

 

 僕は素早く食事の準備をして、それを機械的に喉に運んだ。伸びきったパスタに、味のぼやけたソースは、およそ完璧とは言えない味だった。端的いえば不味かったけれど、どうしてだか家族の味がした。

 

 懐かしい味が。


『家路』のメロディが頭の中で流れている。

 でも、僕に帰るべき故郷はない。

 

 僕は、この孤独な世界で――

 新世界で生きていかなければいけない。


 多くのものを切り捨てながら。

 孤独に。


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