Breakfast.1 オムレツ An der schönen, blauen Donau

 朝食について考える時、僕はいつも女の子のことを考える。それも、今さっき洗濯したばかりって感じの真っ白なワンピースを着た女の子のことを。一日の始まりを予感させるような、そんな朝露のように無垢な女の子だ。


 きっとその小さな女の子は、小さな胸に大きな宇宙を隠している。そしていつか見えない国境線で仕切られたこのせま苦しい地球を飛び出して、夜空に輝く月に向っていくんだ。たぶん、そんな女の子。


 便宜上、僕はその女の子のことを『ソユーズ』と呼ぶことにする。ソユーズは月にたどり着けなかった宇宙船で、しかし今も地球から宇宙へと向っている素晴らしい宇宙船の名前だ。


 朝食について考える時、僕はいつもソユーズのことを考える。男の子の誰しもが胸に抱いてしまう、概念的で形而上学けいじじょうがく的な女の子のことを。それはたぶん僕たち男の子が抱く女の子のイデアであり――ソユーズはそのような意味で完璧な女の子なんだと思う。もちろん、僕にとって完璧って意味で。


「ずいぶんお寝坊さんなのね? もう十時過ぎよ」

「やぁ。時間に縛られないのがフリーで仕事をしているただ一つの良いところなんだよ」

「またそんなことばかり言って。あなたってたいして仕事もないんだから、しゃかりきに働いたほうがいいんだからね。そのうち食べるのにだって困っちゃうわよ?」

「朝から手厳しいなあ」

「ふふん。さぁ、つまらないおしゃべりは後にして早く朝食にしましょうよ」

「オーケー。素晴らしい提案だ」


 ソユーズはいつだって僕のそばにいて、そしていつだって僕と朝食を共にしている。別に僕の頭がおかしくなったわけでも、変な宗教に傾倒しているというわけでもない。もちろんチベットの秘術なんかも使ってない。僕はいたって正常だ。もちろん僕を異常だと思う人もいるかもしれないけれど、それは意見の相違だろう。平行線ということも世の中にあり得るのだ。残念ながらね。


「ほらほら。早く早く」


 僕はソユーズに言われるままに、白いカーテンの隙間から差し込む朝日を背にしてキッチンへ向かって行き、冷蔵庫の『ぺリエ』をグラスに注がずに飲んだ。炭酸水が口の中を洗い流し、朝の陽ざしのような清涼感をもたらしてくれた。


 僕は冷蔵庫の中を眺め続ける。完璧な女の子がそばにいるのなら、朝食だって完璧にしなければならない。それは当たり前のことだった。


 僕たちは完璧な朝食をとらなければならないのだ。

 たとえ、ひとりぼっちの食卓だろうとも。


 もちろん朝食をとらないという選択肢もあるだろう。オーケー。それはもちろん認められた選択だ。だけど、僕には朝食を食べないなんて言う選択肢はなかった。そんな味気のない朝を過ごすなんてことは――井戸の底で世の中を呪っているのと同じようなものだ。つまり、この素晴らしい朝への冒涜に他ならない。


 僕はスェットのポケットの中の『iPhone』を取り出し、画面を数回タップして『FMラジオ』を流した。クラシックチャンネルを選択する。


 朝靄のような弦のトレモロ。

 静かに顔を出すホルンの音色。

 川の流れのように緩急のついたワルツ曲がキッチンで優雅に流れ始め――息をのむように美しいその調べは、まるで青いドナウ川のほとりにいるようだった。


『美しく青きドナウ』。


『2001年宇宙の旅』の退場曲にも使われたこの楽曲は、オーストリアの作曲家ヨハン・シュトラウス2世によって作曲されたワルツ曲。もともとは、プロシア軍に敗れたオーストリア軍にショックを受けたウィーンの人々を慰めるために依頼された曲だが、その後に圧倒的な人気を博してワルツの最高峰の地位を手に入れた。毎年、元日の『ウィーンフィル・ニュー・イヤー・コンサート』でもアンコール曲として必ず演奏されている。


 つまり、なにかの始まりに――そして、なにかの終わりに相応しい最高の楽曲ということになる。完璧な女の子と一緒に朝食をとる時なんかには、まさに打ってつけの選曲ということになるだろう。


 僕はワルツ曲合わせて口笛を吹き、ワルツのリズムを指先で刻みながら冷蔵庫の食材を一つずつ手に取り、その鮮度を確かめる。卵、ベーコン、バター、牛乳、レタス、トマト。そしてそれらをキッチンに移して、バスケットの中の林檎を一つ手に取った。


「さてと――」

 

 僕はダニエル・バレンボイムが『ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団』を優しく導くように、キッチンに並んだ食材たちを一つの皿へと導こうと腕を振るった。トマトをペティナイフで切り、手で千切ったレタスを水に浸している時――僕は最近ある女性とした会話を思い出した。ふと。何気なく。


「あなたって、どうして家で一人で食事をするのかしら? それもわざわざ自分で手の込んだ料理をつくって」

「どうしてって言われても、食事をしなければお腹が空くじゃないか? それに一人で食事をとるのは友人が少ないからだよ」

「とてもそうは思えないけれど?」

「どうして?」

「あなたって好きこんで一人で食事をとっているというか、すすんで孤独を選んでいるような気がするわ」

「好きこんでひとりを――孤独を選ぶ人間なんていないよ。僕たちはみんな互いを必要としているし、胸の奥に開いてしまった深いクレーターのような孤独を埋めてほしいって願ってる。僕だって一緒さ」

 

 彼女はあまり納得してはいないみたいだった。


「オーケー。確かに僕は好きこんでひとりを選んでいるように見えるかもしれない。一週間のうち他人と食事をとるのは、せいぜい二回か三回だ。その回数が多いのか少ないかは僕には分らない。僕は世間で言われている常識という基準を持ち合わせていないみたいだからね。つまり物差しを必要としてない。誰かに雇われているわけでもないし、結婚をして子供がいるわけでもないし。でも、週に他人と食事をとるわずかな時間が、僕にとってはとても貴重で大切な時間だってことは分ってほしいんだ」

「つまり、食事の回数ではなく質が重要ってことかしら?」

「ある意味ではね」

 

 やはり彼女は納得してない様子だった。

 

 僕はボールに割った卵をかき混ぜながら、その会話の続きを思い出そうとした。それと並行して朝食の準備は進んでいた。まるで指揮者が楽団を音楽的ピークにもっていくかのように。


 フライパンにオリーブオイルを垂らして火をかける。温まったらバターを入れる。近所のベーカリーで購入した厚切りの食パンをオーブントースターへ。カップを二つ。片方にインスタントコーヒーの『マキシム』を目分量。電気ケトルのスイッチを入れるのも忘れずに。オリーブオイルとバターの香りがしてくる。良くかき混ぜて塩とコショウ、パルメザンチーズを入れた溶き卵をフライパンに流し込む。


「自分で料理をつくって食べるってことは、つまり生活を整えるってことなんだよ」

 

 僕はフライパンの中の卵を菜箸でかき混ぜながら、あの時の続きの言葉を思い出した。少しずつ火の通って行く卵に意識を向けたまま。


「外食や、友人や知人たちとの食事ももちろん素晴らしいけれど、それらはやはり非日常なんだと思う。自分を日常や現実に留めておくために僕は自分で料理をつくり、それを食べる必要があるような気がするんだ。ある意味でそれは儀式みたいなものなのかもしれない」

 

 かき混ぜた卵の端を菜箸でつつきながら、フライパンを優しく揺すって形を整えていく。生活を整え、僕自身の日常に現実に留めておくみたいに。焦らず、慌てず、形を崩さないようにゆっくりと整える。不細工だってかまわない。少し形が崩れたっていい。ゆっくりと丁寧に形を整えるんだ。


「それは、外食や他人との食事では得られない感覚なのかしら?」

「分らない。今まで自分の生活や日常を他人と共有したことがないからね。もしかしたらできるのかもしれないし――僕には無理なのかもしれない」

「これまで、ためしてみようとは思はなかったの?」

「それはとても慎重に、とても時間をかけてゆっくりとやらなければいけないような気がするんだ。そうだな? オムレツをつくるみたいに。とても丁寧に形を整えなければいけないような気が」

 

 手首をポンポンと叩いてフライパンをあおると、オムレツは出来上がっていた。まるで美しくかけた月のように、白い皿の上で輝いている。だけど、他人と生活や日常を共有するというのは、オムレツのように簡単にできる話ではない。つまりテクニックや経験ではどうにもならない話なんだ思う。残念ながら。月にたどり着くのは容易じゃない。

 

 月にはたどり着けなくても――完璧な朝食は完成を迎えようとしていた。

 

 オムレツをつくったフライパンを強火にしてベーコンを焼く。食パンをオーブントースターから出してマーガリンを塗る。オムレツの皿にトマトとレタスを盛り、『キューピー』の『深煎りごまドレッシング』をかける。さらにその上からパルメザンチーズを振る。オムレツにはパセリを散らす。コーヒーをつくる。もう片方のカップに牛乳を注ぐ。カリカリに焼いたベーコンをオムレツの上に飾る。

 

 キッチンを眺めると、完璧な朝食が色鮮やかに完成していた。タクトを振り終えた指揮者が演奏を終えたオーケストラを見つめるみたいに壮観だった。

 

 僕は朝食をリビングのテーブルに移し、さっそく空腹を満たそうとした。

 僕の目の前にはソユーズがいて、彼女の前にもイデアとして朝食が――概念や形而上学的な朝食が置かれていて、僕と一緒に「いただきます」をするところだった。


「いただきます」

「いただきます」

 

 僕はトーストにカリカリのベーコンを乗せて一口ほうばった。濃い小麦の匂いと甘いマーガリンの味、そしてベーコンの塩分が口に広がり――僕はそれを牛乳で喉の奥に流し込んだ。オムレツをフォークでつつくと中から半熟の卵がこぼれだして黄色の海ができあがっていく。オムレツはとてもふんわりとしていて、口の中で溶けて消えた。大地に染む込む恵みの雨のように。


「美味しいね」

 

 ソユーズは微笑を浮かべてオムレツをほおばっている。口の周りにケチャップがついていて、僕はそれをハンカチでぬぐってあげようかなって考えた。

 

 すると、不意に僕の『iPhone』が振動した。それは何かの予感をはらんだ震え方で、僕は思わず身構えた。この後、何かが起きるということが直感的に分ったような気がしていた。


「もしもし」

「もしもし」

 

 案の定、回線の向こう側の女性は不機嫌だった。


「ねぇ、今日は夫も子供もいないから私の家に早く来てくれる約束だったわよね?」

「確かに。そういう約束だった気がするし、僕はそのつもりだけど」

「じゃあ、どうして十一時を過ぎても私はひとりぼっちで部屋の隅にいるのかしら?」

「昨日、色々あって仕事が立て込んでいたんだよ。今、そっちに行く準備をしてるところなんだ」

 

 僕の目の前には完璧な朝食の残骸があった。先ほどまで輝いていたはずの食事は、途端に色を失ってくすんで見えた。


 ソユーズはいつの間にか僕の前から消えていた。彼女は気まぐれな猫みたいな女の子だった。それでいてとても嫉妬深いので、他の女性と会話をしている時なんかには現れてはくれないのだ。絶対に。


「ばかっ。知らないっ。私つまんないから帰る」

 

 唇をとがらせてむくれっ面になったソユーズの顔が思い浮かんだ。しかし、今は目の前の問題を片付けなければいけなかった。時間は有限なのだ。いつだって。


「後、三十分で必ず行くよ。だから機嫌を直して待っていてほしいんだ。埋め合わせは必ずするから」

「知らない。会ってから誠意を確かめるわ」

 

 彼女はそれだけ言うと乱暴に電話を切ってしまった。静まり返った部屋の中には、ある種の寂しさと悲しさが充満していた。僕は味気なくなくった朝食を喉の奥に流し込んだ。冷めたコーヒーはいつもよりも苦く、そして不味かった。そして、ソユーズがいたはずの空間をぼんやりと眺めた。別の女性のことを考えながら。

 

 ミサトは最近知り合った女性だった。外資系の企業に勤める夫と二児の子を持つ母親で、年齢は三十を少し過ぎたばかり。傍目には完璧な幸せをもつ女性に見えた。少なくとも僕よりは。


 人は幸せな家庭を築いていたとしても、ふとした時にひとりぼっちになってしまうものなのだ。そして、時としてその欠けた心の隙間は身近な人では埋められない孤独だったりする。好きこんで孤独を選ぶ人間なんていない。そして本当に恐ろしい孤独とは、彼女のように愛する者に囲まれていながら感じてしまう孤独なのかもしれない。

 

 僕はソユーズのことを考えた。

 月にたどり着けなかった完璧な女の子のことを。

 

 僕はひとりぼっちの朝食のことを考えた。

 生活を整えなくちゃいけないと思った。

 現実に自分を留めておくために。

 

 だけど、僕は今からミサトに会いに行く。そして、またこんな朝食を繰り返すのだろう。なんどなんども。


 美しき青いドナウに流されるように。

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