おもひでの、舟を漕ぐ

 眉のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて榜ぐ舟泊知らずも


 

 春先の徳島はうだるように暑かった。

 

 僕は着ている色も分からないジャンパーを脱ごうとしたけれど、僕の腕に手をまわしているかほりのことを思ってやめた。何かしようとする度に、かほりのことを考えてしまう癖が、今の僕には沁みついていた。

 

 徳島に来るのはこれで二度目。

 徳島はかほりの生まれ故郷で、僕たちがまだ大学生の頃に一緒に訪れた。


「徳島ってね、『阿波あわおどり』を中心に一年が回っているのよ」

 

 かほりは、いつもそうに言って楽しそうにくすくすと笑い――「阿波おどりなんて、踊れる人のほうが少ないのにね」と続ける。

 

 生まれ故郷の徳島が大好きなかほりは、いつも僕に徳島の話をしてくれた。

 県の八割を山地が占める豊かな自然と、温暖な気候に育まれた多彩な文化を持つ徳島県。観光名所も数多く――何より、かほりが「それを中心に一年が回っている」と言った夏に行われる『阿波おどり』は、県一番の観光資源。

 

 先程僕たちが降り立った空港が『徳島阿波おどり空港』というのだから、県民の阿波おどりへの入れ込み具合が伺える。『阿波の国』とはよく言ったものだ。

 

 僕たちが向かっている『眉山びざん』も、徳島の観光名所の一つ。

 どこから見ても眉に見える美しい山。故に眉山。

 

 僕たちはロープウェイに乗って山を上って行く。

 十年ほど前に訪れた時も、こうやってロープウェイに乗って山頂を目指した。


 春の眉山は桜の名所。

 前に眉山を訪れた時、その時の景色をしっかりと胸に刻みつけておかなかったことを、僕は少しだけ後悔していた。


 あの時、僕は徳島への旅行に乗り気じゃなく、かほりに半ば強引に連れてこられたようなものだった。


「私の実家には顔を出さなくていいからさ、眉山の景色だけでも一緒に見ようよ。きっと気に入ると思うから」

「わかったよ、それなら」

 

 あの時、本当に僕が彼女の実家に顔を出さなかったことで、しばらくの間、僕たち仲は険悪になった。よく別れずに済んだものだと思ったけれど、あの時別れていればとも考えてしまう。

 

 それくらい、僕たちの今の関係は複雑なものに変わっていた。


 ロープウェイに揺られながら、僕は瞼まぶたの裏に眉山の景色を思い浮かべてみた。けれど、あの時の景色はおぼろげて、それを思い出すことはとても困難なことだった。


 僕は手に持った白い杖に力を込める。

 過ぎ去ってしまったものに手を伸ばすには、僕は歳をとり過ぎたのかもしれない。


「そろそろつくよ」

 

 僕の隣に腰を掛けたかほりがそう言って、僕の腕に手を回す。


「大丈夫?」

「ああ、大丈夫だよ」

 

 僕はそう言ったけれど、僕には自分が大丈夫なのか、大丈夫じゃないのかまるで分らなかった。かほりが隣にいてくれなかったら、僕は本当の意味での迷子になっていただろうと思う。

 

 僕たちはロープウェイを降りて山頂に出た。

 桜の花が舞い散っているはずの――


 おもひでの場所へ。

 

 2

 

 かほりと出会ったのは大学の研究室。彼女は、雨の少ない徳島の空のように晴れ渡った性格の女の子だった。


「私のかほりって名前、母が『万葉集』とか『百人一首』みたいで可愛いからって理由で付けたの」

 

 出会って直ぐの頃、彼女は自分の名前の由来を話してくれた。


「でもね、よくよく調べてみると、旧仮名使いでは『かおり』のことを『かほり』なんて言わないの。『かおり』は『かをり』。でも、この名前、すごく気に入っているのよ」

 

 かほりはそう言いながらころころと笑い、それ以降、僕たちの間で会話を旧仮名調にするのが流行った。


「『眉まよのごと雲居に見ゆる阿波の山かけて榜こぐ舟泊とまり知らずも』。私、万葉集に出てくるこの句が好きなの」

 

 彼女は、自分の故郷を歌ったこの句を好んでいて、句を読むたびに「いつか一緒に行こうね」と添えた。約束を交わすみたいに。

 

 あの頃の僕たちには、阿波の山を目指して舟を進めるだけの若さと情熱があった。だけど、今の僕は暗い海の真ん中で立ち往生した難破船。行き先も分らない、それどころか海を照らす光さえ見ない。

 

 山頂から徳島を見下ろしている今も、僕の目の前は暗闇に閉ざされたまま。

 山頂から見えるはずの景色は何一つ伺えず、ただおもひでの中のおぼろげな景色だけが、瞼の裏に広がっている。

 

 僕が視力を失ってから、三年の月日が経っていた。

 僕が少しずつ光を失い始めてから、僕とかほりの間には様々な困難があった。


 僕たちは何度も喧嘩した。怒鳴り合い、叫び合い、泣き合い、互いを傷つけあった。憎しみに近いような言葉を使ったことだって、一度や二度じゃない。それでも、かほりは今も僕の隣に立って、行き先を失った僕を支えてくれている。


 僕という舟が沈まないように。


「ほら、あなたの指の先にね。私の故郷の街が見えるよ。背の低い小さな建物がね、身を寄せ合って集まってる。あっちには白い雲のかかった淡路島、それに今日は青い海の向こうに和歌山県も見えるね」

 

 かほりは僕の指先を動かしながら、一つ一つ丁寧に眉山からの景色を説明してくれた。


 僕はかほりの言葉を頼りにして、おもひでの景色を描き直した。

 そして、少しでも阿波の山に近づけるように、舟を漕ぎ直そうとした。


「それに、綺麗な桜が咲いてるよ。たくさんの人が桜を見てる」

 

 僕は眉山の桜を思い浮かべた。

 桜の花びらが舞う景色を。


「夏が来たら、阿波おどりが見れるね。秋と冬になったら美味しものがたくさんあるよ。さつまいも、牡蠣、そば米ぞうすいも。それに――」

 

 かほりは声を震わせながら続けようとする。

 彼女は泣いていた。


「来年も、眉山の桜を見にこようね。おもひで、いっぱいつくろうね」


 強い思いがこもったその言葉が、僕の胸を大きく揺さぶった。

 これまでのおもひでの全てを浮かび上がらせるみたいに。

 

 僕は光を失ったけれど、全てを失ったわけじゃなかった。

 僕には、かほりと過ごしたおもひでの景色があった。

 色あせることのない二人だけの景色が。

 

 舟を漕ぐ音が聞こえてきた。

 長い時間をかけて、今ようやく、僕は阿波の山にたどりつこうとしていた。

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