それは、恋であったり、別れであったり。古い記憶でも、夢のようでもあります。
掌のなかにおさまるちいさな物たちだったり、遠く数百粁を超えて伝わる恋人の声であったりします。
真冬の凍みた青空であり、雨雲にかくれて見えない月でもあります。
詩のようであり、歌のようであり。未だ聴いたことのないリズムかと思えば、こちらの胸の奥に眠る感情を、ぎゅっとつかむものでもあります。
共通するのは、誰しも覚えのある(または、想像に難くない)身近でささやかな想い、でしょうか……。
丁寧に言葉を選んで語られる繊細なことどもが、とても愛おしく感じられる。そんな短編集です。
一番好きなフレーズは、『月明かり雨』。
著者自身が雨なので、雨が降っては月の君に出逢えないが、お天気雨のように『月明かり雨』もあるのだと。
また、『恋るす惑星』のような、ロマンティックな言葉遊びも面白い。
一つ一つのフレーズが、いつしか置き忘れてきた少女や少年の心をハッと思い起こさせてくれるような、透明で綺麗な何かで出来ている。
かと思えば、その置き忘れてきた心のまま、強かに恋心を弄ぶ純粋な片想いが飛び出したりもする。
著者がよくなくしてしまうと語っている、気に入りのおもちゃの指輪のような、大切な言葉に溢れている。
この惑星を構成する元素の数を、種類を、私は知らない。
およそ70億超の人が住む地球という惑星で、平均80年ほどしかない一生の中で、私たちが知ることの出来るものはとても少ないし、出会うことの出来る人はもっと少ないだろう。
宇宙の果ては遠く、とても近い位置にいるはずの月でさえ38万km以上の距離がある。
時速270kmの新幹線に乗っても2ヶ月近い時間がかかる計算だ。
隣の惑星に至っては、金星が4200万kmで火星が7800万kmだという。
そんな遠い遠い場所に、彼女はちょっとそこまでと言うようにふらりと出かけてしまう。
だから留守にすると思う、なんてあっけらかんと笑う彼女は、まさに恋する惑星。いや恋るす惑星。
彼女の想いは、ウインクは、言葉になって光になって姿を変えながらぐんぐんと惑星の彼方を目指していく。
光の尾を引く彗星のようだ、と私は思った。気がつけばその光に恋をしていた。
どのくらいの距離があるのだろう。そんなこと全然わからないけれど、その光の欠片は私が握りしめた小さな窓に降ってきた。この広い銀河系で、天文学的な確率で。
会いたかった。そんな言葉が、どちらからともなく生まれる。
夜の暗闇で、液晶ディスプレイの光がぼうっと輝いた。
あぁ、私は今。恋をしている。
だけどその方が、ちょっとたのしい。待ちわびる切なさの向こう側から、きっといつかやってくる甘やかな夜の美しさ。
そこに描かれている思いは、待っている、待ち続ける痛みだけれど、その繊細な文字の上には、書かれていない向こう側から、ふっと甘美な色彩がにじみ出る。そして痛みをともなった言葉は、誰かに届いて欲しい言葉は、真っ白な空中を舞う言葉の花束。
詩とは、空中の花束である。いつかそう書いたのは誰だったか、とおい誰かへ宛てた花束は、その文字の空中に漂う香りは、たしかにきらめく寂しい詩として、きっと、見てくれるかもしれないなんて、あまりに心もとない期待となって、淡くふわふわ漂っている。その切なさは、届いたのか、それとも届かなかったのか、それは差出人と受取人にしかわからず、わからないまま、色は移って、いつしかみな郷愁になってゆく。
そんな郷愁のつまったノスタルジアの箱に、こっそりしまわれた誰かへの手紙が、移り気なあなたのとおい未来、今この時が過去になった頃、もう一度そっと開かれて、少しだけ甘やかな残り香を漂わせる。その日に、想いを馳せずにはいられない。
そんな、切なさと痛みと、やって来る幸福と、そしてそれらが郷愁になっていく時の、美しい瞬間を大切に集めた、とっても素敵な、ノスタルジアの箱。
僕の灯りは淡くてみにくい。
黄色い色に白が混じって、自慢できる灯りじゃない。
それでも貴女はこの色を、綺麗だねと言ってくれた。
遠い昔に葉の陰で。
そして聞こえる。いつかの声色。
こっちの水は甘いと歌う、伸びやかで艶めいた声。
僕は知ってる。
あのひとは嘘を言ったりしない。
だから僕は誘われる。
向こうに見える山並みに、貴女の影の幻を見る。
僕はこれでも精一杯に、足を動かし背を羽ばたかせ、消えゆく跡を追いかける。
僕は夜汽車を使わないよ?
使えないよ。
貴女を追い越したくなんて、ないから。
移り気な貴女。
「浅い眠りの夜風がもらす、微かな声を聞きたいから――
「月に絆(ほだ)され心を許した、石達の色を見たいから――
そんなどうしようもない理由で、汽車から降りて行ってしまう。
僕に予測は出来ないよ。
もし、追い越してしまったら。
そんな事を考えて、僕は夜汽車のホームを去るんだ。
もし、貴女の後ろに立ってしまったら。
後ろに隠した籠なんて、僕は見たいと思わない。
僕が知ってる星座なんて無い。知ってる星は一つだけ。
小夜曲なんて僕は弾けない。覚えてる音は一つだけ。
僕の灯りは一つだけ。
貴女の興味を引けたのは奇跡で、飽きられたのは必然なんだ。
戯れに手のぬくもりを与えられ、気まぐれに解き放たれた見知らぬ地。
僕は貴女の影を追う。
貴女は気の多いひと。
そして、嘘を言わないひと。
月の形の数ほどの愛する気持ちを知っていて、雨音の数だけ好きを言える。
僕にこっそり教えてくれた貴女の心を占める恋。
「いつまで経ってもこっちを向いてくれないあの眼差しは、お月様と言うのよ」
「湿っぽく心を叩いてくる音は、雨音というのよ」
声は止まない。
どこかでも、誰かに教えてた。
誰に送った言葉も真実。
どこにも嘘なんてなかった。
貴女の声が、聞きたい。
苦い水と歌わない限り、僕は世界を飛べるんだ。
籠を隠してくれるなら、貴女の周りを無邪気に飛べる。
また気まぐれに、細く長い指を反らせて誘ってくれたら、指先で、気が済むまで光ってみせる。
もしも、二度目の奇跡が起きて、僕を捕らえてくれるなら――
入れられたのは小さな籠。
黄金に光る甲虫。
瑠璃色に閃く小さな羽虫。
どこで捕まえたのだろう。水の中で生まれた虹の様な、碧の灯を持つ遠い僕の仲間達。
僕に羽を広げられる場所は無い。
飛ぶ必要の無い貴女の檻。
望んだ獄。
籠絡の蟲籠。
僕は知ってる。
貴女は嘘を言わないひとだ。
いつかまた、気まぐれに、「綺麗ね」と微笑んでくれる時のために。
どれが僕なのかを忘れられないように。
僕は僕だけの灯りをともす。
いつかまた、手のぬくもりをもらえるように。
僕のままで、待っています。
いつかまた、優しい言葉をもらえるように。
いつかまた、甘い水を飲ませてもらえるように。
いつか、情を教えてもらえますように。
いつか――
お願い神様。
永遠を、下さい。