第14話「幻の寺」

 百合。

 君の名を呼ぶだけで、僕の胸は、取り返しのつかない後悔で押しつぶされそうになる。時間が癒してくれると人はいうかもしれない。しかしこの一年、君への思慕はますますつのるばかりだ。

 

 あの日は天気予報がはずれ、朝から小雨が降り出した。

「今日は、やめとく?」

 君はそう言いながら、せっかく干した洗濯物を部屋へ取り込んでいる。入り込んでくる湿り気が部屋を重くし始めていた。

 君は、乗り気、でなかったんだよね。

 僕は「そうだね」と首を縦にふりさえすればよかったのに、そうしなかった。

「美術館だから、入ってしまえば屋根があるさ。行こうよ」

 楽しみにしていた絵画展だったのだ。先月買ったばかりの新車を走らせたいっていうのもあったし、悪阻には気分転換がいいという話を小耳にはさんだっていうことも理由だった。百合は妊娠六ヶ月であった。


 人が何かを選択するときに、存在する、理由。そんなもののために、僕は大切なかけがえのない人を失ってしまった。


 次第に雨は本降りになり、僕はワイパーの速度をあげた。

 僕らの車がちょうどカーブにさしかかる時時に、同時にやってきた対向車のトラックの荷台が崩れた。その結果、積荷の鉄骨が、僕と百合と、そしてまだ名前さえなかった僕らの子を、直撃した。

 なぜ僕だけ生き残ってしまったのか、なぜあの時あそこを走っていたのか。いや、それよりもなぜ出かけてしまったのか。

 究極をいえば、なぜ僕らは出会ってしまったのか。

 僕と出会えなければ、今ごろ百合はどこかで元気に生きていたのじゃないか。僕らの赤ん坊もどこかで形を変えて生まれることができたのでないか。


 君が最期に観たものは、暗く沈んだ雨空だった。堂々巡りの出口のない迷路にはまりこんでいく。


 死にたかった 

 死ぬつもりだった。

 百合の一周忌を済ませ、その足で僕は富士の樹海に入っていった。


 どれくらい歩いただろう。あたりは足元さえ見えない暗闇に沈んでいた。

 ──喉が乾いた。

 心で死にたいと思っていても、身体は生きたいと思っている。だから喉が乾くんだと思ったら、可笑しくて笑いがこみ上げてきた。クク、クククク。アハハハハ……。ひとしきり笑ったあと、妙な音が聴こえてくるのに気付いた。 


 びいいぃぃ……ん。

 空耳か? いや、ちゃんと聴こえている。

 それにしてもなんとも物悲しい音色だなあ。

 音だけを頼りに手探りで歩いていくと、ぼんやりと灯りが見えた。梵鐘があることで、かろうじて寺と思える、廃屋のような古い寺があった。

 樹海の中に寺が? おそるおそる寺の中をのぞくと、ろうそくがゆらめく座敷に、ひとりの僧侶が座り、楽器のようなものを抱えて弾いている。音はそこから発せられているようだった。

 ──びいいぃぃ……ん。祇園精舎のぉ鐘のおとぉぉ……。

 腹の底から絞り出すような声で、語りが始まった。

 それまで波打っていた心が、不思議に静かになっていくのを感じながら、しばらくその旋律に耳を澄ませていた。

 

 唄が終わり僧侶は僕に言った。

「平家琵琶でございます。お手にとってみられますか?」

 導かれるように、今まで僧侶が弾いていたその楽器を受け取る。丸い曲線がまるで僕の身体にあつらえたように、懐にすっぽりと馴染んだ。抱いた琵琶は温かかった。まるでそこに体温があるように。

「人の子を抱いているようではありませぬか?」

「こんな、こんな感じなのでしょうか? 僕は我が子を抱くことが出来ませんでした」

 強く抱きしめると、無性に愛おしかった。

「愛別離苦の苦しさは、わたくしもよう存じておりまする。それは、かなしいかな、いにしえから変わらぬ人のさだめ。さすればこうして、ここで御弔いさせていただいておるのです」

 さらに僧侶は扇型のばちを手渡して、僕に弾いてみるように言う。開いた瞳の奥が柔らかに光っていた。

「そのばちは、西国の温かな太陽と清らかな水で育ちました、つげの木で作られております。木は切られて、ひとつの命を終えますが、死んでしまったわけではないのです。ばち、という新しい命を生きているのでございます。よろしければ差し上げましょう」

 うながされるように、一気にそれを振り下ろす。

 びいいぃぃ……ん。僕は何ども何どもその絃をかき鳴らした。

 びいいぃぃ……ん、びいいぃぃ……ん。新しい命。ほほを涙が伝っていく。

    ◇

 気づいてみれば夜が明けていた。晴天だった。まばゆいばかりの陽。樹海の入口で僕は倒れていた。

 ──ああ、あれは夢だったのか。

 ふとみると、手にあのばちが握られている。しみじみと見てみれば、何百年も使いこまれたような艶やかな飴色をした、ばちであった。

 芳しい匂いがして振り返る。

「百合!」

 思わす叫ぶ。胸のなかに温かいものが満ちてくる。道の傍らで百合の花が白く笑っていた。

 今、君が見ているのは、美しい空なんだね。

 僕も一緒にそれを見ているよ。

 生きていく理由を僕はみつけた、それはこんなにもかなしく、美しい。

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